穏やかな旅路 ― 仲間と囲む旅の食卓 ―
いつも『魔族の女王が転生したら聖女になっていた』をお読みいただき、ありがとうございます。
ミネアヴィレッジを旅立ち、交易都市アルフェリアを目指して進むエリス達。
今回は、馬車の異空間で過ごすリディア達の様子を描きます。
移動中とは思えないほど快適な空間でパンを作りながら、リディアは以前から気になっていたクラリスの騎士団時代について尋ねることに。
それでは、第七章の続きをお楽しみください。
エリス達の組が馬車に残り、再び街道を進み始めた頃。
馬車に繋がる異空間では、クラリス達が思い思いの時間を過ごしていた。
外を走っている馬車とは切り離されたような広々とした空間。
リビングには大きなテーブルと椅子が並び、その奥には調理器具の揃ったキッチンがある。
照明も明るく、水にも困らない。
そして何より、馬車が街道を走っているというのに、ほとんど揺れを感じなかった。
スピカはソファに腰掛けながら、改めて周囲を見回した。
「……何度見ても、ここが馬車の中だとは思えませんね」
思わず、そんな言葉が漏れる。
向かいに座っていたリディアも苦笑した。
「私も同じことを考えていました」
異空間の存在そのものは、二人ともすでに知っている。
それでも、こうして実際に旅の休憩場所として使ってみると印象がまるで違った。
「馬車で移動している最中なんですよね?」
スピカが確認するように尋ねる。
「そうよ」
近くにいたレオネリアが答えた。
「今頃、エルシア様達が街道を進んでいるはずよ」
「それなのに、ここではほとんど揺れない……」
スピカはテーブルの上に置かれたカップを見る。
中に残っていた水面は静かなものだった。
「普通、馬車で休むといっても、せいぜい座ったまま眠るくらいですよね」
「そうですね」
リディアが頷く。
「長旅だと、馬車に乗っているだけでも疲れますから」
「それがここなら、普通に横になって休めるんですね……」
「食事も作れるわよ」
ミリアの声が聞こえてきた。スピカが振り返る。
いつの間にかミリアとクラリスがキッチンに立っていた。
クラリスは髪が邪魔にならないようにまとめ、ミリアは棚から大きな器を取り出している。
「何をしているんですか?」
リディアが立ち上がった。
「せっかく時間があるから、パンを焼いておこうと思って」
クラリスが答える。
「パン……ですか?」
「ええ」
ミリアが笑顔を浮かべる。
「この先も旅は続くでしょう? 今のうちに作っておけば、昼にも食べられるし、少し多めに焼いておけば後でも使えるもの」
リディアとスピカが顔を見合わせた。
そして二人とも、ほとんど同時にキッチンへ歩いていった。
「私も手伝います」
リディアが言う。
「私も。何かできることがあれば」
スピカも続いた。
「あら、いいの?」
ミリアが二人を見る。
「もちろんです」
「座っているだけというのも落ち着かないので」
スピカが答える。
「それじゃあ、お願いしようかしら」
クラリスが笑った。二人はクラリスとミリアの隣へ並ぶ。
ただ、テーブルに置かれた材料を見ても、何をどうするのかまでは分からなかった。
大きな器
小麦粉
水
塩
そしてパンを膨らませるための材料。
「まず何をすればいいんですか?」
リディアが尋ねる。
「最初は粉を量るところからね」
ミリアが説明する。
「リディアはこっちをお願いできる?」
「はい」
「スピカは私と一緒に水の量を見てもらえる?」
クラリスが声を掛ける。
「分かりました」
それぞれ役割を決め、パン作りが始まった。
リディアは教えられた通りに小麦粉を量っていく。
スピカは水を準備しながら、クラリスの手元を興味深そうに見ていた。
「クラリスさん、パンも作れるんですね」
スピカが言う。
「それくらいは作れるわよ」
クラリスが苦笑する。
「冒険者を長くやっていると、何でもできた方が便利なの」
「クラリスは料理も結構するのよ」
ミリアが横から付け加える。
「ミリア」
「本当のことでしょう?」
