旅立ち前夜 — 壮行会 —
エリスは“境界の子”、別名――聖女。
そして同時に、元・魔族の女王。
誰も辿らなかった第三の道を、彼女は選ぶ。
あっという間に——
旅立ちの前日がやってきた。
エリスは、朝から積極的に家の手伝いをしていた。
掃除、洗濯、細かな雑事。
どれも特別なことではない。
けれど——
「……しばらく、できなくなるから」
そんな思いが、自然と身体を動かしていた。
昼食を済ませると、
エリスはクラリスと並んで台所に立つ。
「そっちはお願いね」
「うん」
包丁の音が、軽やかに響く。
いつもより少しだけ賑やかな準備。
今日は——壮行会。
しばらくして、扉が開く音がした。
「お邪魔します」
ミリアとマリンがやってきた。
「いらっしゃい」
クラリスが微笑む。
「手伝うよ」
マリンが袖をまくる。
「助かるわ」
こうして——
台所には四人が並んだ。
鍋の音。
食材の香り。
その中で、自然と話題は——
旅のことへと移っていく。
「いい?」
ミリアが、少し真剣な声で言った。
「まず、無理はしないこと
これは一番大事」
クラリスも続ける。
「あと、違和感を軽く見ないことね
小さな異変が、大きな危険につながることもあるから」
エリスとマリンは、手を止めて真剣に聞いていた。
「夜営の場所は、必ず確認するのよ
風の向き、水場、逃げ道
全部考えること」
「……そんなに?」
マリンが少し驚く。
ミリアは頷いた。
「そんなに、よ
野営は戦いと同じくらい大事」
エリスが、少し考えながら言う。
「……もし、危険そうだったら?」
クラリスは、迷いなく答えた。
「逃げなさい」
きっぱりとした言葉。
「戦うことだけが、強さじゃないわ」
その言葉に——
エリスは静かに頷いた。
「……うん」
マリンも、真剣な表情で頷く。
「分かった」
話は尽きなかった。
食事の準備をしながら、
経験に裏打ちされた言葉が、次々と紡がれる。
それは決して——
“うるさい”ものではなかった。
命を守るための、大切な教え。
エリスとマリンは、時折質問をしながら、
一つ一つを自分の中に落とし込んでいった。
やがて——
窓の外が、ゆっくりと暗くなっていく。
料理の香りが、部屋いっぱいに広がる。
「……こんなところかしら」
クラリスが、手を止めた。
テーブルには、料理が並び始めている。
ミリアも、軽く息を吐いた。
「準備はできたわね」
マリンが、少しだけ緊張したように言う。
「……もうすぐだね」
エリスも、静かに頷く。
「うん」
気がつくと、外はすっかり暗くなっていた。
家の中には、温かな灯りと料理の香りが満ちている。
その中で——
扉が開く音がした。
「ただいま」
エノクが、仕事を終えて帰ってきた。
「おかえりなさい」
クラリスが声をかける。
エノクは一度頷くと、すぐに奥へ向かい、着替えを済ませて戻ってきた。
部屋の様子を見渡し——
ふっと、満足そうに息をつく。
「……いい匂いだな」
そして、エリスの方を見た。
「エリス
納屋にしまってあるテーブルと椅子、運ぶのを手伝ってくれるか?」
「うん、いいよ」
エリスがすぐに立ち上がる。
そのやり取りを聞いていたマリンも、軽く手を挙げた。
「私も手伝う!」
「助かる」
エノクは短く笑う。
三人はそのまま外へ出た。
夜の空気は少しひんやりしていて、
昼間の賑やかさとはまた違う静けさがあった。
納屋の扉を開けると——
古い木の匂いがふわりと広がる。
「これと……これだな」
エノクが指示を出し、
三人でテーブルや椅子を運び出していく。
「思ったより重い……」
マリンが少し苦笑する。
「気をつけて」
エリスが声をかける。
「こういうのも、旅の訓練だな」
エノクが冗談めかして言う。
「え、それはちょっと違う気が……」
マリンが思わず突っ込む。
小さな笑いが生まれた。
そうして——
