幕間 白銀の剣姫を追いかけた小さな姫君 ― セレフィーナの憧れ ―
第七章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は第八章へ進む前の幕間です。
時は少し遡り、クラリスがまだ王国騎士団長として王都で剣を振るっていた頃。
『白銀の剣姫』と呼ばれていた彼女のもとには、今日も一人の小さな姫君がやって来ます。
後にセントポルの領主夫人となるセレフィーナと、彼女が幼い頃から憧れ続けたクラリス。
二人の昔のひとときをお楽しみください。
王都グランヴェイル
まだクラリスが王国騎士団の団長を務めていた頃。
王城に隣接する騎士団の訓練場では、朝から剣と剣がぶつかり合う音が響いていた。
「踏み込みが甘い!」
鋭い声が飛ぶ。
「相手の剣だけを見るな! 肩と足の動きを見なさい! 次にどこから攻撃が来るのか、それを予測するの!」
訓練場の中央に立つのは、銀色の髪を揺らす一人の女性。
クラリスだった。
後に冒険者としても名を馳せることになる彼女は、この頃まだ王国騎士団に所属しており、その頂点である騎士団長の座に就いていた。
そして、その剣技からつけられた二つ名が――
『白銀の剣姫』。
王国でも指折りの剣士として知られ、騎士たちから尊敬と畏怖を集める存在だった。
「エリック! 脇が空いている!」
「はい!」
クラリスの声に、エリックが慌てて剣を引き戻す。
その隙を逃さず、対面していたアランの木剣がエリックの脇腹へと迫った。
「もらった!」
「くっ!」
寸前で受け止める。
乾いた音が訓練場に響いた。
「今のは実戦だったら終わっているわよ」
「……はい」
「アランもよ。相手が体勢を崩したからといって、無闇に深く踏み込まない。罠だったらどうするの?」
「はい、団長!」
二人の返事を聞き、クラリスは小さく頷いた。
「もう一度!」
「はい!」
再び二人が木剣を構える。
周囲でも多くの騎士たちが汗を流していた。
剣を打ち合わせる者。
盾を構えて突撃を繰り返す者。
槍の扱いを確認する者。
王国を守る騎士たちにとって、平時の訓練こそが戦場で命を守るものだった。
だからこそ、クラリスも決して妥協しない。
普段は気さくな彼女も、訓練となれば話は別だった。
「そこ! 足が止まっている!」
「はい!」
「盾を持っているからって安心しない! 盾で受けるだけが防御じゃないわ!」
「はい、団長!」
訓練場にクラリスの声が響き渡る。
そんな時だった。
「クラリス団長ー!」
場違いなほど幼い声が聞こえてきた。
クラリスの眉が僅かに動く。
そして何人かの騎士たちが、声の聞こえてきた方向へ顔を向けた。
小さな少女がこちらへ走ってきていた。
まだ幼いながらも、その身に纏っている衣服は一目で上質なものと分かる。
少女は満面の笑みを浮かべながら、一直線にクラリスを目指していた。
そして――
「姫様ー!」
その後ろから複数の侍女が必死の形相で追いかけてくる。
「お待ちください、姫様!」
「お一人で行かれては困ります!」
「姫様!」
その光景を目にした騎士たちは、何とも言えない表情を浮かべた。
またか、
そんな空気が訓練場に流れる。
クラリスも小さく息を吐いた。
「……今日も来たのね」
エリックが苦笑する。
「団長、本当に姫様に懐かれていますね」
「笑ってないで訓練を続けなさい」
「はい!」
エリックは即座に前を向いた。
少女はクラリスの前までやってくると、ようやく足を止めた。
少し遅れて侍女たちも追いつく。
「ひ、姫様……!」
「勝手にお部屋を出られては困ります!」
「私たちがどれほど心配したと……」
肩で息をしながら訴える侍女たち。
ところが少女――セレフィーナは、不満そうに頬を膨らませた。
彼女は国王の弟である王弟の娘。
紛れもない王族の姫君だった。
「何をそんなに慌てているのですか?」
「何をって……姫様!」
「私は王城の外へ出たわけではありませんよ?」
セレフィーナは腰に両手を当てる。
そして、まるで侍女たちのほうがおかしいとでも言いたげな表情で続けた。
「それに、ここはこの国で一番安全な場所ですよ?」
侍女たちが顔を見合わせる。
「一番……ですか?」
「そうです」
セレフィーナは自信満々に頷いた。
そしてクラリスの隣へ移動すると、その腕にぎゅっと抱きついた。
「白銀の剣姫と呼ばれている、この方のそば以上に安全な場所なんてありません!」
「…………」
クラリスは思わず苦笑した。
周囲の騎士たちからも小さな笑い声が漏れる。
確かに、言っていることだけなら間違っていない。
王国騎士団の訓練場。
周囲には何十人もの騎士がいて、その中心には王国屈指の剣士であるクラリスがいる。
