第10話『みんなでごはんですねぇ。』
第10話『みんなでごはんですねぇ。』
リリナが一歳を迎えてから、少し経った頃だった。
食べられる物は以前より随分と増えた。
まだ大人と同じ物を何でも口にできるわけではないが、柔らかく煮た野菜や粥のようにした穀物なら問題なく食べられるし、細かくした肉も少しずつ口にするようになっている。
そして今日、いつもとは少し違う場所にリリナはいた。
(高いですねぇ)
背もたれのついた小さな椅子に座り、目の前の卓を見る。
自分の前には小さな器と匙が置かれ、その向こうには見慣れた顔が並んでいた。
エレノア。
アルクス。
そしてガイウス。
「リリナがここで食べるの、初めてだね」
向かい側に座ったアルクスが嬉しそうに言った。
「そうね。今まではまだ長く座っているのも大変だったもの」
エレノアがリリナの椅子を確認するように手を添える。
「最近はよく動くようにもなりましたから」
リリナの後ろではサターシャが控えていた。
(動くと言っても、まだ歩くより這った方が早いですけどねぇ)
数歩歩けるようにはなった。
けれど、それだけでどこへでも自由に行けるようになったわけではない。
まして今は歩くことより、目の前のものの方が気になっていた。
湯気の立つ器の中には、とろりと柔らかく煮込まれた穀物と細かく潰された野菜が入っている。
別の小皿には、指でも崩れそうなほど柔らかな肉が少しだけ盛られていた。
周囲の皿とは明らかに違う。
ガイウスたちの前には焼かれた肉やパンが並び、香草の匂いも漂っている。
(さすがに同じ物というわけにはいきませんよねぇ)
分かってはいる。
分かってはいるのだが、焼きたてらしいパンの香りは少し気になった。
じっと見ていたらしい。
「リリナ、パン欲しいの?」
アルクスが気づいた。
(よく見てますねぇ)
「これ美味しいよ」
アルクスは自分のパンを手に取ると、小さくちぎろうとする。
「アルクス」
エレノアが呼んだ。
「まだそのままは駄目よ」
「少しだけでも?」
「少しでも硬いものは硬いでしょう」
アルクスが残念そうにパンを見た。
「そっか……」
「嬢ちゃんの分なら、ちゃんと用意してあるぞ」
聞き慣れない太い声が近くからした。
リリナが顔を向ける。
大きな身体の男が、追加の皿を持って立っていた。
年齢はガイウスより上だろうか。
いかにも厨房の熱に慣れているような顔をしている。
「ナンザス」
エレノアが男を見る。
「今日はわざわざあなたが持ってきたの?」
「初めて旦那様たちと同じ卓で食べるんでしょう。だったら、食ってる顔くらい見ておきたいじゃありませんか」
ナンザスと呼ばれた男はそう言うと、リリナの前へ小さな皿を置いた。
そこには、柔らかく煮て小さくしたパンが入っていた。
「こいつなら食える。ミルクと少しのスープで柔らかくしてあるからな」
「わあ、リリナにもパンだ」
なぜかアルクスの方が喜んでいる。
「良かったね」
(ありがとうございます)
リリナがナンザスを見ると、男は満足そうに頷いた。
「しっかり食いな。腹が減ってちゃ何も始まらん」
(なるほど。そういう方なんですねぇ)
ずいぶん分かりやすい。
「ナンザス」
ガイウスが低い声で呼ぶ。
「何です、旦那様」
「リリナの食事は任せる」
「最初からそのつもりですよ」
ナンザスは平然と答えた。
ガイウスが何も言わないところを見ると、いつものことなのかもしれない。
ナンザスは一礼すると、厨房の方へ戻っていった。
「食べてみましょうか」
エレノアが柔らかくなったパンを匙に少し取る。
リリナは口を開いた。
「あー」
自分で食べることも少しずつ練習しているが、まだ匙を思った通りに扱えるわけではない。
今は素直に食べさせてもらう。
口の中へ柔らかなパンが入った。
(美味しいですねぇ)
ほんのりとした甘みと、温かなスープの味がする。
「どう?」
アルクスが身を乗り出した。
「あー」
「美味しいって」
(まだそこまでは言ってませんよ)
「そうね」
エレノアまで笑っている。
(お母様まで)
リリナはもう一口食べた。
アルクスは満足したらしく、自分のパンを食べ始める。
ガイウスも食事へ戻った。
けれど、何度かこちらへ視線が向いている。
(お父様も気にしてますねぇ)
リリナが見ると、ガイウスは何事もなかったように皿へ視線を戻した。
(分かりやすい方ですねぇ)
思わず少し笑いそうになる。
同じ卓の上で、それぞれが違う料理を食べている。
アルクスは今日あったことをエレノアへ話し、エレノアは時々笑いながら相槌を打つ。
ガイウスは静かに聞いているように見えるが、アルクスが話を間違えると短く訂正を入れる。