テーブルと椅子を運び終え、部屋の中へ。
「ここに置こう
もう少しこっちかな」
三人で配置を調整しながら、
全員が座れるように整えていく。
やがて——
「……こんなものか」
エノクが、軽く頷いた。
ちょうどその時だった。
コンコン、と扉を叩く音。
「来たみたいね」
クラリスが微笑む。
エリスが扉へ向かい、開けると——
「よ」
ルシアンが軽く手を上げた。
その隣には、カイル。
二人の手には——
ワインと、箱に入ったケーキ。
「差し入れだ」
「お邪魔する」
自然な流れで中へ入ってくる。
「わあ……ありがとう!」
マリンが嬉しそうに声を上げる。
クラリスとミリアも、それを見て微笑んだ。
「ちょうどいいタイミングね」
すべてが揃った。
人も。
場も。
あとは——
「じゃあ、運ぶわよ」
クラリスの声で、皆が動き出した。
大皿に盛られた料理が、次々とテーブルへと並べられていく。
ミリアもそれに続き、温かい料理を運ぶ。
エリスとマリンも自然と手を動かし、配膳を手伝っていた。
テーブルの中央には——
大きなボウルいっぱいのサラダ。
瑞々しい野菜が、色鮮やかに盛られている。
「はい、どうぞ」
クラリスが手際よく、それぞれの皿へ取り分けていく。
一方で——
ミリア、マリン、そしてエリスは、
焼きたてのステーキを皿に乗せ、順に席へ置いていった。
「熱いから気をつけてね」
ミリアの一言に、マリンが小さく頷く。
「はーい」
こうして——
テーブルは、料理で満たされていった。
香ばしい香りが、部屋中に広がる。
その中で、エノクが静かに動く。
ワインの瓶を手に取り、栓を開ける。
「……いい音だ」
ルシアンが軽く笑う。
エノクは一つ頷くと、グラスにワインを注いでいく。
深い赤色が、静かに揺れる。
それぞれの大人たちの前に、グラスが置かれていく。
そして——
エリスとマリンの前には、
透き通ったブドウジュースのグラス。
「……なんか、それっぽいね」
マリンが、少し楽しそうに言う。
エリスも、小さく笑った。
「うん」
全員が席に着く。
一瞬の静寂。
そして——
エノクが、ゆっくりと立ち上がった。
その表情は穏やかで——
どこか誇らしげでもあった。
「……では」
静かな声が、部屋に響く。
「エリスとマリンの——
新たな旅立ちに」
少しだけ間を置いて——
「乾杯」
グラスが掲げられる。
「「乾杯!」」
重なる声。
小さく触れ合うグラスの音が——
夜の中に、優しく響いた。
皆んなお腹が空いていたのか、早速食べ出した。
エリスは、ナイフでステーキを切り分ける。
じゅわっと肉汁が滲む。
フォークで一口分を刺し、口へ運んだ。
「……美味しい」
思わず、そう漏れる。
「でしょ?」
クラリスが、少し誇らしげに笑った。
マリンも同じように一口食べて、目を輝かせる。
「ほんとだ……!」
食卓には、自然と笑顔が広がっていた。
最初は、いつも通りの会話。
料理のこと。
町のこと。
ちょっとした思い出話。
笑い声が絶えない、穏やかな時間。
けれど——
食事も終盤に差し掛かった頃。
ルシアンが、ゆっくりとグラスを置いた。
「……さて」
その一言で、空気が少し変わる。
「明日からの話をしておくか」
エリスとマリンの表情が、自然と引き締まる。
ルシアンは、落ち着いた口調で続けた。
「まずは——セントポルへ向かう
王都へ行く前の中継地点だ」
カイルが補足する。
「リンドルからは、森を抜けるルートを取る
最短だ」
マリンが少しだけ緊張した様子で聞く。
「森って……魔物、出るよね?」
ルシアンは軽く頷いた。
「出る
だが、全部が危険ってわけじゃない」
そして、少し指を立てる。
「例えば——トレント
あいつは木の魔物だが
基本的に、こちらから手を出さなければ襲ってこない」
カイルが短く続ける。
「無視が最適解だ」
エリスは頷く。
