目覚めの時
エリスは——目を覚ましていた。
ほんの少し前から。
意識がゆっくりと戻り、
周囲の声が、かすかに耳に届いていた。
「……魔族」
「……女王が殺された」
「……ノクスヴェール山脈」
断片的な言葉が、頭の中で繋がっていく。
そして——
(……私のこと、話してる)
すぐに理解した。
自分のことだと。
だが、体は動かなかった。
いや——
動かなかったのではない。
動けなかったのだ。
起きてしまえば、
この場にいる全員と向き合うことになる。
(……言えるわけない)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
自分が何者なのか。
本当の正体。
——転生者。
——かつて、魔族の女王だった存在。
それを話せばどうなるか。
想像するまでもなかった。
(……ここには、いられなくなる)
クラリスの顔が浮かぶ。
優しく抱きしめてくれた手。
何も聞かずに受け入れてくれた笑顔。
それを失うかもしれない。
その恐怖が、体を縛っていた。
だから——
目を閉じたまま、
ただ静かに、会話が終わるのを待った。
やがて。
部屋の空気が、少しだけ緩む。
話が一区切りついたのだと分かった。
(……今なら)
ゆっくりと、息を吸う。
そして——
「……ん……」
小さく声を漏らしながら、
ゆっくりと体を起こした。
「エリス!」
すぐにクラリスの声が響く。
「大丈夫!?」
心配そうに駆け寄ってくる。
エリスは、少しだけ戸惑ったように周囲を見渡した。
何も知らないふりをする。
「……うん」
小さく頷く。
「ちょっと、疲れただけみたい」
その言葉は嘘ではない。
だが——
すべてでもない。
ルシアンとカイルの視線が、静かにエリスへ向けられる。
ミリアもまた、何かを感じ取るように見つめていた。
だが誰も、何も言わない。
エリスは微笑んだ。
いつも通りの、穏やかな笑顔で。
けれどその奥には——
誰にも見せていない、もう一つの自分があった。
暫くして、エリスが体を起こすと、
部屋の空気が少しだけ和らいだ。
「……大丈夫か」
最初に声をかけたのはカイルだった。
その目は真剣で、どこか優しさがあった。
「ああいうのは、何度もやるもんじゃない」
ぶっきらぼうな言い方だったが、
その裏にある感謝は隠しきれていない。
「……助かった」
短く、それだけを言った。
続いて、ルシアンが一歩前に出る。
「礼を言おう
君がいなければ、我々は間違いなく死んでいた」
冷静な口調だが、はっきりとした感謝だった。
エリスは少し戸惑いながらも、
小さく首を振る。
「……そんな」
ただ、助けたいと思っただけ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
クラリスはその様子を見て、
ようやく深く息をついた。
「本当に……無事でよかった」
その言葉には、母としての安堵が滲んでいた。
ミリアは少し離れた場所で、
静かにその光景を見ていた。
何も言わず。
ただ、エリスを見つめている。
その瞳の奥には、
まだ言葉になっていない何かがあった。
「……さて」
ルシアンが空気を切り替えるように言う。
「我々は一度戻る
この件は、ギルドに報告しなければならない」
カイルも、
「放っとける話じゃねえ」
二人は踵を返し、扉へと向かった。
「また来る」
カイルがそう言い残す。
ルシアンも軽く頷いた。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
残されたのは、静かな空間。
ミリアはゆっくりと立ち上がった。
「……私も戻るわ」
クラリスが頷く。
「ええ……今日はありがとう」
ミリアは一瞬だけ、エリスを見た。
何かを確かめるように。
だが何も言わず、静かに微笑む。
「またね」
そして、そのまま家を後にした。
扉が閉まり、
家の中に静けさが戻った。
残されたのは——
クラリスとエリス、二人だけ。
クラリスはすぐには口を開かなかった。
ただ、エリスを見つめている。
その視線には、迷いと——確信が混じっていた。
(十五年前……)
魔族の女王が殺された時期。
そして——
エリスが現れた時期。
偶然なのか。
それとも——
「……ねえ、エリス」
静かに声をかける。
エリスの肩が、わずかに揺れた。
「一つ、聞いてもいい?」
その声は、責めるものではなかった。
ただ、確かめたいという想いだけ。
エリスは俯いたまま、答えない。
分かっている。
何を聞かれるのか。
「あなたは……」
一瞬だけ言葉を選び、
そして——
「どこから来たの?
ひょっとして,他の世界から来たの?
その言葉に、時間が止まったようだった。
エリスの指が、ぎゅっと握られる。
(……やっぱり)
もう隠せない。
でも——
言えば、すべてが壊れるかもしれない。
その時だった。
「大丈夫よ」
クラリスの声が、優しく届いた。
顔を上げると、
そこにはいつも通りの笑顔があった。
「どんな答えでも、変わらないわ
あなたは、私の大切な娘だから」
その一言で。
エリスの中の何かが、崩れた。
張り詰めていたものが、ほどけていく。
「……ごめんなさい」
小さく、震える声。
「ずっと……隠してた」
涙が、ぽろりと落ちる。
「私……」
言葉が詰まる。
それでも、逃げなかった。
「……転生者なの
前に、女神様と夢であったと言った事があったでしょう?