外敵から襲われる危険という意味では、王国内でもかなり安全な場所だろう。
しかし、それとこれとは別問題だった。
「姫様」
クラリスが優しく呼びかける。
「はい!」
セレフィーナが嬉しそうに見上げてくる。
「そう言って頂けるのは嬉しいですが、彼女たちの立場をもう少し理解されるといいですよ」
「……むぅ」
セレフィーナの頬が再び膨らんだ。
「姫様に何かあれば、叱られるのは彼女たちなのですから」
「でも……」
「それに訓練場では木剣を使っているとはいえ、怪我をすることもあります。何も言わずに来ていい場所ではありません」
「…………」
セレフィーナはしばらく黙っていた。
やがて、追いかけてきた侍女たちを見る。
全員が疲れ切った顔をしていた。
さすがに少し悪いと思ったのだろう。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
侍女たちは顔を見合わせる。
「次からは、ちゃんと言ってから来ます」
「姫様……」
侍女たちの表情がほっと緩んだ。
クラリスも満足そうに頷く。
「それでこそ姫様です」
ところが。
「また姫様って言った!」
突然セレフィーナがクラリスを指差した。
「え?」
「姫様って呼ばないでって言っているでしょう!」
先ほどまで反省していた少女はどこへ行ったのか。
再び頬を膨らませてクラリスを睨んでいる。
もっとも、まったく怖くはない。
「セレフィーって呼んで!」
「それはできません」
クラリスは即答した。
「どうしてですか!」
「どうしても何も、姫様は姫様ですから」
「クラリス団長はお父様みたいなことを言います!」
「王弟殿下と同じ意見なら、きっと私が正しいのでしょうね」
「むぅぅ……!」
セレフィーナはますます頬を膨らませた。
クラリスは笑いを堪えながら、その小さな頭を軽く撫でる。
「では、こうしましょう」
「……なんですか?」
「姫様がもう少し大人らしい振る舞いをされて、立派になられたら、ご希望に応えましょう」
セレフィーナの目が大きく開いた。
「本当ですか!?」
「ええ」
「約束ですよ!?」
「約束です」
その瞬間。
「クラリス団長、大好き!」
「わっ!」
セレフィーナが勢いよくクラリスの足に抱きついた。
「姫様!」
侍女たちが再び慌てる。
周囲から笑い声が上がった。
「こら! そこ! 笑ってないで訓練!」
クラリスが声を上げると、騎士たちは一斉に姿勢を正した。
「はい、団長!」
その様子を見たセレフィーナは楽しそうに笑っている。
やはり、この少女に反省という言葉はまだ少し早いらしい。
そんなセレフィーナが、何かを思い出したように侍女の一人へ駆け寄った。
そして預けていた小さな木剣を受け取る。
子供用に作られたものだ。
それを両手で持ちながら、クラリスの前へ戻ってきた。
「クラリス団長!」
「今度は何ですか?」
「今日も私に稽古をつけてください!」
木剣を掲げるセレフィーナ。
その目は真剣そのものだった。
クラリスは少しだけ困った顔をする。
「姫様。私は今、騎士たちの訓練中なのですが」
「邪魔はしません!」
「この前もそう言って、エリックのところへ走っていったでしょう?」
「それは……」
少し離れた場所にいたエリックが苦笑する。
「姫様に突然斬りかかられた時は驚きました」
「だって隙だらけだったんです!」
「訓練の休憩中だったんですよ……」
「戦場では休憩中でも敵は待ってくれないって、クラリス団長が言ってました!」
「団長……」
エリックが何とも言えない顔でクラリスを見る。
「……確かに言ったわね」
クラリスも否定できなかった。
アランが堪えきれずに笑い出す。
「エリック、姫様の言う通りだぞ」
「うるさい」
「アラン!」
「はい?」
「余裕がありそうだから、あとで私と打ち合いね」
アランの笑顔が凍りついた。
「……団長、それは」
「返事は?」
「はい……」
今度はエリックが笑う番だった。
そんな騎士たちのやり取りを見ながら、セレフィーナは目を輝かせている。
彼女にとって、この場所は特別だった。
王族として傅かれる王城とは違う。
ここでは皆が汗を流し、強くなるために努力している。
そして何より。
その中心には、セレフィーナが誰よりも憧れている女性がいた。
強くて。
凛々しくて。
誰からも頼りにされて。
それでも自分には優しい。
白銀の剣姫。
いつか自分もクラリスのようになりたい。
幼いセレフィーナは本気でそう思っていた。
「仕方ないわね」
クラリスが木剣を一本手に取った。
「本当ですか!?」
「騎士たちが休憩に入るまで少し時間があります。それまでなら」
「はい!」
セレフィーナは嬉しそうに訓練場の隅へ走っていく。
「走らない」
「はい!」
返事だけは立派だった。
