貧民街に差し伸べる手 ― 温かな食事と失踪事件の手掛かり ―
いつも『魔族の女王が転生したら聖女になっていた』をお読みいただき、ありがとうございます。
王都で相次ぐ、貧民街の住人たちの失踪事件。
事件の真相を探るため、クラリスたちは貧民街を訪れることにした。
しかし、そこで目にしたのは、王都の華やかな街並みからは想像もできない人々の厳しい暮らしだった。
病気や怪我に苦しむ者、日々の食事にも困る者たち。
そんな人々を前に、クラリスたちはどのように行動するのだろうか。
そして、失踪事件の新たな手掛かりを見つけることはできるのか。
第八章の続きをお楽しみください。
王都グランヴェイルの貧民街。
冒険者ギルドを後にしたクラリスたちは、街の中心部から離れた貧民街へと足を踏み入れていた。
王都の大通りには立派な建物が並び、多くの商人や冒険者たちが行き交っている。
しかし、貧民街へ近づくにつれて、その景色は大きく変わっていった。
石畳だった道は土がむき出しになり、建物も古びた木造のものが目立つようになる。
屋根が壊れたままの家や、壁に大きな隙間ができている家も少なくなかった。
「……同じ王都とは思えないわね」
マリンが小さく呟いた。
「そうね。王都の中心部とは、ずいぶん違うわ」
クラリスも周囲を見渡しながら答えた。
道端には、薄汚れた服を着た人々が座り込んでいる。
中には、咳を繰り返している老人や、怪我をした足を引きずりながら歩く者もいた。
幼い子供たちも、痩せ細った身体で大人たちのそばに寄り添っている。
「お母さん……お腹すいた……」
そんな声が、近くの建物の陰から聞こえてきた。
母親らしき女性は、子供を抱き寄せながら困ったように微笑む。
「もう少しだけ我慢してね……」
その様子を見たエリスは、思わず足を止めた。
「お母さん……」
「ええ。分かっているわ」
クラリスは静かに頷いた。
実は、クラリスは貧民街を訪れる前に、ある準備をしていた。
冒険者ギルドで馬車を借り、途中の市場で大量の食材を買い込んでいたのである。
パンや野菜、肉、そして大きな鍋でスープを作るための材料。
馬車の荷台には、それらが所狭しと積み込まれていた。
「まずは、広い場所を探しましょう」
クラリスの言葉に、一行は馬車を進めた。
◇◇◇
しばらく進むと、古い建物に囲まれた広場のような場所が見つかった。
地面は土がむき出しだったが、馬車を停めても十分な広さがある。
「ここなら良さそうね」
クラリスが馬車を降りる。
「メルキオラ、準備をお願いできる?」
「はい。お任せください」
メルキオラは馬車から調理道具を降ろし、手際よく準備を始めた。
レオネリアも食材を運び、マリンとエリスは野菜を洗って切り始める。
クラリスは大鍋に水を入れ、火を起こした。
「今日は具だくさんのスープにしましょう。パンも十分にあるわ」
「美味しそうですね!」
マリンが笑顔を見せる。
「これだけあれば、かなりの人数に配れそうね」
レオネリアも頷いた。
やがて、鍋から食欲をそそる香りが漂い始めた。
その匂いに誘われるように、周囲の住人たちが少しずつ集まってくる。
「……何をしているんだ?」
「食べ物の匂いがするぞ」
「どこかの商人か?」
住人たちは、遠巻きに様子をうかがっていた。
クラリスはそんな人々へ向かって声を掛けた。
「皆さん! これから温かい食事を配ります!」
その声に、周囲がざわめいた。
「食事だって?」
「いくらなんだ?」
一人の男性が恐る恐る尋ねる。
クラリスは笑顔で答えた。
「お金はいりません。無料ですよ」
「……無料?」
男性は信じられないという表情を浮かべた。
「本当に、金を払わなくていいのか?」
「ええ。遠慮しないでください」
その言葉を聞いた住人たちは、互いに顔を見合わせた。
最初は誰も近づこうとしなかった。
しかし、一人の老人がゆっくりと歩み寄ってきた。
「……わしにも、もらえるのか?」
「もちろんです」
クラリスは器に温かいスープをよそい、パンと一緒に手渡した。
老人は震える手で器を受け取る。
「ありがたい……」
一口飲んだ瞬間、老人の目に涙が浮かんだ。
「……温かい」
その様子を見た人々が、次々と集まり始めた。
「私にもください!」
「子供の分もいただけますか?」
「もちろんよ。慌てなくても大丈夫。順番に並んでね」
クラリスたちは手分けして食事を配り始めた。
◇◇◇
炊き出しが始まってしばらくすると、広場には多くの住人が集まっていた。
エリスは食事を配りながら、周囲の様子を気にしていた。
「……あの人、かなり具合が悪そう」
エリスの視線の先には、壁にもたれかかり、苦しそうに咳き込んでいる男性がいた。
エリスは器を置くと、その男性へ歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
「……ああ。少し、身体が弱っているだけだ」
男性は力なく答えた。
