第11話『お庭も広いですねぇ。』
第11話『お庭も広いですねぇ。』
リリナが一歳を過ぎてから、歩ける距離は少しずつ伸びていた。
まだ長い距離を歩けば足元は怪しくなるし、急いで移動するなら這った方がずっと早い。
それでも部屋の中だけなら、誰かに手を借りずに進めることも増えている。
そんなある日のことだった。
「今日はお庭に出てみましょうか」
朝の支度を終えたところでエレノアがそう言った。
「お庭?」
近くにいたアルクスが先に反応する。
「ええ。今日は暖かいし風も強くないから」
「僕も行く」
「あなたはこのあとお稽古でしょう?」
「あ……そうだった」
アルクスが分かりやすく肩を落とした。
「終わったら会えるかもしれないでしょう」
「うん」
それだけで機嫌を直したアルクスは、リリナの前まで来てしゃがみ込んだ。
「リリナ、庭すごく広いよ」
「あー」
(そうなんですか)
「いっぱい歩けるから」
(まだいっぱいは歩けませんけどねぇ)
リリナがそう思っている間に、アルクスは迎えに来た使用人と一緒に部屋を出ていった。
「それでは私たちも行きましょうか」
エレノアが立ち上がる。
リリナはサターシャに手を取ってもらいながら、その後をついていった。
これまでも窓から庭を眺めたことはある。
緑の木々や色とりどりの花が見え、人が行き来していることも知っていた。
けれど実際に外へ出るのは、それとはまるで違った。
扉が開いた途端、柔らかな風が頬を撫でた。
(おお)
思わず目を細める。
部屋の中へ入ってくる風とは違う。
髪が揺れ、服の裾まで動いている。
土の匂いがした。
草の匂いもする。
どこかで鳥が鳴いていた。
声は窓越しに聞くよりずっと近い。
(外ですねぇ)
当たり前のことなのに、それが妙に嬉しかった。
「眩しい?」
エレノアが顔を覗き込む。
「あー」
「少ししたら慣れるわ」
サターシャに手を引かれながら、リリナはゆっくりと庭へ降りた。
最初の一歩で足の裏に違和感があった。
(ん?)
もう一歩進む。
今度は少し身体が傾いた。
「おっと」
サターシャがすぐに手を支える。
「大丈夫ですか?」
「あー」
(大丈夫ですけど……)
足元を見る。
室内の床とは違い、地面には小さな凹凸があった。
土の上には草が生えている。
その草も同じ高さではない。
(なるほど)
歩けるようになったからといって、どこでも同じように歩けるわけではないらしい。
リリナは慎重に足を出した。
一歩。
もう一歩。
少し柔らかい土を踏む。
次の足が草の上に乗った。
ふらりと身体が揺れる。
「あっ」
エレノアが手を伸ばしかけたが、リリナはなんとか踏みとどまった。
(危なかったですねぇ)
「上手よ」
エレノアが笑う。
「少しずつでいいのよ」
(そうします)
急ぐ理由もない。
リリナは自分の足元を確かめながら庭を進んだ。
小さな石を避ける。
少し盛り上がった土を越える。
ほんのわずかな段差でも、今の身体では油断できない。
部屋の中なら何でもなかった数歩が、外では妙に大変だった。
(歩くというのも奥が深いですねぇ)
九十年近く当たり前にしていたことを、今は一つずつ覚え直している。
それでも嫌ではなかった。
むしろ自分の身体が少しずつ出来ることを増やしていくのは、なかなか面白い。
顔を上げると、視界いっぱいに庭が広がっていた。
窓から見ていた時よりもずっと大きい。
花壇があり、その向こうには背の高い木が並んでいる。
さらに遠くでは庭を手入れする人たちが働いていた。
道も一つではない。
屋敷の横へ続くものもあれば、木々の間へ伸びているものもある。
(庭も広いですねぇ)
リリナは立ち止まって周囲を見回した。
そして振り返る。
「……あー」
思わず声が出た。
普段暮らしている屋敷が、目の前に大きくそびえている。
中からでも広いとは思っていた。
けれど外から見ると、さらに大きい。
窓がいくつも並び、建物は左右へ長く伸びている。
(こんなに大きかったんですねぇ)
毎日その中にいると、意外と分からないものだ。
「お屋敷が気になる?」
サターシャが尋ねる。
「あー」
「いつも中にいらっしゃいますから、外から見るのは初めてですね」
(はい)
リリナはしばらく屋敷を見上げた。
自分の部屋がどの辺りにあるのか探そうとしたが、窓が多すぎてさっぱり分からない。
(これは迷いますねぇ)
中でも未だに知らない場所がたくさんある。
それなのに外までこんなに広い。
生まれてから一年以上が経ったというのに、自分が知っている場所などまだほんの一部なのだろう。
エレノアが少し先の花壇まで歩いていく。
「リリナ、こちらに綺麗な花がありますよ」
リリナもそちらへ向かおうとした。
一歩進む。
もう一歩。
その時だった。
カンッ。
遠くから乾いた音が響いた。
(ん?)
リリナは足を止めた。
少し間を置いて、また音がする。
カン、カンッ。
何か硬いもの同士がぶつかっているような音だった。
庭の鳥の声とも、使用人たちが働く音とも違う。
リリナは音のする方へ顔を向けた。
「あちらが気になりますか?」
サターシャも視線を追う。
「あー」
「向こうには訓練場があるんですよ」
(訓練場)
言葉の意味は分かる。
けれど、この家の訓練場を見たことはなかった。
リリナがじっとそちらを見ていると、エレノアも戻ってきた。
「アルクスがいるのかもしれないわね」
(お兄様が?)
その言葉に、リリナはさらに目を凝らした。
庭のずっと向こう。
木々の切れ間から、何人かの人影が見える。
距離があるため顔まではよく分からない。
けれど、その中に小さな身体が一つあった。
見覚えのある髪。
(お兄様ですねぇ)
アルクスだった。
手には長い棒のようなものを持っている。
よく見れば木剣らしい。
誰か大人と向かい合い、何度も同じ動きを繰り返していた。
カンッ。
アルクスの木剣と相手の木剣がぶつかる。
弾かれる。
構え直す。
また振る。
いつもリリナの前で笑っている時とは違う顔だった。
口を動かして何か話しているわけでもない。
こちらへ手を振ることもない。
ただ真剣に相手を見ていた。
(あんな顔もするんですねぇ)
少しだけ不思議だった。
リリナが知っているアルクスは、よく話し、よく笑い、何かと妹の世話をしたがる兄だ。
けれど当然、それだけではないのだろう。
リリナが知らないところで、アルクスにはアルクスの時間がある。
カンッ。
また音が響く。
リリナはしばらくその姿を眺めていた。
「もう少し大きくなったら、近くで見せてもらいましょうか」
エレノアが言った。
「あー」
(近くでも見られるんですか)
少し興味が湧いた。
けれど今すぐそちらへ行きたいほどではない。
今日はまだ庭に出たばかりだ。
見たいものは他にもたくさんある。
リリナは再び足元へ視線を落とした。
草。
土。
小さな石。
その向こうには花壇。
さらに遠くには、知らなかった訓練場。
(外に出ると、知らないものがたくさんありますねぇ)
リリナはまた一歩を踏み出した。
少しぐらつく。
けれど今度は自分で身体を戻すことができた。
背後からは、木剣のぶつかる乾いた音が聞こえている。
リリナはその音を聞きながら、目の前の広い庭をゆっくりと歩いていった。