クラリスもその後を追う。
そして二人は向かい合った。
「まずは構えて」
「はい!」
セレフィーナが木剣を構える。
しかし、明らかに力が入りすぎていた。
クラリスは木剣の先で、セレフィーナの剣を軽く下げる。
「力を入れすぎ。そんなに強く握ったら、すぐに腕が疲れるわ」
「でも、剣を落としたら負けですよね?」
「だからといって最初から力いっぱい握っていたら、必要な時に力が出せないでしょう?」
「なるほど……」
セレフィーナは真剣に頷いた。
「足も開きすぎ」
クラリスが姿勢を直していく。
「こうですか?」
「もう少し右足を前へ」
「こう?」
「そう。さっきよりずっといいわ」
「えへへ」
褒められたセレフィーナが嬉しそうに笑う。
「でも、まだまだよ」
「はい!」
「では、打ち込んでみなさい」
「いきます!」
セレフィーナが木剣を振り上げる。
「やあっ!」
パシン。
クラリスは片手で簡単に受け止めた。
「もう一度」
「はい!」
「やあっ!」
パシン。
「もう一度」
「えいっ!」
何度打ち込んでも、クラリスの木剣はびくともしない。
それでもセレフィーナは諦めなかった。
「やあっ!」
「踏み込みが足りない」
「はい!」
「えいっ!」
「剣だけじゃなくて、身体も一緒に前へ」
「はい!」
何度も
何度も
幼い少女は木剣を振るった。
額に汗が浮かぶ。
腕も疲れてくる。
それでもセレフィーナは木剣を置こうとしない。
その姿を見ていたクラリスの表情が、少しだけ変わった。
遊び半分で剣を振っているわけではない。
幼いなりに、本気なのだ。
「姫様」
「はい!」
「どうして、そんなに剣を覚えたいの?」
セレフィーナの動きが止まった。
少し考える。
そして、
「クラリス団長みたいになりたいからです」
迷いのない答えだった。
「私みたいに?」
「はい!」
セレフィーナは満面の笑みを浮かべる。
「強くて、格好良くて、みんなを守れる人になりたいんです!」
「…………」
クラリスは一瞬、言葉を失った。
自分はただ、自分の役目を果たしているだけだと思っていた。
騎士として剣を振るい。
団長として部下を鍛え。
王国を守る。
それだけだ。
それでも、
そんな自分の背中を見て、追いかけてくる少女がいる。
クラリスは優しく微笑んだ。
「そう」
そしてセレフィーナの頭へ手を置く。
「なら、頑張らないとね」
「はい!」
「ただし」
「?」
「強いというのは、剣が上手いということだけじゃないわ」
セレフィーナが首を傾げる。
「誰かを守る方法は、剣だけじゃないの」
「剣じゃなくても?」
「ええ」
クラリスは頷く。
「困っている人に手を差し伸べることも、誰かの話を聞くことも、たくさんの人が安心して暮らせるように考えることも、全部、人を守ることに繋がるわ」
幼いセレフィーナには、その言葉のすべてを理解することはできなかった。
それでも、
「じゃあ、私は全部できるようになります!」
胸を張って宣言する。
クラリスは思わず笑った。
「欲張りね」
「だって、立派になったらセレフィーって呼んでくれるんですよね?」
「そこに戻るの?」
「大事なことです!」
「はいはい」
「はいは一回です!」
「誰に教わったのよ、それ……」
クラリスが苦笑する。
その日も、
王国騎士団の訓練場には、騎士たちの掛け声と剣を打ち合わせる音が響いていた。
その片隅では、小さな姫君が何度も木剣を振っていた。
「やあっ!」
「もっと踏み込んで!」
「はい!」
「もう一度!」
「はい!」
白銀の剣姫に憧れて、
いつか自分も誰かを守れる人になりたいと願って、
少女は懸命に、その背中を追いかけていた。
それはまだ、セレフィーナがセントポルの領主夫人となるよりもずっと昔。
クラリスが一人の少女の憧れそのものだった頃の、小さな思い出。
そしてクラリスもまだ知らなかった。
いつの日か、この小さな姫君が立派に成長し――
剣とは違う方法で、多くの人々を守る女性になることを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、第七章と第八章の間の幕間として、幼い頃のセレフィーナと騎士団長時代のクラリスのお話でした。
現在ではセントポルの領主夫人として人々を支えるセレフィーナですが、幼い頃の彼女にとって『白銀の剣姫』クラリスは、強さと憧れの象徴でした。
「立派になったら、セレフィーと呼んで」
幼い日に交わした小さな約束。
剣を手にしてクラリスの背中を追いかけていた少女が、やがてどのように成長していったのか。
そして二人の関係が、現在のようなものへと変わっていったのか。
そんな過去も想像していただければ嬉しいです。
幕間を挟み、物語は第八章へ。
次章もお楽しみください。