「まあ、そうだけど」
クラリスは少し照れくさそうに答えた。
リディアはそのやり取りを聞きながら、小麦粉を器へ移していく。
騎士団にいた頃のクラリスしか知らないリディアにとって、こうして料理をしている姿はどこか新鮮だった。
かつて自分達の前に立って指示を出していた騎士団長。
白銀の剣姫。そのクラリスが、今は旅の途中でパンを作っている。
「なんだか不思議です」
リディアが思わず呟いた。
「何が?」
クラリスが振り返る。
「いえ……騎士団にいた頃のクラリスさんからは、こういう姿をあまり想像できなかったので」
「あら」
クラリスが少し笑う。
「私だって料理くらいするわよ」
「もちろん分かっているんですけど……」
リディアは困ったように笑った。
「私の中では、どうしても騎士団長だった頃の印象が強くて」
「それは仕方ないわね」
材料を混ぜ合わせ、生地を作っていく。
最初はリディアもスピカも戸惑っていたが、ミリアとクラリスに教えてもらいながら作業しているうちに、少しずつ手つきも慣れてきた。
「思ったより力が必要なんですね」
スピカが生地をこねながら言う。
「そうなのよ」
ミリアが笑う。
「しっかりこねないと、美味しくならないから」
「魔法でどうにかできないんですか?」
スピカが何気なく尋ねた。
その言葉に、ミリアが少し考える。
「できなくはないと思うけど……」
「そこまでしたら料理じゃなくなるんじゃない?」
クラリスが苦笑した。
「確かに」
スピカも笑う。
やがて生地が出来上がった。形を整え、少し休ませる。
その間に次の準備を進め、十分に膨らんだところでいくつかに分けて形を整えた。
「これを焼けばいいんですね?」
リディアが尋ねる。
「ええ」
ミリアが頷く。
「後はオーブンに入れて待つだけ」
パン生地を並べた天板をオーブンへ入れる。
扉を閉じると、ひとまず作業は終わった。
スピカはオーブンを見つめながら感心したように呟く。
「まさか、移動中の馬車で焼きたてのパンを食べられるとは思いませんでした」
「普通は思わないでしょうね」
リディアが笑う。
「馬車の中にキッチンがある時点で普通ではありませんから」
「確かにそうですね」
二人が笑う。
「焼き上がるまで少し時間があるわ」
クラリスが手を洗いながら言った。
「お茶にしましょうか」
「賛成」
ミリアがすぐに答えた。
四人はキッチンを簡単に片付けると、リビングのテーブルへ移動した。
ミリアがお茶を淹れ、それぞれの前へカップを置いていく。
レオネリア達もそれぞれ好きな場所で寛いでおり、異空間には穏やかな時間が流れていた。
「いただきます」
リディアはカップを手に取る。
温かいお茶を一口飲み、ほっと息を吐いた。
「本当に旅をしていることを忘れそうですね」
「分かります」
スピカも頷く。
「宿の一室にいるみたいです」
「それがメルキオラの狙いなのでしょうね」
ミリアが笑った。
「長い旅でも、ここならちゃんと休めるから」
しばらくは何気ない話が続いた。
これから向かうアルフェリアのこと。
交易都市ならどんなものが売られているのだろうという話。
マリンなら真っ先に食べ物を探しそうだという話になると、クラリスとミリアが揃って苦笑した。
「エリスも一緒になって探すと思うわ」
クラリスが言う。
「二人とも甘いものが好きだものね」
ミリアが続ける。
「そうなんですか?」
スピカが尋ねる。
「ええ。二人で出かけると、気がついたら何か食べていることがあるわ」
「お母さん達に知られたら怒られそうですね」
「私達がその母親なんだけど」
クラリスの言葉に、スピカが「あっ」と声を漏らす。
それを見て全員が笑った。
そんな穏やかな会話が続く中、リディアは何度かクラリスへ視線を向けていた。
聞いてみたいことがあった。以前から気になっていたこと。
けれど、聞いていいものなのか迷っていた。
クラリスがそれに気づく。
「リディア?」
「はい?」
「さっきから何か言いたそうだけど」
「……分かりますか?」
