近づく狂気 vs 近づく従者
エリスは“境界の子”、別名――聖女。
そして同時に、元・魔族の女王。
誰も辿らなかった第三の道を、彼女は選ぶ。
魔界、外れ。
黒く淀んだ霧の中に——
ひときわ異様な建造物があった。
グリムヴァルの研究所。
シャドウウォーカーは、わずかに足を止めた。
(……相変わらずだな)
近づくだけでわかる。
腐敗と薬品が混ざったような、鼻を刺す匂い。
生理的な嫌悪を呼び起こす空気。
だが——
引き返す選択肢はない。
シャドウウォーカーは、そのまま中へ足を踏み入れた。
———
廊下を進む。
両脇に並ぶ、ガラスの檻。
その中には——
“何か”がいた。
ゴブリンのようで、ゴブリンではない。
獣の体に、人の腕。
無理やり繋ぎ合わされたような肉体。
——キメラ。
その多くは、すでに動いていない。
だが、中にはまだ息のあるものもいた。
かすれた声。
うめき。
(……狂っている)
シャドウウォーカーは視線を逸らさず、そのまま進む。
やがて、一つの扉の前で止まった。
ノックもせず、開ける。
「……来たか」
部屋の奥。
薄暗い中で、一人の男が振り向いた。
グリムヴァル。
痩せた体。
不気味に細い目。
そして——
口元に浮かぶ、歪んだ笑み。
「珍しいなぁ
お前がここに来るなんて」
ねっとりとした声。
「……困りごと、だろ?」
見透かしたように言う。
シャドウウォーカーは、無駄なやり取りを省いた。
「……魔物の強化が必要だ
敵の戦力が、想定以上だ」
グリムヴァルの目が、わずかに見開かれる。
そして——
嬉しそうに歪む。
「へぇ……
それは、面白い
どんなのがいる?」
シャドウウォーカーは簡潔に答える。
「境界の子
……それと、聖獣」
一瞬の静止。
次の瞬間——
グリムヴァルは、笑った。
「はははははっ!
最高だな、それ!」
目が狂気に染まる。
「いいねぇ……壊し甲斐がある」
そして、ぴたりと笑みを止める。
「いいよ
強くしてやる
ただし——条件がある」
細い指を立てる。
「強い“素材”を持ってこい
生きたまま、な
数も、できるだけ多く」
シャドウウォーカーは、わずかに眉をひそめた。
だが——
拒否する理由はない。
「……わかった」
それだけ言うと、踵を返す。
「ああ、楽しみにしてるよ」
背後から、楽しげな声が追いかけてくる。
「いい“作品”を作ってやる」
シャドウウォーカーは、振り返らなかった。
足早に、研究所を後にする。
その背中に——
わずかな不快感と、確かな危機感を抱えながら。
————時は同じく、魔族領の一角。
城から少し離れた場所にある、古びた酒場。
喧騒はなく、灯りも控えめ。
静かに酒を楽しむ者だけが集う場所。
その一角で——
二人の女が向かい合っていた。
レオネリア。
鎧を外し、ラフな装い。
だが、その背筋は崩れない。
そして——
メルキオラ。
魔導士らしいローブを纏いながらも、どこか気だるげな雰囲気。
二人の間には、酒の入ったグラス。
「……珍しいな」
レオネリアが口を開く。
「お前が誘うとは」
メルキオラは肩をすくめた。
「たまにはいいでしょ
堅いのよ、あんたは」
グラスを軽く揺らす。
「……で?」
レオネリアは短く問う。
「ただの酒じゃないだろ」
メルキオラは、少しだけ目を細めた。
「勘がいいのは相変わらずね」
一口、酒を飲む。
そして——
「……聞いたか?」
レオネリアが低く言う。
「境界の子が現れたらしい」
メルキオラの手が止まる。
「……ついに、ね」
小さく息を吐く。
「それってつまり——
均衡が崩れ始めてるってこと?」
レオネリアは黙って頷いた。
メルキオラは、グラスを揺らしながら続ける。
「均衡を保つために……
強くなりすぎた側を“消す”存在
そういうことよね?」
その言葉に——
レオネリアは、わずかに眉をひそめた。
「……それだけではないかもしれない」
「どういう意味?」
メルキオラが視線を向ける。
レオネリアは、少しだけ遠くを見るように言った。
「“均衡を保つ”……確かにそうだ
だが、その形は一つじゃない」
そして——
「……あの方のやり方も、あった」
空気が変わる。
メルキオラの表情が、わずかに引き締まる。
「……エルシア様、ね」
レオネリアは静かに頷いた。
「力で抑えつけるのではなく
共存を選ぼうとした
あれもまた、一つの“均衡”だ」
メルキオラは、しばらく何も言わなかった。
そして——
ふっと笑う。
「なるほどね
そういう考え方も、あり得るか」
グラスを傾ける。
「もしそうなら——
その境界の子、どんな考えを持ってるのかしらね」
レオネリアも同じように呟く。
「……知る必要がある」
そして、続ける。
「それだけではない
シャドウウォーカーの報告では——
その境界の子は15歳ぐらいの少女で
シャドウウォーカーが剣で追い込まれたらしい」
メルキオラの目が細くなる。
「15歳ぐらい……?