「……戦わない方がいいんだね」
「ああ」
ルシアンははっきりと言った。
「無駄な戦闘は、リスクでしかない
目的はあくまで移動だ」
その言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。
だが——
ルシアンの表情が、少しだけ変わる。
「ただし」
その一言で、空気が引き締まる。
「最近、気になる報告がある」
カイルも、静かに頷いた。
「……巨大な魔物だ」
マリンの表情が固まる。
「巨大……?」
ルシアンは続けた。
「詳細は不明
だが、目撃情報がいくつか上がってる
しかも——」
少しだけ、声を低くする。
「その周囲には、フォレストウルフが群れているらしい」
エリスの視線が、自然と鋭くなる。
「守ってる……?」
カイルが短く答える。
「その可能性が高い
縄張りの中心、あるいは——主だ」
食卓の空気は、完全に変わっていた。
先ほどまでの温かさの中に——
“現実”が入り込んできた。
ルシアンは、二人を見た。
「だから覚えておけ
遭遇したら——
逃げる」
迷いのない言葉。
「絶対に、無理に戦うな」
その言葉は、強く響いた。
ルシアンの話を聞き終えたあと——
テーブルの空気は、少しだけ重くなっていた。
その中で、クラリスとミリアは目を合わせる。
言葉にはしない。
けれど——
同じ気持ちだった。
「……エリス」
クラリスが、静かに呼びかける。
エリスは顔を上げた。
「ルシアンとカイルの言うことは、ちゃんと聞きなさい」
優しい声。
けれど——その奥には強い意志があった。
「無理は、しちゃだめ」
エリスは、しっかりと頷く。
「……うん」
一方で——
ミリアもマリンへ視線を向ける。
「あなたもよ
無茶はしないこと」
マリンは、少しだけ照れたように笑った。
「分かってるって
ちゃんと気をつけるよ」
二人の返事は、決して軽いものではなかった。
それぞれが——
覚悟を持っていることが伝わってくる。
やがて、食事は静かに終わりを迎えた。
食器を片付けながら、
誰もが“明日”を意識していた。
「……今日は、もう休みましょうか」
クラリスの言葉に、皆が頷く。
ルシアンが立ち上がった。
「明日の集合は——西門だ
時間は朝九時」
カイルも続ける。
「遅れるな」
「「うん」」
エリスとマリンが同時に頷いた。
「じゃあな」
「また明日」
ルシアンとカイルは、そう言って家を後にした。
その背中を見送りながら——
エリスは、少しだけ胸の奥が締まるのを感じていた。
続いて、ミリアとマリンも立ち上がる。
すると、クラリスが
「手伝ってくれて、ありがとう
助かったわ」
軽く言葉を交わしながら、後片付けを終える。
すべてが片付いた頃——
「それじゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
マリンと視線を交わし、
小さく笑い合う。
ミリアとマリンは、そのまま家へと帰っていった。
家の中に、静けさが戻る。
「……」
エリスは、少しだけその場に立ち尽くした。
クラリスとエノクが、優しく見守っている。
「……おやすみなさい」
エリスが、静かに言った。
「「おやすみ」」
二人が、同時に返す。
その声は、いつもと変わらない。
けれど——
どこか、少しだけ特別だった。
エリスは、自室へと向かう。
扉を閉めると、静かな空間が広がる。
ベッドに腰を下ろし——
ゆっくりと横になる。
「……明日か」
小さく呟く。
期待と。
不安と。
いろんな想いが、胸の中で混ざり合う。
けれど——
もう、迷いはなかった。
エリスは目を閉じる。
明日——
新しい一歩が、始まる。
最後まで読んで頂きありがとうございます
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