エリスの選択
————エリスとクラリスは二人だけで自宅の台所にいた
夕暮れの光が、窓から差し込んでいた。
台所には、穏やかな空気が流れている。
だが——
その奥には、言葉にしない緊張があった。
クラリスは手際よく食事の支度を進めながら、
ふとエリスを見た。
そして、クラリスは今日エリスから聞いたことを
エノクにどこまで話すか悩んでいた。
やはり、ここはエリスの気持ちも確かめようと思った。
「……どうする?」
小さな声でクラリスはエリスに問いかける。
エリスは一瞬だけ考えた。
(お父さんには……)
すべてを話すべきか。
だが——
「……全部は、無理だと思う」
正直な気持ちだった。
神官であるエノクにとって、
魔族という存在は決して軽いものではない。
ましてや——
(元、魔族の女王なんて……)
口にするだけで、すべてが壊れてしまいそうだった。
クラリスはゆっくりと頷く。
「そうね
それは……今は言わない方がいいわね」
判断は早かった。
「でも」
包丁の手を止めずに続ける。
「それ以外のことは、ちゃんと話しましょう」
エリスは小さく頷いた。
嘘をつくわけではない。
ただ——
すべては話さない。
それが、二人の出した答えだった。
やがて、料理のいい匂いが家の中に広がる。
その頃——
「ただいま」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
エノクが帰ってきたのだ。
「おかえりなさい」
クラリスがいつも通りの声で迎える。
エリスも笑顔を作る。
何もなかったかのように。
だが——
心の奥では、
これからの会話を思い、静かに息を整えていた。
食卓には、温かい料理が並ぶ。
三人で囲む、いつもの夕食。
だがその空気は、どこか違っていた。
「……今日は、少し話があるの」
食事が終わり、
落ち着いた頃合いを見て、クラリスが口を開いた。
エノクが顔を上げる。
「どうした?」
その表情は穏やかだったが、
神官としての鋭さも残っている。
クラリスは一度、エリスを見る。
エリスも、静かに頷いた。
そして——
二人は、決めた通りの“真実”を語り始めた。
静かな時間が流れる中で。
クラリスはゆっくりと口を開いた。
「……エリスのことなんだけど」
エノクは視線を向ける。
その目は穏やかだが、
神官としての鋭さも宿していた。
エリスは一瞬だけ躊躇う。
だが——
(決めたんだ)
小さく息を吸い、口を開いた。
「私……転生者なの」
その言葉に続いて、
エリスは一度だけ言葉を止めた。
そして、ゆっくりと続ける。
「女神セレネに……そう言われた」
その名が出た瞬間——
エノクの表情が、はっきりと変わった。
「……セレネ?」
神官として、その名を知らないはずがない。
祈りの対象。
人々が信仰する存在。
その女神が、直接言葉を与えたというのか。
「本当に……女神が?」
確認するように問いかける。
エリスは、まっすぐ頷いた。
「うん
夢みたいな形だったけど……でも、その時のことは、はっきり覚えてる」
エノクは黙り込んだ。
それが意味することを、理解しているからだ。
ただの奇跡ではない。
——神意の介入。
その沈黙の中で、エリスはさらに言葉を続けた。
「それで……」
少しだけ、息を整える。
「私は“境界の子”だって言われた」
再び、空気が変わる。
エノクの目が、鋭く細められる。
「……境界の子」
その言葉は、知らないものではなかった。
だが——
伝承の中の存在。
現実に現れるとは思っていなかった。
「役目があるって……そう言われたの」
エリスの声は、静かだった。
「だから……」
そして、先ほどの決意へと繋がる。
「境界の子としての役目を、果たしたい」
エノクはしばらく何も言わなかった。
神官としての知識。
父としての感情。
そのすべてが、胸の中で交錯する。
(これは……偶然ではない)
ここまで条件が揃うことはあり得ない。
だが——
目の前にいるのは、紛れもなく自分の娘だ。
「……そうか」
最終的に出た言葉は、短かった。
だがその中には、
多くの感情が込められていた。
「……分かっているのか」
低く、問いかける。
「その言葉の重さを」
エリスは頷く。
「全部は……まだ分からない
でも」
ぎゅっと手を握る。
「このまま何もしないのは、違うと思うの
私にできることがあるなら……やりたい」
その言葉に、嘘はなかった。
エノクはしばらく黙っていた。
神官として。
父として。
二つの立場が、胸の中でぶつかる。
そして——
「……そうか」
静かに、そう言った。
否定はしない。
だが、簡単に肯定もしない。
「ならば」
視線が、まっすぐエリスに向く。
「まずは、自分の力を知ることだ
知らずに使えば、それは災いになる」
それは父としての言葉であり、
神官としての忠告でもあった。
クラリスは静かに頷く。
「……ええ
この子を、一人にはしないわ」
その言葉に、
エリスの表情が少しだけ緩む。
三人の間に、
新しい関係が生まれていた。