「何度もこっちを見ていればね」
クラリスが笑う。
リディアはカップをテーブルへ戻した。
少し迷ってから口を開く。
「クラリスさん。一つ聞いてもいいでしょうか?」
「何?」
「答えにくければ、答えなくても構いません」
その前置きに、クラリスが少し不思議そうな顔をする。
「どうしたの、急に」
「ずっと気になっていたことがあって……」
リディアは少し間を置いた。
「クラリスさんは、どうして騎士団を辞めたんですか?」
その言葉に、クラリスの表情が僅かに変わった。
「ああ……」
困ったように視線を逸らす。
「それね」
ミリアは何も言わず、静かにお茶を飲んでいる。
リディアは慌てて付け加えた。
「すみません。やっぱり聞かない方が――」
「いいのよ」
クラリスが首を横に振った。
「別に隠していることじゃないから。ただ……どう説明したものかと思って」
クラリスはカップを手に取り、一口だけお茶を飲んだ。
そして、少し昔を思い出すように目を細める。
「最初はね、騎士であることに誇りを持っていたわ」
リディアは黙って聞く。
「自分の剣で人を守れる。困っている人を助けられる。王国に暮らす人達のために戦える。それが嬉しかった」
クラリスの声は穏やかだった。
「魔物の討伐もしたし、盗賊の討伐にも行った。危険な任務もたくさんあったけど、それでも自分が騎士になったことを後悔したことはなかったわ」
「……はい」
リディアにも理解できた。自分も騎士だったからだ。
人々を守るために剣を振るう。
それは騎士にとって大きな誇りだった。
「でも、立場が上がるにつれて、それだけじゃ済まなくなってきたの」
クラリスが小さく息を吐く。
「特に団長になってからね」
リディアの表情が少し真剣になる。
「団長になると、剣を振っていればいいわけじゃない。部下のことも考えなければならないし、他の部隊との調整も必要になる。それくらいなら別に良かったのよ」
「では……」
「問題は、それ以外」
クラリスは少し言いにくそうに続けた。
「貴族との付き合いとか、政治的なしがらみとかね」
「……」
「本当はすぐに動いた方がいいのに、誰かの許可を待たなければならない。明らかに困っている人がいるのに、貴族同士の都合で動けない。そんなことが少しずつ増えていったの」
リディアは黙ったまま聞いている。
「もちろん、組織である以上、勝手に動けないのは分かっていたわ。騎士団には騎士団の規則がある。それ自体を否定するつもりはないの」
クラリスはそう前置きしてから続けた。
「ただ、団長になってからは、剣より書類を持っている時間の方が長いんじゃないかと思うくらいだったわね」
ミリアが小さく笑った。
「よく愚痴を言っていたものね」
「言ってたかしら?」
「言ってたわよ。『私は剣を振るうために騎士になったのに、どうして毎日こんなものと戦ってるの』って」
「……そんなこと言った?」
「何度も」
ミリアが笑う。
クラリスは少し気まずそうにお茶を飲んだ。
スピカも思わず笑ってしまう。
リディアにとっては意外な話だった。
自分が見ていた頃のクラリスは、いつでも堂々としていた。
部下の前で弱音を吐くような姿など見たことがない。
「それでも、書類仕事だけなら辞めなかったと思う」
クラリスの表情が少し真剣になった。
「一番嫌だったのは、人を守ることより、貴族の顔色を窺うことを求められるようになってきたこと」
リディアは静かに頷く。
「誰を優先するか。どこへ人員を出すか。そういう話に、時々余計なものが入ってくるのよ」
「余計なもの……」
「家柄とか、立場とか、誰と誰が繋がっているとか」
クラリスは肩をすくめる。
「そういうものに付き合っているうちに、だんだん窮屈になってきたの」
「それで……冒険者に?」
「ええ」
クラリスの表情が少し柔らかくなる。
「騎士団を辞めて、自由な冒険者になった」
「迷いませんでしたか?」
リディアが尋ねた。
「もちろん迷ったわよ」
クラリスは即答した。