しかし、顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。
「少し診せてもらってもいいですか?」
「診る……? お嬢ちゃん、医者なのか?」
「医者ではありませんけど、治療することはできます」
「治療……?」
男性は驚いたように顔を上げた。
エリスはそっと男性の胸元へ手をかざした。
病気によって引き起こされている異常を感じ取り、その現象だけを消し去る。
すると、苦しそうだった男性の呼吸が落ち着き、顔色も少しずつ戻っていった。
「……あれ?」
男性は自分の胸に手を当てた。
「苦しくない……!」
「もう大丈夫だと思います。でも、しばらくは無理しないでくださいね」
「ありがとう……本当にありがとう!」
男性は何度も頭を下げた。
その様子を見ていた住人たちが、驚きの声を上げる。
「治癒魔法が使えるのか!」
「それなら、うちの母親も診てもらえないだろうか……」
「俺の足も……」
エリスの周囲には、助けを求める人々が集まり始めた。
「皆さん、落ち着いてください。順番に診ますから」
エリスは一人ずつ声を掛けていった。
怪我をした者。
病気で苦しんでいる者。
中には、長い間歩くことができず、家族に支えられてやって来た者もいた。
エリスは一人ずつ症状を確かめながら、境界の子の力で病気や怪我の原因となっている現象を消し去っていった。
長い間、脚が動かなかった男性も、その力によって身体の異常が取り除かれ、再び歩けるようになった。
「……動く」
男性は信じられない様子で足を踏み出した。
「俺の脚が……動くぞ!」
周囲から歓声が上がる。
「すごい……!」
「本当に治ったのか!」
エリスは嬉しそうに微笑んだ。
「良かったですね」
その様子を少し離れた場所から見ていたクラリスも、穏やかな表情を浮かべていた。
「……エリスらしいわね」
「ええ。本当にお優しい方です」
メルキオラが微笑む。
レオネリアも静かに頷いた。
◇◇◇
炊き出しを続けながら、クラリスたちは住人たちへ少しずつ話を聞いていた。
今回の目的は、食事を配ることだけではない。
貧民街の人々と接し、行方不明事件について何か情報を得ることも重要だった。
クラリスは食事を受け取った中年の女性へ声を掛けた。
「少し聞いてもいいかしら?」
「何でしょう?」
「この辺りで、最近いなくなった人がいると聞いたのだけど……」
女性の表情が曇った。
「……ええ。何人もいなくなっているわ」
「どんな人たちなの?」
「若い子が多いわね。男の子も女の子も……」
「いなくなった場所は分かる?」
「それが、よく分からないのよ」
女性は困ったように首を振った。
「夜には家にいたはずなのに、朝になると姿がないの」
「夜から朝にかけて……」
クラリスは小さく呟いた。
別の場所では、レオネリアが若い男性から話を聞いていた。
「いなくなった人を、最後に見たのはいつ?」
「夜だよ。いつもどおり寝るって言ってたんだ」
「その後、誰かが訪ねてきたりは?」
「いや……何も聞いてない」
「そう……ありがとう」
レオネリアは頷いた。
一方、マリンも食事を配りながら、住人たちに尋ねていた。
「いなくなった人たちは、一人で暮らしていたんですか?」
「そういう人が多かったと思うよ」
年配の女性が答える。
「家族と暮らしていた子もいたけど、たまたま一人で寝ていた夜にいなくなったって話もあるね」
「なるほど……」
マリンは考え込んだ。
メルキオラも同じように聞き込みを続けたが、犯人の姿を見た者や、不審な馬車を目撃した者は見つからなかった。
ただ、話を聞くうちに、いくつかの共通点が浮かび上がってきた。
行方不明者は若い男女が多い。
姿を消すのは、夜に眠ってから翌朝までの間。
そして、一人でいるところを狙われている可能性が高い。
しかし、それ以上の手掛かりは得られなかった。
◇◇◇
夕方になる頃には、用意していた食事もほとんどなくなっていた。
「これで最後ね」
クラリスは残ったパンを子供たちへ手渡した。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
子供たちは嬉しそうに駆けていった。
「良かったわね。みんな喜んでくれて」
マリンが微笑む。
「ええ。でも、これだけでは根本的な解決にはならないわ」
クラリスは貧民街の家々を見渡した。
食事を配れば、その日は空腹を満たせる。
治療をすれば、苦しんでいる人を助けることもできる。
しかし、明日になれば再び食べ物に困る者もいるだろう。
「……難しい問題ね」
クラリスは小さく呟いた。
「それでも、今日助けられた人たちはいるでしょ?」
エリスが答える。
「そうね。エリスの言うとおりだわ」
クラリスは娘の頭を優しく撫でた。
そして、一行は後片付けを終えると、借りた馬車で貧民街を後にした。
◇◇◇
宿屋『白銀の月亭』。
