第一話 神に祈る悪魔
世界で最も敬虔な祈りを捧げるのは、悪魔である。
そんな奇妙な噂があった。人を惑わし、神を冒涜し、あらゆる災厄をもたらすとされる悪魔が、毎夜欠かさず神に祈りを捧げているというのだ。しかもその祈りは、千年以上もの間、一度として変わったことがないらしい。ある者は悪魔が改心したのだと喜び、ある者は神を欺くための罠だと恐れた。けれど、祈りの中身を知る者は、ほとんどいなかった。
「神よ、どうか私を死なせてください」
月明かりの差し込む聖堂で、悪魔は今夜も跪いていた。
長い黒髪に、溶かした黄金のような瞳。額から伸びる二本の角は、かつて神に背いた証である。その美しい面差しには、天上に仕えていた頃の面影が、いまだ色濃く残っていた。
「どうか、私からあなたの祝福をお取り上げください」
静寂が落ちた。砕けた色硝子の向こうで、夜風に揺れる木々がさわさわと葉を鳴らしている。
返事はない。いつものことだった。
しばらく待ってから、悪魔は諦めたように立ち上がった。
神が祈りを聞いていないわけではない。むしろ聞いているからこそ、叶えてくださらないのだろう。悪魔はそれを知っていた。
神は今でも、彼を愛しているのだから。
「ずいぶん変わったお願いをなさるのね」
背後から声がした。
振り返ると、聖堂の入口に若い娘が立っていた。月の光を受けて輝く金の髪、澄んだ青い瞳。白い衣の胸元では、神殿の聖印が小さく揺れている。
娘は悪魔の姿を見ても悲鳴を上げず、逃げ出そうともしなかった。それどころか、珍しい鳥でも見つけたように目を輝かせている。
「聖女か」
「ええ。リゼと申します」
娘は丁寧に一礼した。
「お前、私が何者かわかっているのか」
「もちろん。悪魔でしょう?」
「ならば、なぜ逃げない」
「逃げたほうがよろしいの?」
悪魔は言葉に詰まった。これまで数え切れぬほどの聖職者と対峙してきたが、逃げるべきかどうかを本人に尋ねた者は、初めてだった。
「……勝手にしろ」
「では、そういたします」
リゼは嬉しそうに微笑んだ。
「ところで、どうして死にたいのですか?」
「生きることに飽きたからだ」
「まあ。ずいぶん長生きなさったのね」
「数えるのはやめた」
「百年くらい?」
「もっとだ」
「五百年?」
「もっと」
「千年?」
「……少なくとも、お前の国ができる前から生きている」
リゼは感心したように頷いた。
「それは確かに、長生きですこと」
悪魔は眉をひそめた。どうにも調子が狂う。
「それで、なぜ神様にお願いなさるの? 悪魔なら、ご自分で死ぬこともできそうなのに」
「できるのなら、とうにそうしている」
吐き捨てるように言って、悪魔は目を伏せた。
毒を呷ったこともある。燃え盛る炎に身を投じたことも、底の見えぬ海へ沈んだこともある。戦場では幾度も剣に貫かれ、あるときは首さえ刎ねられた。
それでも死ねなかった。
どれほど傷ついても肉体は元に戻り、どれほど死を望んでも、朝になれば再び目が覚める。
「私には神の祝福がある」
彼は皮肉に唇を歪めた。
「永遠の命だ。老いることも、病むことも、死ぬことも許されない」
「……許されない?」
「ああ。神は私を愛しておられるのでね」
リゼは小さく首を傾げた。
「それは、お気の毒に」
悪魔は彼女を見た。
「……何だと?」
「お気の毒だと申し上げたのです」
「神の祝福を哀れむのか。聖女でありながら」
「だって、あなたはそれを喜んでいらっしゃらないのでしょう?」
リゼは、ごく当たり前のことのように答えた。
「贈り物というのは、受け取った方が喜んでくださってこそ、嬉しいものだと思うのです」
悪魔は黙り込んだ。
神に仕える者たちは、決まって彼に言ったものだ。永遠の命を授かりながら、何を嘆くことがあるのか。神の愛を受けながら、その恩寵を拒むとは何事か、と。
けれど、目の前の娘は違った。彼が苦しんでいる。ただそれだけの理由で、神の祝福を哀れんでみせたのだ。
「お前は妙な聖女だな」
「よく言われます」
リゼはにこりと笑った。
「あなたのお名前を伺っても?」
「……アシェル」
「アシェル様」
「様はいらない」
「では、アシェル」
彼女はその名を、大切な宝物でも扱うように繰り返した。
アシェルは奇妙な感覚を覚えた。名を呼ばれるというのは、こんなにも落ち着かないものだっただろうか。
「今日はもう帰れ。夜の森は危険だ」
「まあ、心配してくださるの?」
「聖女に死なれては後味が悪いだけだ」
「お優しいのね」
「人の話を聞け」
リゼは楽しげに笑った。
聖堂の入口まで歩いていったところで、ふと思い出したように振り返る。
「アシェル」
「なんだ」
「明日も来てよろしい?」
「……何をしに」
「あなたのお話を聞きに」
「話すことなどない」
「では、私がお話ししますわ」
断る隙も与えず微笑んで、彼女は軽やかに裾を翻した。
「それでは、また明日」
足音が遠ざかると、聖堂には再び静寂が戻った。
アシェルはしばらく入口を眺めていたが、やがて祭壇へ向き直り、いつものように跪いて両手を組んだ。
「神よ」
そう呼びかけて、ふと口を閉ざす。
明日も来る、とあの娘は言った。たったそれだけのことが、どういうわけか胸に引っかかっている。
アシェルは小さく息を吐いた。
結局その夜、彼は二度目の祈りを捧げなかった。
千年もの間、死だけを待ち望んできた悪魔は、そのとき初めて、明日の訪れをほんの少しだけ気にかけたのだった。
※完結まで毎日投稿です。
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