囁かれる無能
廊下で、声が途切れた。
十月の第二週。王城の東回廊に午前の光が低い角度で差し込んでいる。ヴィクトルが石畳を歩いていた。前方の柱の陰で二人の官吏が立ち話をしていたが、靴音が近づくと口を閉じた。一人が浅い礼をした。もう一人は目を逸らし、手にした書類に視線を落とした。
ヴィクトルの足が一拍遅くなった。そのまま通り過ぎた。
背後で誰も口を開かなかった。足音だけが石の床を打って回廊の天井に跳ねている。振り返らなかった。
角を曲がった。控えの間に続く通路の向こうから声が漏れている。
「——同じ相手に、立て続けですよ」
低い声だった。姿は壁に遮られて見えない。
「フェルゼンとの通商が丸ごと止まっている。条約の更新まであと二月半しかない」
「あの局長殿に書簡が書けるのか。前の秘書が全部やっていたという話じゃないか」
「書簡ひとつで相手国を怒らせるなど聞いたことがない。それも二度だ」
「東部の通商路が止まれば港湾税が入らなくなる。穀物の取引もフェルゼン経由だ。年末の備蓄に響くぞ」
「財務局がもう動き出している。宰相府にも報告が上がったそうだ」
ヴィクトルの右手が壁に触れた。指先が十月の石壁の冷たさに当たって止まった。
声はまだ続いていた。ヴィクトルは歩き出した。靴底が石を叩く乾いた音が回廊に散った。壁の向こうが急に静まった。
静まった後の沈黙のほうが、声よりも重かった。
中庭に面した渡り廊下に出た。秋の風が石柱の間を吹き抜けている。宮廷財務官とすれ違った。相手はヴィクトルの姿を認めると一瞬足を止め、口が開きかけて——閉じた。小さく頭を下げて、足早に通り過ぎていった。以前なら立ち止まって世辞のひとつも述べていく距離だった。
外交局に戻ると、書記官が廊下に立っていた。
「局長殿。内務卿マイスナー閣下の書記から伝言です」
「何だ」
「明日の第三鐘に、閣下のお部屋にて通商交渉の経過をご説明いただきたいと」
ヴィクトルの顎が僅かに引かれた。
「……了解した」
局長室の扉が閉まった。
書記官はしばらくその扉を見つめていた。やがて階段を降り、書記室に戻った。
「——内務卿から呼び出しが来た」
同僚の書記官が顔を上げた。
「経過説明だそうだ」
「……そうですか」
同僚がペンを置いた。
「宮廷にはもう全部届いていますよ。フェルゼンから釈明書を求められたことも、その前の延期通告のことも」
「届くだろうな。通商が止まれば港の収入が止まる。財務局は黙っていない」
「あの方がいた頃は十年で一度もこんなことはなかった」
「言うな」
「でも事実です」
「事実だから言うなと言っている」
書記官が壁の向こうを見た。ガルシアの私室がある方角だった。
「ここでは言うな。聞こえる」
翌日。第三鐘。
内務卿マイスナーの執務室は王城の北翼にあった。重い樫の扉の向こうに、書架と帳簿に囲まれた部屋が広がっている。奥の机に白髪の老人が座っていた。背は低いが背筋が伸びている。右手が卓上の書類の端を揃えた——紙の角が寸分なく重なるまで指を動かし、それから手を膝に戻した。四十年、王城の内政を束ねてきた人間の手癖だった。
卓の上に書類が二通広げてある。一通はフェルゼン連合評議会の紋章——秤と鍵——が封蝋に押された書簡の写し。もう一通は財務局の印が押された報告書だった。
「座りたまえ」
マイスナーの声は穏やかだった。だがその穏やかさには、問いの答えをすでに持っている者の重みがあった。
「フェルゼンとの通商条約の件だ。協議が全面停止していると聞いた」
「先方の求めに応じ、釈明書を準備しております」
「釈明書か。いつ出せる」
「……近日中には」
「ほう」
マイスナーがフェルゼンの書簡の写しを手に取った。
「通知の語を用いたこと。善意と称したこと。回答期限を設けたこと。いずれも連合の慣行に反する、と。——一度の書簡で三つの禁を犯すのは、なかなかの手際だな」
ヴィクトルの喉が動いた。声は出なかった。
マイスナーが書簡の写しを置き、もう一通の報告書に目を移した。
「財務局から報告が届いている。フェルゼン使節の帰国後、東部港湾の入港申請が二割減った。商船がフェルゼンの港で留め置かれているそうだ」
ヴィクトルの指が膝の上で握られた。
「前任の書記秘書は十年間、こうした事故を一度も起こさなかった」
「……はい」