宿へ戻ったクラリスたちは、まず受付へ向かった。
「すみません。もう一部屋、お願いできるかしら?」
クラリスが声を掛ける。
「お部屋の追加ですね?」
「ええ。二人増えたので、もう一部屋必要になったの」
受付の女性は宿帳を確認した。
「少々お待ちください……はい、お部屋はご用意できます」
「ありがとう。助かるわ」
クラリスは追加の部屋を確保すると、仲間たちと一緒に自分たちの部屋へ向かった。
しばらくして、全員がクラリスの部屋に集まった。
「さて、今日聞いた話を整理しましょうか」
クラリスが切り出す。
「まず、行方不明になる人たちは、若い男女が多いようね」
レオネリアが頷く。
「ええ。それと、一人でいるところを狙われている可能性が高いわ」
「時間帯も、ある程度絞れましたね」
メルキオラが続ける。
「夜に眠ってから、朝になるまでの間です」
マリンが腕を組んだ。
「でも、誰も犯人を見ていないんですよね」
「そうなのよね……」
クラリスは考え込んだ。
「これだけの人数がいなくなっているのに、目撃情報がほとんどないというのは気になるわ」
「相手も、かなり慎重に動いているのでしょうね」
レオネリアが言った。
しばらく沈黙が流れた。
そのとき、クラリスが口を開いた。
「……それなら、こちらから仕掛けてみるのはどうかしら?」
「仕掛ける?」
マリンが首を傾げる。
「ええ。誰か一人が夜の貧民街に残って、おとりになるのよ」
その言葉に、全員が顔を上げた。
「なるほど。相手が一人でいる人を狙っているなら、姿を現す可能性がありますね」
メルキオラが頷く。
すると、エリスがすぐに手を挙げた。
「それなら、私がやるよ!」
その瞬間。
「いけません!」
「絶対に反対です!」
レオネリアとメルキオラが、ほとんど同時に声を上げた。
「えっ?」
エリスは驚いて二人を見た。
「どうして? 私なら、襲われても大丈夫だと思うけど……」
「そういう問題ではありません!」
レオネリアが真剣な表情で答える。
「エルシア様を危険な目に遭わせるわけにはいきません」
「私も同じ意見です」
メルキオラも頷いた。
「どのような手段で襲ってくるか分からない以上、エルシア様におとりをお願いすることはできません」
「でも……」
エリスが何か言おうとすると、クラリスが口を開いた。
「二人とも、少し落ち着いて」
レオネリアとメルキオラは、はっとしたように口を閉じた。
クラリスはエリスへ視線を向ける。
「エリスの実力なら、そう簡単にやられないことは分かっているわ。でも、今回は相手を捕らえて情報を聞き出すことが目的なの」
「うん」
「だから、拘束魔法が使える人の方が向いていると思うのよ」
その言葉に、メルキオラが頷いた。
「それでしたら、私が適任かと思います」
「メルキオラが?」
クラリスが尋ねる。
「はい。私ならアビスバインドで相手を拘束できます。逃がさずに捕らえることも可能です」
レオネリアも頷いた。
「確かに、メルキオラなら適任ね」
「でも、メルキオラさん一人で大丈夫ですか?」
マリンが心配そうに尋ねた。
メルキオラは微笑んだ。
「もちろん、皆さんにも近くで待機していただければ安心です」
「そうね。おとりは一人でも、実際に一人で行動させる必要はないわ」
クラリスが頷いた。
「それなら、私も賛成よ」
エリスも納得したように頷く。
「分かった。じゃあ、メルキオラさんにお願いするね」
「お任せください」
メルキオラは静かに微笑んだ。
こうして、夜の貧民街でおとりを使い、犯人を誘い出す方針が決まった。
相手がいつ現れるのか。
そもそも、今夜姿を見せるのかさえ分からない。
それでも、ただ待っているだけでは事件の真相には近づけない。
クラリスたちは、次の行動に向けて準備を進めることにした。
王都の夜が、静かに近づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、クラリスたちが貧民街を訪れ、炊き出しや治療を通じて住人たちと交流する様子を描きました。
温かな食事を配るクラリスたちと、境界の子の力で病気や怪我に苦しむ人々を助けるエリス。
その一方で、失踪事件についての聞き込みも進めていました。
大きな手掛かりこそ得られなかったものの、行方不明者には若い男女が多く、夜から朝にかけて、一人でいるところを狙われている可能性が浮かび上がります。
そして宿へ戻ったクラリスたちは、犯人を誘い出すため、おとりを使った作戦を決定しました。
次回は、いよいよメルキオラがおとりとなり、夜の貧民街で作戦を開始します。
果たして、失踪事件の犯人は姿を現すのでしょうか。
そして、クラリスたちは事件の真相に近づくことができるのでしょうか。
次回も『魔族の女王が転生したら聖女になっていた』をよろしくお願いいたします。
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