第9話『バランスが難しいですねぇ。』
第9話『バランスが難しいですねぇ。』
リリナが一歳を迎えて、少し経った頃だった。
這って移動することにはすっかり慣れ、床の上なら気になった場所へ自分で行けるようになっている。
けれど最近、リリナには新しく気になることがあった。
目の前の低い卓に両手をつき、リリナはゆっくりと腰を持ち上げる。
(よいしょ……っと)
膝を伸ばす。
身体が起きる。
両足で床を踏み、卓につかまったまま立ち上がることができた。
「立ちましたね」
すぐそばにいたサターシャが声をかける。
少し離れた椅子では、エレノアもこちらを見ていた。
「最近よく立つようになったわね」
「ええ。つかまる場所があれば、自分で立てることも増えました」
(そこまではいいんですけどねぇ)
問題は、この先だった。
リリナは卓を握っている右手を見る。
次に左手を見る。
(手を離せばいいんですよね)
やること自体は分かっている。
九十年も生きていたのだから、立つことなど数えきれないほどしてきた。
歩いた距離となれば、それこそどれほどになるか分からない。
立つ。
歩く。
そんなものは、かつては考える必要すらない動作だった。
リリナは右手を卓から離した。
まだ左手がある。
(大丈夫ですねぇ)
続けて左手も離す。
両手が自由になる。
「おっ」
サターシャの声が少しだけ弾んだ。
リリナは立っていた。
一人で。
(できましたねぇ)
そう思った直後だった。
身体がゆっくり後ろへ傾いた。
(あら)
そのまま尻が敷物へ落ちる。
ぽすん、と柔らかな音がした。
「大丈夫?」
エレノアが身を乗り出す。
「あー」
(大丈夫ですよ)
痛いというほどではない。
ただ、立っていたはずなのに、気づいた時には座っていた。
(後ろへ倒れましたねぇ)
原因を考える。
足には力を入れていた。
膝も伸ばしていた。
けれど、どうやらそれだけでは駄目らしい。
(少し後ろに重心があったんでしょうか)
リリナは再び卓へ這って近づいた。
「またやるみたいですね」
サターシャが笑う。
「怪我しないかしら」
「危なくなったら支えますよ」
エレノアは少し心配そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
リリナは卓につかまり、もう一度立ち上がる。
(今度は少し前ですねぇ)
手を離す。
身体をほんの少し前へ。
今度は後ろへ倒れない。
(これなら――)
ぐらり。
身体が前へ傾いた。
(今度は前ですか)
手をつこうとした時には、すでにサターシャの腕が胸元を支えていた。
「これは危ないですね」
「あう」
(すみません)
サターシャはリリナをそのまま抱き上げず、身体が安定すると手を離した。
リリナは再び床へ両手をつく。
「嫌にならないのね」
エレノアが言った。
リリナは卓を見上げる。
(これくらいで嫌にはなりませんよ)
長く生きていれば、何度やってもうまくいかないことくらいいくらでもある。
それに、今回は少し面白くもあった。
前の人生では、立つ時に自分の重心がどこにあるかなど考えたこともなかった。
右へ傾けば身体が勝手に戻り、左へ傾いても足が自然に支えていた。
今は違う。
ほんの少し身体が傾いただけで、そのまま倒れてしまう。
(立つというのも、ずいぶん細かいことをやっていたんですねぇ)
もう一度立つ。
手を離す。
一。
二。
三。
今度は三つ数えるほど立っていられた。
(さっきより長いですねぇ)
少し嬉しくなる。
その瞬間に気が緩んだのか、身体が右へ傾いた。
「あっ」
エレノアが声を上げる。
リリナは右足を出そうとした。
足は出なかった。
そのまま横へ座り込む。
(足を出せば支えられるはずなんですけどねぇ)
知識としては分かる。
身体が傾いたなら、傾いた方向へ足を出せばいい。
ところが、今の足はその考えについてきてくれない。
出そうと思った時には、もう転んでいる。
(考えてからでは遅いということですかねぇ)
立つ。
転ぶ。
もう一度立つ。
また転ぶ。
何度か繰り返しているうちに、サターシャもエレノアも最初ほど声を上げなくなった。
危なければ支える。
尻もちくらいなら見守る。
どうやら二人とも、そのくらいの距離でいてくれることにしたらしい。
