第三話 死よりも恐ろしいもの
夏が訪れた。
古い聖堂には、いつの間にか花が飾られるようになっていた。割れた窓には新しい硝子が嵌められ、埃を被っていた椅子には柔らかな敷物が置かれている。すべて、リゼの仕業だった。
「ここは私の家なんだが」
「存じておりますわ」
「なぜ勝手に模様替えをする」
「だって、綺麗なほうが素敵でしょう?」
リゼは悪びれもせずに笑った。その手には、庭で摘んできたらしい白い花が握られている。
「それに、あなたはご自分のことに無頓着すぎます。お茶を淹れるのはお上手なのに、お部屋の片づけはお嫌いなのね」
「何百年も住んでいれば、多少は散らかるものだ」
「多少?」
リゼは床に積み重なった書物を見下ろした。アシェルは目を逸らした。
こうしてリゼは、今日も勝手に聖堂の片づけを始めた。初めの頃こそ追い返そうとしていたアシェルだったが、今ではすっかり諦めている。
それどころか、彼女の来ない日は妙に落ち着かなかった。扉の開く音を待ち、遠くから足音が聞こえれば顔を上げる。彼女が笑えば嬉しくなり、疲れた顔をしていれば気にかかる。
それが何を意味するのか、彼はとうに理解していた。ただ、認めたくなかっただけである。
「アシェル?」
呼ばれて顔を上げると、リゼが不思議そうに彼を見つめていた。
「どうかなさった?」
「……いや」
「そう?」
彼女は小首を傾げ、手にしていた花を花瓶へ挿した。その拍子に、小さく声を上げる。
「痛っ」
「どうした」
「茎の棘が刺さってしまったみたい」
リゼの指先には、小さな血の玉が浮かんでいた。ほんの些細な傷だった。神の奇跡を使うまでもなく、数日もすれば治ってしまうだろう。
けれどアシェルは、思わず彼女の手を取っていた。
「気をつけろ」
「大丈夫よ、こんな小さな傷」
「それでも痛いだろう」
「ええ、少しは」
リゼは笑った。
アシェルはその指先を見つめた。滲んだ赤色が、彼女が人間であることを、嫌というほど思い知らせてくる。
リゼは傷つく。病にも罹る。そしていつか、必ず死ぬ。
そのとき、自分はどうすればいいのだろう。
「アシェル」
リゼの声で我に返った。
「そんなに怖い顔をしないで」
「……怖い顔?」
「ええ。まるで私が大怪我でもしたみたい」
彼女は困ったように笑った。
「ほら、もう血も止まったわ」
アシェルは何も答えなかった。彼女の指先に残っているのは、確かにごく小さな傷だけだった。けれど、彼の胸に芽生えた恐怖は、消えてくれなかった。
*
その夜、リゼは珍しく昔の話を尋ねた。
「ねえ、アシェル。あなたは元々、天使だったのでしょう?」
「……そうだ」
「どんな天使だったの?」
アシェルはしばらく考え込んだ。
遠い昔のことだった。
かつての彼には、白い翼があった。神の御前に侍り、天上の光のなかで暮らしていた。そして与えられていた役目は、死せる者の魂を迎えることだった。
「私は、死者を天へ導く天使だった」
「死者を?」
「ああ。人間が息を引き取るとき、その魂が迷わぬように迎えに行く。それが私の務めだった」
リゼは静かに耳を傾けている。
「死を恐れる者もいた。もっと生きたいと泣く者もいた。だが最後には、誰もが私の手を取った」
「……そうなのね」
「私は彼らを哀れだと思ったことはなかった。むしろ、人間の生涯というものを美しいと思っていた」
アシェルは窓の向こうを見つめた。
「終わりがあるからこそ、彼らには一日一日がかけがえのないものだったのだ」
天使にも、いつか終わりは訪れる。
役目を果たし終えた天使は、その魂を神の光へと還す。それは消滅というより、安らかな眠りに近いものだった。
ただし、一度光へ還った魂は、二度と以前と同じ人格を取り戻すことはない。魂は神のもとに残っても、その天使としての生涯は終わるのだ。
アシェルもまた、いつかその日が来るのだと思っていた。
ところが、神は彼に告げたのである。
愛しい我が子よ。汝には永遠を与えよう。
「私は、天使たちのなかでも殊に神から愛されていた」
アシェルは自嘲するように笑った。
「神は私を失いたくなかったのだろう。だから私にだけ、決して終わることのない命を授けた」
「あなたは、喜ばなかったの?」
「……喜ぶべきだったのかもしれない」
彼は静かに首を横に振った。
「だが、私は拒んだ。いつか自分にも終わりが訪れることを、望んでいたからだ」
神は理解しなかった。
永遠を与えられることの、何が不幸なのか。愛する者が決して失われないというのに、なぜそれを拒むのか。
アシェルは何度も願った。けれど神は、ついに祝福を取り消さなかった。
やがて彼は神の定めに背き、天上を去ろうとした。
神の役目を授かった天使が、自らその秩序を拒絶したのである。
その反逆によって翼は黒く染まり、額には角が生えた。神に仕えた天使は、地上を彷徨う悪魔となった。