……あの方が、亡くなったのも15年前、
剣……?
……あの方も、そうだったわね」
エルシア女王。
その名が、静かに重なる。
二人の間に、沈黙が落ちる。
やがて——
メルキオラが口を開いた。
「……もし本当に関係があるなら
放っておくのは惜しいわね」
レオネリアは、短く言う。
「……接触する
敵としてではなく
まずは、見極める」
メルキオラは、楽しげに笑った。
「いいじゃない
久しぶりに、面白くなりそう」
グラスが、静かに鳴る。
それは——
新たな“出会い”の前触れだった。
静かな酒場の一角。
レオネリアとメルキオラは、互いに視線を交わしていた。
「……近づく方法、ね」
メルキオラが、指先でグラスの縁をなぞる。
「正面からじゃ、まず無理
警戒されるだけだし」
レオネリアは、静かに頷いた。
「なら——
利用するしかない」
短い言葉。
だが、その意味は明確だった。
メルキオラが、口元を歪める。
「……シャドウウォーカー、ね」
レオネリアは淡々と続ける。
「あちらから協力を求めている
なら、それに従う“ふり”をすればいい
接触の機会は、必ず来る」
メルキオラは軽く肩をすくめた。
「相変わらず、真っ直ぐね
でも……嫌いじゃないわ、そのやり方」
ふっと、表情が変わる。
「それに——
ちょうどいい機会かもしれない」
レオネリアの目が、わずかに細められる。
「……ああ
亡き主君の意思を——
確かめる機会だ」
エルシア女王。
その名は口に出さずとも、二人の間には確かにあった。
しばしの沈黙。
だが——
その静けさの中に、確かな熱が宿る。
メルキオラが、小さく笑った。
「ふふ……
まだ、終わってないってことね」
レオネリアは、何も言わずにグラスを持ち上げる。
それに応じて、メルキオラも。
——静かな乾杯。
小さな音が、二人の間で響く。
それは——
弱くとも、確かに灯った希望の証だった。
だが、レオネリアはすぐに言う。
「……急ぐ必要はない
焦れば、見誤る」
メルキオラも頷く。
「ええ」
「機会は、向こうから来るわ」
二人は、それ以上は語らなかった。
ただ静かに、酒を飲む。
来るべき時を——
待ちながら。
エリスたちが知らぬところで——
魔族領では、静かに波紋が広がっていた。
一つは、排除の意志。
境界の子という存在を脅威とみなし、
力をもって排除しようとする者たち。
もう一つは、模索の意志。
かつての理想を思い起こし、
共存という道を探ろうとする者たち。
同じ魔族でありながら——
その進む先は、決して交わらない。
だが、どちらも確かだった。
それぞれが、それぞれの信念のもとに動いている。
境界の子——エリスという存在を中心に。
静かに。
しかし確実に。
世界は動き始めていた。
最後まで読んで頂きありがとうございます
次回の更新は、5月6日18時を予定してます




