第二話 千年の孤独
リゼは翌日もやって来た。しかも、手土産まで持って。
「焼き菓子をいただいたの。お茶にしましょう?」
「……私は悪魔だぞ」
「存じております」
「神に背いた存在だ」
「昨日も伺いました」
「お前には警戒心というものがないのか」
「ありますわ」
リゼは胸を張った。
「ですから、ちゃんと神殿の方には行き先を秘密にしてきました」
「それは警戒心とは言わない」
アシェルは額を押さえた。追い返そうとしても、リゼは少しも堪えた様子を見せない。結局、彼は聖堂の奥から古びた椅子を運び出し、彼女のために茶を淹れる羽目になった。
「まあ、美味しい」
「昔、東方の国で覚えた淹れ方だ」
「東方ですか。行ったことがおありなのね」
「ああ」
「どんなところ?」
アシェルは少し考えた。
「夏になると、山という山が深い緑に覆われる国だった。都には大きな川が流れていて、夜になると、水面に無数の灯籠が浮かんだ」
「素敵ね」
「ずいぶん昔の話だ。今はもう、その国も残っていない」
「そうなの……」
リゼは残念そうに呟いたが、ふと思いついたように顔を上げた。
「アシェルは、その国のことを覚えていらっしゃるのね?」
「まあな」
「それなら、その国はまだ少しだけ生きているのね」
茶器を持つ手が止まった。
「どういう意味だ」
「だって、あなたがお話ししてくださるもの。私もその国のことを知ることができたでしょう?」
リゼは微笑んだ。
「忘れられてしまうより、ずっと素敵なことだわ」
アシェルは答えなかった。人間というものは、時折ひどく無責任なことを口にする。忘れないことがどれほど残酷かも知らずに。けれど、この娘を責める気にはなれなかった。おそらく彼女は、本心からそう思っているのだ。
その日から、リゼは何度も聖堂を訪れるようになった。焼き菓子を携えてくる日もあれば、野の花を抱えてくる日もある。あるときは書物を抱えて現れ、読めない言葉があるから教えてほしいと頼んだ。
アシェルがとうに滅んだ国の文字を読み解いてみせると、彼女は目を輝かせた。
「あなた、なんでもご存じなのね!」
「長く生きていれば、嫌でも物を覚える」
「では、これからわからないことがあれば、あなたに聞けばいいのね」
「私はお前の教師ではない」
「でも、教えてくださるでしょう?」
アシェルは黙った。リゼは満足そうに笑った。
そんな日々がひと月ほど続いた頃、彼女は聖堂の奥に小さな部屋を見つけた。
古い木札が、山のように積まれていた。一枚一枚に、名前が刻まれている。
「これは?」
リゼが尋ねても、アシェルはしばらく口を開かなかった。
「墓標だ」
「墓標?」
「私が見送った者たちの名前だ」
リゼは木札を見下ろした。古いものは朽ちかけ、文字を読むことさえ難しい。
「みんな、お知り合いだったの? こんなにたくさん?」
「長く生きていれば、知り合いも増える」
アシェルは一枚の木札を手に取った。刻まれているのは、エレンという名だった。
「花屋の娘だった。気が強く、よく笑う女でな。若い頃に夫を亡くして、それでも二人の子供を育て上げた」
「お友達?」
「そんなところだ」
「素敵な方だったのね」
「ああ。最期まで、たいした女だった」
アシェルは懐かしそうに目を細めた。それから別の木札を手に取り、「これは……」と言いかけて、口を閉ざした。
何も思い出せなかった。
名前は読める。確かに自分が刻んだ文字だった。けれど、その人物がどんな顔をしていたのか、何を話したのか、なぜ死んだのか。すべては記憶の彼方へ消え失せていた。
「忘れてしまった」
アシェルは静かに言った。
「昔は覚えていたんだ。名前も、顔も、声も。どんなふうに笑っていたかまで、全部」
リゼは何も言わなかった。
「だが、いつしか思い出せなくなった。大切だったはずの人間を、私はこうして忘れていく」
それは、永遠を生きる者に課せられた苦しみだった。どれほど大切に思っていても、記憶には限りがある。新たな出会いが積み重なるたび、古い思い出は少しずつ輪郭を失い、その果てには、愛した者の名さえ霞んでしまう。
「人間は幸せだ」
アシェルは呟いた。
「どれほど苦しんでも、最後には死ねる。自分の生涯に、終わりがある」
彼は木札を見つめた。
「私には、それがない」
長い沈黙が落ちた。
やがてリゼは、彼の隣に腰を下ろした。
「ねえ、アシェル」
「なんだ」
「この方のお話を聞かせてくださる?」
彼女はエレンの木札を指差した。
「先ほどのお花屋さん。どんなお花がお好きだったの?」
「……薔薇だ」
「まあ。私と同じね」
「赤い薔薇を好んでいた。夫が求婚するときに贈った花だったらしい」
「素敵!」
「だが、本人は花を売るより育てるほうが好きでな。店のことは、いつも息子に任せきりだった」
アシェルは思わず笑った。リゼも笑った。
「では、この方は?」
次の木札を手に取る。アシェルは少し考えてから答えた。
「港町の医師だった。腕は良かったが、とにかく口が悪くてね」
「まあ、どんなふうに?」
「熱があるのに酒を飲んだ患者を、これでもかというほど叱りつけていた」
「ふふ、それは患者さんが悪いわ」
次の木札、そのまた次の木札。アシェルが覚えている限りの話を、リゼは飽きることなく聞き続けた。やがて雨が降り始め、夜になっても、彼女は立ち上がろうとしなかった。
「帰らなくていいのか」
「そろそろ帰らなくてはいけないわね」
「ならば送ろう」
「ありがとう。でも、その前にひとつだけ」
リゼは彼の手を握った。
「あなたが忘れてしまった方のことを、私は思い出してあげられないわ」
アシェルは黙っていた。
「でも、あなたが覚えているお話なら、一緒に覚えていられると思うの」
彼女は微笑んだ。
「そうすれば、もう一人で全部を覚えていなくてもいいでしょう?」
アシェルは彼女を見つめた。
彼にとって、誰かを忘れることは裏切りに等しかった。自分だけが生き残ったというのに、その記憶すら失ってしまうのだから。だから彼は、何度も何度も木札を読み返してきた。忘れぬように。失わぬように。
それなのにこの娘は、一緒に覚えていればいいのだと言う。
「……お前は」
言葉を探したが、どうしても見つからなかった。代わりに、リゼの手をそっと握り返した。
「明日も来るのか」
「ええ、もちろん」
「ならば、茶菓子を用意しておこう」
リゼは目を丸くし、それから花が咲くように笑った。
「楽しみにしておりますわ!」
その笑顔を見て、アシェルはふと思った。
千年の間、彼は数えきれないほどの人々を見送ってきた。そして、忘れてしまった者も少なくない。いつか、この娘のことも忘れてしまうのだろうか。
そう考えた途端、胸の奥が小さく痛んだ。
それは、長い年月のうちに忘れ去っていた感情だった。けれどその名を思い出すには、まだ少し時間が必要だった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