リリナはその声を聞きながら、ゆっくりと食事を続けた。
特別なことは何もない。
誰かが大声を出すわけでもない。
祝いの席でもない。
ただ家族が同じところへ座り、同じ時間に食事をしている。
それだけだった。
なのに。
口の中に残った柔らかなパンの甘みから、不意に別の味を思い出した。
(……饅頭)
ずっと昔。
まだ南江ウメでもなく、松竹ウメだった頃。
食べ物が今よりずっと少なかった時代に、自分の前へ置かれた一つの饅頭。
あの時は、嬉しかった。
甘いものを食べられることが、ただ嬉しかった。
子供だった自分は、それ以上のことまで考えていなかったのだと思う。
けれど、長く生きた。
家族を持った。
自分の子供ができた。
食べ物を自分ではなく子供へ渡すこともあった。
そうしてようやく、あの日自分がもらった饅頭が、ただの食べ物ではなかったのだと分かった。
味よりも先に浮かんできたのは、あの日の家族の顔だった。
そして自分の前へ饅頭を差し出してくれた手。
(懐かしいですねぇ)
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「リリナ?」
エレノアの声に、リリナは顔を上げた。
「どうしたの?」
いつの間にか、匙が止まっていたらしい。
「あー」
(何でもありませんよ)
「もうお腹いっぱい?」
「まだ食べると思いますよ」
サターシャが後ろから言った。
「さっきからお料理を見ていますから」
(そこまで見られてましたか)
エレノアがもう一度匙を差し出す。
リリナは口を開いた。
柔らかな野菜が入ってくる。
今度は少し塩気があった。
目の前にはエレノアがいる。
向かいにはアルクスがいる。
その隣にはガイウスがいる。
前の人生の家族ではない。
もちろん、あの人たちの代わりでもない。
父も母も、夫も、子供も、孫も、曾孫も。
九十年の中で家族になった人たちは、今もリリナの中にいる。
それが消えたわけではなかった。
ただ。
その人生を終えたあとにも、こうして自分を家族として迎えてくれる人たちがいる。
(家族というのは、増えることもあるんですねぇ)
少し不思議な気持ちだった。
「リリナ、これ見て」
アルクスが自分の皿を指さす。
「今日の肉、すごく柔らかいよ」
「だからリリナにはまだ早いって言ってるでしょう?」
「見るだけだよ」
(見せられても食べられないんですけどねぇ)
「大きくなったら一緒に食べようね」
アルクスが言う。
リリナは兄を見る。
「あー」
「うん、約束」
(返事をしたことになってますねぇ)
どうやら今の自分が声を出すと、大抵は都合よく解釈されるらしい。
けれど、今回はそれでもいい気がした。
リリナは自分でも匙を持ってみようと手を伸ばした。
「自分で持つ?」
サターシャが柄を握らせてくれる。
(やってみましょうかねぇ)
しっかり握る。
器へ入れる。
少しだけすくう。
口へ運ぶ。
途中までは良かった。
匙が傾いた。
「あ」
柔らかな粥がぽとりと卓へ落ちる。
(あら)
「惜しい」
アルクスが言った。
「もう少しだったね」
(そうですねぇ)
もう一度やってみる。
今度は口の手前まで来た。
けれど、口へ入れる前に匙が頬へ当たった。
「あう」
「ふふっ」
エレノアが笑う。
(なかなか難しいですねぇ)
九十年も生きて、食事の仕方まで一から覚え直している。
少し前には立つことに苦労し、その前には言葉を出すことに苦労した。
今度は匙だ。
(忙しい人生ですねぇ)
そんなことを考えていると、アルクスが笑った。
「リリナ、ほっぺについてるよ」
身を乗り出し、小さな布でリリナの頬を拭く。
「ここ」
(ありがとうございます)
アルクスはきれいになった頬を見て満足そうに頷いた。
「取れた」
「アルクスもちゃんと自分の食事をしなさい」
「食べてるよ」
エレノアに言われ、アルクスは慌てて自分の席へ戻る。
ガイウスが小さく息を漏らした。
笑ったのかもしれない。
リリナはもう一度、食卓を見回した。
広い部屋。
大きな卓。
知らなかった料理。
知らなかった世界。
前の人生とは何もかも違う。
それなのに、家族の声を聞きながら食事をしていると、不思議なくらい懐かしかった。
あの饅頭を食べた小さな食卓も。
夫や子供たちと囲んだ食卓も。
孫や曾孫が増えて賑やかになった食卓も。
どれも、自分の人生だった。
そして今ここにある食卓も、きっとこれから自分の人生になっていく。
リリナはエレノアから差し出された次の一口を食べる。
温かかった。
(また家族と同じ食卓に座れるとは思いませんでしたねぇ)
リリナはゆっくりと味わいながら、家族の話す声に耳を傾けていた。