それはもう、ただの家族ではない。
運命に関わる者たちの——
静かな同盟だった。
————その夜、エリスの部屋にて
エリスはなかなか眠りにつけずにいた。
今日一日の出来事が、頭の中で何度も繰り返される。
森での戦い。
自分の力。
そして——家族への告白。
「……役目って、何だろう」
ぽつりと呟く。
境界の子としての役目を果たしたい。
そう言った。
けれど——
何をすればいいのかは、分からない。
「……分かんないや」
小さく息を吐く。
ただ一つ、気になることがあった。
(最近……)
自分の中の力。
以前よりも、はっきりと感じる。
まるで——
「……戻ってる?」
前世の記憶と共に、力も。
そんなことを考えながら、
いつの間にか意識が遠のいていく。
——眠りに落ちた。
……はずだった。
次の瞬間。
視界が、真っ白に染まる。
上も下も、何もない。
光だけの世界。
「……ここは」
エリスはすぐに理解した。
「……天界」
そして——
「また、来てくれたのね」
優しい声が響いた。
振り向くと、そこにいたのは——
セレネだった。
以前と変わらない、穏やかな微笑み。
だがその瞳には、どこか決意のようなものが宿っている。
「……セレネ」
エリスは少しだけ緊張した様子で立つ。
「あなたには、まだ伝えていないことがあるの」
静かな声だった。
「幼いあなたには、重すぎると思っていたから」
だが今は違う。
そう言わんばかりに、セレネは続ける。
「境界の子としての——本当の役目を」
エリスの心臓が、強く打つ。
知りたかったこと。
だが同時に、
知るのが怖かったこと。
「……私は」
小さく声を出す。
「何をすればいいの?」
セレネは、ゆっくりとエリスに歩み寄った。
そして——
「あなたは“繋ぐ者”」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「人と魔
生と死
世界と世界
すべての“境界”に立ち、それを繋ぐ存在」
エリスの目が、わずかに揺れる。
「……繋ぐ?」
セレネは頷いた。
「争いを断ち切るために
分かたれたものを、もう一度結び直すために」
その言葉は、優しい。
だが——
あまりにも大きすぎた。
「そんなの……」
エリスの声が震える。
「私にできるの?」
セレネは、微笑んだ。
「だからこそ、あなたなの
魔族の女王であり、人として生きるあなたにしかできない」
その言葉に——
エリスは息を呑んだ。
「……あなたは」
セレネの声が、少しだけ柔らかくなる。
「この世界の“可能性”なのよ」
白い世界の中で。
エリスはただ、立ち尽くしていた。
自分の背負うものの大きさを、
初めて理解しながら。
セレネの言葉は、静かに胸に落ちていった。
境界の子。
繋ぐ者。
世界と世界の間に立つ存在。
あまりにも大きな役目。
エリスは、しばらく何も言えなかった。
ただ、呆然と立ち尽くす。
(……そんなこと、私に)
そう思いかけて——
ふと、胸の奥に浮かぶものがあった。
——争いのない世界。
——無駄な血が流れない世界。
それは、かつての自分。
魔族の女王だった頃に、願っていたこと。
「……似てる」
小さく、呟く。
セレネが語った役目は、
自分がかつて望んだ未来と、どこか重なっていた。
その時——
「そうね」
別の声が、優しく響いた。
振り向くと、そこには——
アテナが立っていた。
「あなたが思っている通りよ」
静かに、しかし確信を持って言う。
「私も……同じものを見ていた」
その言葉には、重みがあった。
勇者として戦い、
そして苦しんだ者の言葉。
「でも現実は、そんなに簡単じゃない」
アテナの瞳が、わずかに曇る。
「分かり合えないこともある
選ばなければいけない時もある」
それは忠告だった。
それでも——
「……それでも」
エリスは、顔を上げた。
迷いは、もうなかった。
「やりたい」
小さく、しかしはっきりとした声。
「それが、私にできることなら
逃げたくない」
セレネは静かに微笑む。
アテナも、どこか安心したように目を細めた。
「……いい答えね
今度こそ、あなたは自分で選んだ」
その瞬間——
視界が、揺らいだ。
白い世界が崩れ、光が溶けていく。
「また会いましょう」
セレネの声が、遠くなる。
「あなたが進むその先で」
——次の瞬間。
エリスは、自分の部屋にいた。
見慣れた天井。
静かな夜。
「……戻ってきた」
ぽつりと呟く。
だがその心は、
さっきまでとは違っていた。
自分の役目。
自分の選んだ道。
その重みを、確かに感じている。
しばらくの間、天井を見つめていた。
何をすべきか。
どう進むべきか。
まだ分からないことだらけだ。
それでも——
「……やるしかないか」
小さく呟く。
そのまま、ゆっくりと目を閉じる。
今度は、迷いではなく。
決意を抱いたまま——
静かな眠りへと落ちていった。
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