スラビヤンスクの思い出
今回は少し長くなってしまいました。
昭和二十一年十一月二十一日
腹痛のため一日作業を休んだ。日本人軍医の野郎が「俺が無理に頼んで赤紙を書かせたのだ」と恩にきせる。
なんとしても1日休めることは嬉しい。身体の具合が悪くて休んだのは始めてである。
昭和二十二年元旦
十九年は大連、二十年は悲徳、二十一年は朝鮮、今年はウクライナのスラビヤンスクだ。来年は何処で正月を迎えるようになるであろうか。昨日のセメント運搬が終らぬため、今日も朝から引張り出された。
一週間も前から正月には米の飯を喰わすと聞いていたので、たのしみにしていたら、なんと三分粥のことであった。
昭和二十二年二月〜三月
いろいろの工場へ行ったが、主としてソーダ工場へ通った。しかしこの二か月間の作業成績が悪いから、四月と五月は日曜日も無休にする旨の宣告を受けた。
毎日寒い上に食糧が少ないので、石炭飯(後述)を食べるために炊事へよく通った。
朝出発前、収容所の門前で並び、工場から迎えが来る迄の僅か十分か二十分の間でも立っている者は一人もなく全員坐るか寝て待つ程衰弱している。原因は勿論栄養失調だ。
殆ど毎日のように死者があり、私の知っている新村、田嶋、吉野等が死亡したのも、この寒い季節であった。
各人がこのさびしい捕虜生活を、なんとしても生きぬいて、親兄弟また妻子の待つ日本へ帰りたいと思ってした行為に、寒い間の石炭泥棒、暖かくなってからの農場荒し、また塩泥棒、その他各所の泥棒、ロスケの泥棒の手伝い等がある。"やめろ“といわれても、やめずに続けた野草摘みもあった。
悪い事と承知して大勢の者がしたことだ。承知してやることは、なお悪いことになるのであろう。しかし生き抜くためには、仕方がなかったことと思う。
でも、こうした行為のために、かえって病気になり倒れた者、死亡した者があったことはくやまれてならない。
スラビヤンスクの思い出は沢山ある。これは別記することにして、作業に行った各種工場の名前と作業内容だけを次に列記する。
一、ストライチャスト
独ソ戦で目茶目茶に破壊された工場の建築作業である。道路工事で骨と皮になった身体のために、ブラブラしていたが段々うるさくなり、ノルマが終る迄帰れないようになってしまった。 作業の種類は穴掘り、セメント練り、石運搬、木材運搬等であった。
一、煉瓦工場
主として生煉瓦の運搬であったが、熱い煉瓦の釜出し作業、製品の積込作業、石炭ガラの運搬等も行なった。
一、キラム
タイル工場で直経三メートル位の釜が多く、主に石炭と石炭ガラの運搬作業をした。原料の運搬もあった。暖い釜の中で長時間サボった事、監督に見つかり釜の周囲をぐるぐる逃げ回っていて、マダムに突き飛ばされたこともあった。
一、ストカン
工場建築作業で、ベトンを背負い屋上へ運ぶ作業と鉄骨の運搬である。
一、マッセル
大きな工場のために各種の運搬作業が殆どであるが、工場專用の農場もあり、運良く農場へ廻されれば、何かの収穫があるので希望者が多かった。
収穫の終ったキャベツ畑で、横から出ている無花果くらいの大きさの新芽を、牛と競争で探して歩いたこともある。
一、アクタレモンド
ウインチ製造工場のため重量物運搬が多かった。朝鮮で武装解除の前日、私に「生きて帰り日本の捨石となり働くのだ」と強く生きることを教えてくれた渡辺班長が事故で死亡した工場である。
一、油工場
食用油の製造工場で、ひまわりの種から油を絞っていた。絞り滓が手に入るので希望者は多い。無断で持帰るので、帰りに身体検査をするようになった。
闇市でこの絞り滓のキャラメル箱位の大きさの物が、三ルーブルで売られていた。
これを一個食べると、飯盒一杯の野草以上に腹がふくれ、腹持ちもよかった。
一、連隊本部
軍関係のため、みんな嫌いで希望者は全然なし。雑役ばかりである。
一、オッセムC
建築作業であるが野草が多く取れるので希望者が割に多い。重労働部へ廻され、ノルマ以上の仕事をして増食を受けた筈なのに私の口に入らず、同姓の者が食べてしまったことがあった。これ程馬鹿らしく思ったことはない。
山羊の餌(大根の葉)を捕虜が毎朝横取りしていたのは、この工場へ行く道であった。
一、ソーダ工場
馬詰と共に一番長期間行った工場である。八時間労働の三交替制であったが、昼もも専属で往復トラックでよく通った。
仕事はメロ (ソーダの原料)の運搬と貨車降し、製品の貨車積み、線路掃除、石炭ガラの運搬等であった。
寒い朝一時間程仕事をし、交替が来るまで暖い釜の中で、馬詰と二人でサボったこともある。また夜勤の時、ロスケの交替と同時に仕事を放棄して隠れた日も度々あった。
ソーダを持出したこと、魚を売ったこと、野草を取り毎日昼食代りに、飯盒に一杯食べたこと、石炭飯にするため石炭を一生懸命運んだこと、ロスケに頼まれ幾度も泥棒の手伝いをしたこと等が思い出される。
毒ガス工場から全員逃げ出し、銃で殴られた上、翌日収容所へ来たゲーペーウ(保安憲兵)から、 ”お前たちはノルマの十八%しか働いていない。ドンバスの炭鉱へ送ってやる"と怒られたこと。石炭ガラの山の上で寒くて馬詰に泣きついたこともあった。お互いに鼻の先が白くなったことを注意し合って凍傷を防いだ。
夜勤から帰ると零下三十度以下となり、全員休んでいた十二月十七日のこと等、思い出の多い大きな工場である。
一、ゴルノイ
碍子工場。女工が多く全部熟練工のように見えた。機械に直結しているモーターは全部ドイツのシーメンス製であった。ここも貨車積と運搬作業が多く、雨降りに原料の粘土を運搬する時は本当に困った。
重量物運搬の女監督、貨車積の女次郎長、土質検査等殆ど女ばかりだ。
碍子の粉砕作業では連日ノルマの三十%増の成積といわれ、工場から収容所へ、私達の分として一人当り三十六ルーブル支払っている、と聞いたが、誰一人受取った者はいなかった。
一、塩工場
この工場附近一帯地下百メートル位の処は岩塩の層であると聞いた。工場の周囲には池が多い。仕事は製品の運搬と貨車への積込だ。
昼食後の休憩時間に大根や馬鈴薯をよく掘りに行った。仕事の時は余り慟かないが、休み時間になると食糧捜しに一生懸命だった。
雀の卵程の馬鈴薯を飯盒へ半分位掘った時は汗びっしょりであった。大根(甜菜)を取りに行き監視人に怒られたこともあった。
スラビヤンスクへ来て最初にこの塩工場へ来た者が、大きな塩の山から、飯盒一杯を持帰った時は、非常に多くの者が喜んだ。
人間にとって塩が如何に必要な品であるか、ということは、捕虜生活をした者でなければ判らないと思う。
三合里収容所へ入る時、砂糖は持っても、塩を持って入った者は無かった。味噌も醤油も無いソ連では塩がないと何も食べられない。「今度捕虜になる時には塩を背負って、収容所へ入るぞ」と話し合ったこともある。
兎に角この塩工場のお蔭で、毎日々々昼食の代用として野草を食べることが出来た。しかし、塩分の取り過ぎが原因で、身体がむくみ病院へ入って死亡した者もあったと聞く。