「長くいた場所だったし、部下達を残していくことにも思うところはあった。私なりに騎士団には愛着もあったから」
リディアはカップを握る手に少し力を込めた。
「でもね」
クラリスが続ける。
「私はやっぱり、自分の目で困っている人を見つけたら、自分で助けるかどうかを決めたかったの」
「……」
「誰かの許可を待つんじゃなくてね」
その言葉を聞き、リディアは少しだけ笑った。
「クラリスさんらしいです」
「あら、そう?」
「はい」
リディアは迷うことなく頷いた。
「騎士団にいた頃から、そういう人でしたから」
クラリスは少し意外そうにリディアを見る。
「私は、もっと堅い団長だと思われていたと思っていたけど」
「厳しいとは思っていました」
「やっぱり?」
「でも、誰よりも部下や民のことを見ていたのも知っています」
リディアは真っ直ぐクラリスを見る。
「だから私は、クラリスさんに憧れていました」
クラリスは一瞬言葉を失った。そして少し照れたように笑う。
「面と向かって言われると、恥ずかしいわね」
「本当のことです」
「ありがとう」
クラリスは静かに答えた。
その時、ふわりと、香ばしい匂いが漂ってきた。
「あら?」
ミリアがオーブンの方を見る。
「そろそろ焼けたみたい」
「もうですか?」
スピカが立ち上がった。
四人は揃ってキッチンへ向かう。
ミリアがオーブンを開くと、熱気とともに焼きたてのパンの香りが一気に広がった。
「わあ……」
スピカが思わず声を漏らす。
こんがりと焼き色のついたパンが並んでいる。
「いい感じね」
クラリスが満足そうに頷いた。
「これが、走っている馬車の中で作ったパンなんですよね……」
スピカが改めて呟く。
「そう考えると、本当に変な感じですね」
リディアも笑った。
ミリアが焼き上がったパンを取り出していく。
「少し冷ましたら、みんなで食べましょう」
「エリス達も喜びそうですね」
リディアが言う。
「マリンは匂いだけで飛んできそう」
クラリスの言葉に、ミリアが吹き出した。
「ありそうね」
「扉を開けた瞬間に『何か焼いた?』って言いそう」
「マリンなら言うわね」
二人が笑う。
リディアとスピカもつられて笑った。
外では今も、馬車が王都へ続く街道を進んでいる。
それなのに異空間の中には、焼きたてのパンの香りと穏やかな笑い声が広がっていた。
スピカは改めて周囲を見回す。最初は信じられなかった。
馬車での長旅と聞けば、狭い車内で揺られ続けるものだと思っていた。
けれど、エリス達の旅はまるで違う。
温かいお茶を飲み、仲間と話をし、そして、焼きたてのパンまで食べられる。
「……本当に、旅の途中とは思えませんね」
スピカが呟く。
「私もそう思います」
リディアが答えた。
クラリスはそんな二人を見て微笑む。
「そのうち、これが当たり前になるわよ」
「それはそれで怖いですね」
スピカが苦笑する。
「普通の馬車に戻れなくなりそうです」
その言葉に、また笑い声が上がった。
焼きたてのパンの香りに包まれながら、異空間での穏やかな時間は過ぎていく。
王都へ向かう旅は、まだ始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
移動中の異空間でパン作りを始めたクラリス達。
焼き上がりを待ちながら交わされた何気ない会話から、クラリスが騎士団を辞め、冒険者となった理由も語られました。
焼きたてのパンの香りに包まれながら、穏やかな旅の時間を過ごす一行。
次回は、いよいよ交易都市アルフェリアが目前に迫ります。
しかし、今回のような穏やかな時間のまま、何事もなく辿り着けるわけではないようで――
アルフェリアを目前にしたエリス達の前で、またしても問題が起こります。
次回も『魔族の女王が転生したら聖女になっていた』をよろしくお願いいたします。
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次回の更新は、9月2日18時を予定してます