「その者がいなくなって半月で、同じ相手に二度の外交事故だ。——局内の態勢はどうなっている」
「補佐官のガルシアが——」
言いかけて、止まった。
「釈明書はわたしが書きます」
マイスナーの目がヴィクトルの顔をまっすぐ見た。
「書けるのかね」
沈黙が卓の上に降りた。窓の外で枯葉が一枚、風に舞い上がって硝子にぶつかり、落ちた。
「書けぬなら書ける者を置きなさい。外交局は書簡ひとつが国を動かす場所だ」
「必ず——」
「条約の更新期限まで、と考えてくれ。間に合わなければ陛下のお耳に入れることになる。そうなれば局長の人事も含めての話だ」
ヴィクトルの背が一瞬硬くなった。
「覚悟の上で引き受けたまえ。——レーヴェンハルト卿」
ヴィクトルが立ち上がった。一礼した。深い角度で、長い時間をかけて。
北翼の廊下を戻る間に、官吏が何人かすれ違った。内務卿の部屋から出てきた外交局長を見て、小さく目を向ける。声をかける者はなかった。
外交局に戻った。階段を上がり、局長室の扉を開けた。閉めた後もしばらく取っ手を握ったまま立っていた。
同じ日の午後。
外交局の一階。ガルシアの私室の扉が開いていた。
「——引き継ぎの問題でしてね」
ガルシアの声が廊下に漏れている。穏やかで、よく通る声だった。
「前任の書記秘書は控えを一通も残さず去りました。各国の書簡慣行も過去の交渉経緯もすべて記憶の中に持ち出されたのです」
部屋の中に客がいた。財務局の主計官だった。壁際の椅子に座り、茶を手にしている。
「引き継ぎが正常に行われていれば、このような事態にはなりませんでした」
ガルシアが自分の茶をひと口含んだ。置いた。
「わたしも補佐官として手を尽くしておりますが、十年分の知見を数週間で埋めるのは容易ではございません」
「しかしガルシア殿。フェルゼンへの再送書簡は貴殿が準備されたのだろう」
「ええ。文言に不備があったのは事実です」
ガルシアが茶碗をゆっくり回した。
「ですがフェルゼンの慣行に関する情報は局内のどこにも残されていなかった。通知の語が上位者の用語であること、善意という表現が禁忌であること——いずれも前任者の記憶の中にしかなかったのです」
ガルシアの表情には困惑が載っていた。ひとつひとつ丁寧に並べたような困惑だった。
「わたしが責めを逃れようとしているのではございません。ただ十年分の知見をすべて持ったまま去った前任者の対応にも、考えるべき点があるのではないかと」
「前任者は追い出されたと聞いたが」
「人事は局長殿のご判断でございます。わたしはただ事態の経緯を正確にお伝えしたいだけでして」
主計官が茶碗を膝の上で回した。
「大変なことですな」
「いやいや。わたしよりも局長殿のほうがお辛いのです。まじめな方ですから、すべてご自分の責任と受け止めていらっしゃる。補佐するわたしの力が及ばず申し訳なく思っておりますよ」
主計官が頷き、立ち上がった。
「局長殿によろしくお伝えくだされ」
「もちろんでございます」
主計官が帰った。ガルシアは廊下を一瞬見て、扉を閉めた。
机に戻った。便箋を一枚取り出した。ペンを取り、宛先を書いた。
内務卿マイスナー閣下——。
数行を書き、読み返し、一語を直した。封をした。蝋を垂らし、印を押した。
印影は鮮明だった。紋章の縁に滲みは一箇所もなく、線の一本一本が蝋の上にくっきりと刻まれていた。
夕刻。
局長室にヴィクトルがいた。
机の上にペンと白紙がある。釈明書の下書きだった。宛名すら書かれていない。白紙の隣に、返書の済んでいない書簡が三通積まれていた。いちばん上の封蝋に、ルミエール帝国宰相府の紋章が押されている。
机の角に、書記官が三日前に届けた釈明書の書式雛形が置いてある。紙の端が反り始めていた。一度も開かれた形跡はなかった。
窓の外が暗くなり始めていた。十月の日は短い。午後の鐘はとうに過ぎて、石壁が夕方の冷気を帯びている。蝋燭を点けようとして手が止まった。燭台を持ったまま窓の外を見ている。
中庭の楡から葉が落ちていた。風に吹かれて石畳を転がり、排水溝の縁に溜まっている。一枚、また一枚。音のない落下だった。
廊下で靴音がした。書記官の足音だった。局長室の前で一拍遅くなり——そのまま通り過ぎていった。
蝋燭は点かないまま、ヴィクトルの手の中で傾いていた。
暗くなる部屋の底に、白紙だけが窓の残光を吸って浮いている。