リリナにとっても、その方がありがたかった。
また卓につかまる。
立ち上がる。
手を離す。
今度は、四つ数えても倒れなかった。
(少し分かってきましたねぇ)
膝を固めすぎない。
腰を後ろへ引きすぎない。
足の裏のどこに体重がかかっているのかを感じる。
右へ傾けば、少し左へ戻す。
左へ傾けば、少し右へ。
ほんの小さな動きだった。
けれど、それを何度も何度も繰り返して、やっと立っていられる。
(バランスというのは忙しいですねぇ)
立っているだけなのに、身体のあちこちが仕事をしている。
その時、部屋の扉が開いた。
「まだやっているのか」
低い声に、リリナが顔を向ける。
ガイウスだった。
「あなた、お帰りなさい」
「ああ」
ガイウスはエレノアへ短く答えた後、卓のそばで立っているリリナを見る。
「立てるようになったのか」
「つかまればね」
「今は一人で立っていますよ」
サターシャが付け加える。
ガイウスの目が少しだけ大きくなった。
「そうか」
(分かりやすいですねぇ)
声はいつもと大して変わらない。
けれど、顔は明らかにこちらへ向いている。
リリナはガイウスを見たまま立っていた。
それだけなら問題なかった。
ただ、ふと考えてしまった。
(歩けるでしょうか)
ガイウスまでは、それほど遠くない。
這えばすぐに着く。
けれど今は立っている。
リリナは視線を足元へ落とした。
(歩くなら、片方の足を出すんですよね)
当たり前のことを考える。
右足を前へ。
そして左足。
何十年もそうしてきた。
リリナは右足を持ち上げようとした。
その瞬間、身体がぐらりと揺れる。
(なるほど)
片足を上げるということは、その間はもう片方の足だけで身体を支えるということらしい。
(それは不安定になりますねぇ)
今さらのように気づく。
右足を少しだけ前へ出した。
床につく。
一歩だった。
「……歩いた?」
エレノアの声が聞こえた。
(まだ一歩ですよ)
リリナは立て直す。
次は左足。
持ち上げる。
身体が右へ傾く。
(こっちですね)
慌てて腰を戻す。
左足が床についた。
二歩。
「リリナ」
ガイウスが呼んだ。
いつの間にか、少し腰を落としていた。
両手を広げるでもなく、大げさに呼ぶでもない。
ただ、こちらを見ている。
(では、そこまで行ってみましょうかねぇ)
もう一歩。
三歩。
足を出すたびに身体が揺れる。
前へ倒れそうになる。
後ろへ戻りそうになる。
それでも、すぐには座らなかった。
次の足を出す。
四歩。
「リリナ……!」
今度はエレノアの声が少し大きい。
(そんなに見られると緊張するんですけどねぇ)
五歩目を出そうとした。
足は上がった。
けれど、その瞬間に身体が前へ傾きすぎた。
(あ)
今度は戻せない。
倒れる。
そう思ったところで、大きな腕が身体を受け止めた。
「危ない」
ガイウスだった。
リリナはその腕の中で瞬きをする。
数歩。
それだけだった。
部屋を横切ったわけでもない。
自由に歩けるようになったわけでもない。
それでも、自分の足で進んだ。
「歩いたわね」
エレノアが嬉しそうに笑う。
「五歩ほどでしたね」
サターシャも笑っている。
「五歩か」
ガイウスが小さく繰り返した。
そして腕の中のリリナを見る。
「よく歩いたな」
(ありがとうございます)
返事をしようとして、口を開く。
「あー」
まだこちらも思うようにはいかない。
ガイウスはなぜか満足そうに頷いた。
(通じたんでしょうか)
リリナは腕の中で自分の足を見る。
もう一度立てと言われれば立てるかもしれない。
けれど、今すぐまた五歩歩けと言われたら少し考えたい。
足だけではない。
腰も背中も、思っていた以上に疲れている。
(歩くというのは、こんなに大変でしたかねぇ)
前の人生では、何も考えずに何十年も続けていたことだった。
今は数歩進むだけで精一杯だ。
それでも。
立っては転び、また立って。
何度も失敗した末に、少しだけ前へ進めた。
リリナはガイウスの腕の中から、先ほど立っていた卓を振り返る。
大人なら数歩で終わる距離だった。
けれど今の自分には、十分遠かった。
(次はもう少し歩けそうですねぇ)
そう思ったところで、身体から力が抜けた。
今日はもう、這って移動する方がよさそうだった。