「それでも、神は私から永遠を取り上げなかった」
アシェルは呟いた。
「私が拒んだのは天使としての役目だった。だが永遠の命は、私の魂そのものに刻まれていた。堕天しても、地上で肉体を得ても、その祝福だけは離れなかったんだ」
それは、神が彼のためだけに授けた特別な祝福だった。
「私は神に背いた。神を拒み、与えられた務めさえ捨てた。それでも神は、私を愛することをやめなかった」
だから、死ねない。
いくら祈っても、いくら願っても。
神の愛だけは、彼を決して解き放ってはくれないのだ。
リゼは長い間、黙っていた。やがて、そっと彼の手を握った。
「あなたは、神様を憎んでいらっしゃるの?」
「……わからない」
アシェルは正直に答えた。
「恨んだことはある。憎もうとしたこともある。だが、神の愛が偽りではなかったことも、私は知っている」
だからこそ、苦しいのだ。
悪意による呪いであれば、いっそ憎むこともできただろう。けれど神は、ただ純粋に彼を愛していた。
「神様は、あなたを失うことが怖かったのかもしれないわね」
ぽつりとリゼが呟いた。アシェルは彼女を見た。
「愛しているから、いなくなってほしくなかったのでしょう?」
「……そうだろうな」
「でも、あなたはその愛に苦しんでいる」
「ああ」
「難しいものね、愛って」
リゼは困ったように微笑んだ。
その横顔を見つめながら、アシェルはふと思った。
神が彼を失うことを恐れた気持ちを、今の自分は理解できてしまう。目の前の娘がいなくなる未来など、想像したくもない。
そのことに気づいた瞬間、背筋が冷たくなった。
*
翌日から、アシェルはリゼを避けるようになった。
聖堂の扉に鍵をかけ、訪ねてきても顔を出さない。リゼは何度か扉を叩いたが、やがて来なくなった。
それでいい、と彼は自分に言い聞かせた。
彼女は人間だ。いつか必ず死ぬ。今のうちに遠ざけてしまえば、これ以上苦しまずに済む。
そう思っていた。
ところが、リゼの訪れが途絶えて十日ほど経った頃、町で疫病が流行しているという噂が耳に入った。
嫌な予感がした。
聖女であるリゼが、病に苦しむ人々を見捨てるはずがない。
案の定、彼女は施療院で倒れたという。
アシェルは駆け出した。
角も翼も外套の下に隠し、神殿の施療院へ急ぐ。病人で溢れかえった建物では、誰も見知らぬ男に構っている余裕などなかった。
奥の部屋で、リゼがひとりの子供に手をかざしている。
彼女の指先から淡い光が溢れ、子供の苦しげな呼吸が少しずつ落ち着いていく。しかし、リゼ自身の顔は、ひどく青白かった。
「リゼ!」
叫んだ瞬間、彼女の身体が傾いた。
アシェルは倒れかけたその身体を抱き留める。勢いよく広がった外套の隙間から、黒い翼が覗いた。
傍らにいた修道女が息を呑む。
「あなた、その翼は……」
だが、アシェルは構わなかった。
今はリゼのことしか見えていなかった。
「リゼ、しっかりしろ!」
腕のなかで、彼女がゆっくりと目を開けた。
「……アシェル?」
「何をしている!」
「見ればわかるでしょう。お仕事よ」
「死ぬ気か!」
思いがけず大きな声が出た。リゼは驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「まあ……心配してくださるのね」
「笑い事ではない!」
「だって、あなたがそんなに怒るところ、初めて見たもの」
アシェルは唇を噛んだ。腕のなかの小さな身体が、今にも消えてしまいそうで恐ろしかった。
「どうして、そこまでする」
「助けられる人がいるからよ」
「お前が死んだらどうする!」
リゼは黙った。それから、そっと彼の頬に触れた。
「ねえ、アシェル」
「……なんだ」
「私が死ぬのは、そんなに嫌?」
アシェルは息を呑んだ。
これまで、何千回と死を見てきた。自分自身の死を、望み続けてもきた。
それなのに。
「……嫌だ」
声が震えた。
「嫌に決まっている」
リゼの瞳が大きく見開かれる。
「お前がいなくなるなど、考えたくもない」
彼女を抱き締める腕に、力がこもった。
「私は、お前を失うのが怖い」
リゼはしばらく黙っていたが、やがて彼の胸にそっと頬を寄せた。
「……私もよ」
修道女たちが近づいてきた。ひとりはアシェルの翼を見たまま青ざめていたが、年長の修道女は静かに告げた。
「その方を寝かせて差し上げてください。お話は、あとで伺います」
アシェルは頷いた。
聖女が倒れ、まだ大勢の病人が助けを求めている。誰もが今は、それぞれの命を守ることで精いっぱいだった。
アシェルはリゼを抱き上げた。
死を望み続けた悪魔は、このとき初めて、死よりも恐ろしいものを知った。
愛する者を失うこと。
そして、その者のいない世界を、永遠に生き続けなければならないことを。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