あれ、夢じゃなく実際に女神様と会って
女神像による転生者だと言われたの」
クラリスは何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「それで……」
エリスは息を吸う。
そして——
「前は……魔族の、女王だった」
静寂が落ちた。
その言葉は重く、
世界そのものを揺らす真実だった。
だが——
「……そう」
クラリスは、ただそれだけを言った。
驚きも、拒絶もない。
ただ、受け止めるように。
「大変だったのね」
その言葉に、エリスの目が大きく開かれる。
「……え?」
「一人で、ずっと抱えてたんでしょう?」
クラリスはそっと、エリスの頭に手を置いた。
「よく話してくれたわ」
その瞬間——
エリスの涙が、溢れた。
恐れていたものは、そこにはなかった。
拒絶も、否定も。
ただ——
変わらない、母の温もりだけがあった。
しばらく、静かな時間が流れた。
エリスは、まだ涙の残る目でクラリスを見つめる。
そして、ぽつりと口を開いた。
「……ねえ」
少しだけ、不安を滲ませた声。
「怖くないの?」
クラリスは首をかしげる。
「何が?」
「私……
魔族の女王だったんだよ?」
その言葉は、重いはずだった。
世界の敵とされる存在。
恐れられるべき存在。
だが——
クラリスは、あっさりと答えた。
「前がどうであれ」
そして、優しく微笑む。
「今は、私の娘でしょ?」
それだけだった。
理屈も、迷いもない。
ただ、それがすべてだと言わんばかりに。
エリスは、言葉を失った。
こんなにも簡単に。
こんなにも強く。
自分のすべてを受け入れてくれる存在がいる。
「……うん」
小さく頷く。
その顔には、ようやく安堵が浮かんでいた。
だが——
(……まだ)
心の奥で、引っかかるものがある。
すべては話していない。
女神セレネのこと。
アテナのこと。
そして——
「境界の子」という存在。
それを口にすれば、
今のこの関係さえも変わってしまう気がした。
だから、言えなかった。
——その頃。
ミリアは自宅へと戻っていた。
静かな室内。
だが、その心は落ち着いてはいなかった。
(あの力……)
ルシアンとカイルから聞いた、エリスの見せた現象。
消失と、復元。
あれはただの奇跡ではない。
何か、もっと根源的な——
「……まさか」
ふと、ある記憶がよぎる。
教会に保管されている、古い文献。
ほとんどの者が目を通さない、
過去の記録。
ミリアはゆっくりと立ち上がる。
「確か……」
記されていたはずだ。
エリスと似た存在が。
勇者と呼ばれた者。
しかし——
別の名があった。
「境界の子……」
その言葉が、静かに口からこぼれた。
それは伝説ではない。
かつて、確かに存在した“何か”。
そして今——
再び現れたのかもしれない。
ミリアは、家に戻ってから落ち着かなかった。
エリスの力。
あの異質な現象が、頭から離れない。
(……確かめないと)
その思いは、すぐに行動へと変わった。
昼間だと誰かに見られてしまう可能性がある
変な噂はたてられたくない
そう思うと夜になるまで待つことにした
———やがて夜になると
夜の教会は静まり返っていた。
人の気配はなく、
わずかな灯りだけが通路を照らしている。
ミリアは迷いなく、奥へと進んだ。
向かう先は——書庫。
重い扉を押し開けると、
ひんやりとした空気が流れ出る。
古びた書物の匂い。
長い年月が積み重なった場所。
「……ここにあるはず」
記憶を頼りに、棚を辿る。
古い記録。
忘れられた文献。
手を伸ばし、一冊ずつ確認していく。
やがて——
「……あった」
一冊の本を引き抜く。
他のものよりも古く、
表紙は擦り切れていた。
ミリアはゆっくりとページをめくる。
そして——
「……これ」
その記述に、目が止まった。
——アテナ。
勇者と呼ばれた存在。
だが、その説明はそれだけでは終わらない。
「……“境界の子”」
その言葉が、はっきりと記されていた。
ミリアの指が、わずかに震える。
読み進める。
異なる世界からの来訪。
理を超えた力。
消失と再生。
——すべてが一致していた。
「……間違いない」
小さく呟く。
「あの子は……」
言葉が、そこで止まる。
だが、もう疑いはなかった。
エリスは——
再び現れた“境界の子”なのだと。
書庫の中で、
ただ一人。
ミリアは静かに、その事実を受け止めていた。
最後まで読んで頂きありがとうございます
次回の更新は4月8日18時を予定してます




