第12話『お馬さんは大きいですねぇ。』
第12話『お馬さんは大きいですねぇ。』
庭へ出るようになってから、リリナの行ける場所は少しずつ増えていた。
もちろん、どこへでも好き勝手に歩いていけるわけではない。
室内よりも庭の方が歩きにくいことは、すでに嫌というほど分かっているし、少し長く歩けばまだ足も疲れる。
それでも窓の向こうにしかなかった場所を、自分の足で見に行けるようになったことは嬉しかった。
その日も、リリナはサターシャに手を取ってもらいながら庭を歩いていた。
「今日は昨日より上手ですね」
「あー」
(少しは慣れてきましたねぇ)
土の柔らかさも、草を踏んだ時の感触も、最初ほど驚かなくなった。
小さな石があれば避ける。
地面が少し盛り上がっていれば足を高く上げる。
それでも油断すると身体はすぐに傾くので、まだまだ気は抜けない。
そんなことを考えながら歩いていると、少し離れたところから低い音が聞こえた。
ブルルッ。
リリナは足を止めた。
(ん?)
もう一度聞こえる。
今度は、それとは別の音もした。
コツ、コツ、と硬いものが地面を叩く音。
どこかで聞いたことのある音だった。
「あちらが気になりますか?」
サターシャがリリナの視線に気づく。
「あー」
「あちらには厩舎がありますよ」
(厩舎)
言葉を聞いて、リリナはすぐに納得した。
(馬ですか)
馬なら前の人生でも知っている。
テレビや写真で見たこともあるし、実物を見たことだってあった。
だから何も珍しいものではないと思っていた。
少なくとも、厩舎の近くまで行くまでは。
「今日は外に出ている子もいますね」
サターシャの言葉に、リリナは顔を上げた。
「……あー」
思ったより、大きかった。
(こんなに大きかったですかねぇ)
もちろん馬が大きな動物だということは知っている。
けれど、それは大人だった頃の感覚だ。
今のリリナは一歳を少し過ぎたばかりである。
馬の脚だけでも随分長い。
背中など、見上げなければならないほど高い。
ゆっくり動いているだけなのに、一歩ごとの迫力まで違って見えた。
(お馬さんは大きいですねぇ)
思わず立ち止まったまま眺めていると、厩舎の方から一人の男が歩いてきた。
日に焼けた顔に、少し乱れた髪。
服には土や藁がついている。
愛想が良さそうには見えなかった。
「何の用だ」
低い声だった。
「こんにちは、ドルバークさん」
サターシャが穏やかに挨拶する。
「お嬢様が外を歩かれるようになりましたので、少しこちらまで」
ドルバークと呼ばれた男は、リリナへ視線を落とした。
それからすぐ、近くにいる馬を見る。
「そこから先は待て」
短い言葉だった。
サターシャもすぐに足を止める。
「はい」
(やっぱり危ないんですねぇ)
馬は大人しそうに見える。
けれど、これだけ大きければ少し身体を動かしただけでも、一歳児には十分危険なのだろう。
ドルバークは一頭の馬の横へ行くと、その首元へ手を置いた。
「ほら、落ち着け」
先ほどまでの声とは少し違った。
「今日は機嫌いいな」
馬が鼻を鳴らす。
「そうかそうか」
(……ずいぶん違いますねぇ)
リリナは思わずドルバークを見る。
こちらには必要なことしか言わなかったのに、馬には随分よく話す。
ドルバークが首筋を撫でると、馬も気持ちよさそうに頭を下げた。
「この子たちはドルバークさんが大好きなんですよ」
サターシャが小声で教えてくれる。
「余計なこと言うな」
「本当のことではありませんか」
「仕事だ」
(照れてるんでしょうかねぇ)
そう思っている間に、少し離れたところにいた別の馬がこちらを向いた。
大きな耳が動く。
リリナもそちらを見る。
馬もじっとこちらを見ている。
「そいつには近づくな」
ドルバークが言った。
「知らん奴には自分から寄らん」
サターシャがリリナの手を握ったまま頷く。
「では、ここから見せてもらいましょう」
「あー」
リリナにも異論はなかった。
触りたいとは思う。
けれど、嫌がっているものへわざわざ近づく必要もない。
それに、これだけ大きな相手なら、まず向こうの様子を見る方がいい。
リリナはその場に立ったまま、馬を眺めた。
馬も動かない。
耳だけが時々こちらを向く。
(気になりますか?)
もちろん答えはない。
リリナも手を伸ばさなかった。
呼びもしない。
ただ待っていた。
前の人生でも、急かして上手くいったことなどそう多くはなかった。
子供が話したくない時もあった。
孫が泣き止まない時もあった。
曾孫が知らない人を警戒して、自分のところへ来てくれないことだってあった。
そういう時は、こちらから無理に距離を縮めない方がいい。
待っていれば、そのうち向こうから来ることもある。
来なければ、それはそれでいい。
リリナにとっては、それだけのことだった。
馬が一歩動いた。
コツ。
ドルバークが顔を向ける。
さらに一歩。
コツ。
「あら」
サターシャが小さく声を漏らした。
馬はこちらを見たまま、ゆっくりと近づいてくる。
「……珍しいな」
ドルバークが呟いた。
(そうなんですか)
馬が止まった。
まだ手を伸ばせば届く距離ではない。
リリナは動かずに待った。
すると、もう一歩近づいてきた。
大きな鼻先が目の前まで下がってくる。
ふん、と温かい息が頬へかかった。
「……あー」
(近いですねぇ)
思っていた以上に近い。
しかも鼻まで大きい。
リリナが少し目を丸くすると、馬はまた鼻を鳴らした。
「怖くありませんか?」
サターシャが訊く。
(びっくりはしますけどねぇ)
「あー」
逃げたいほどではなかった。
リリナはゆっくりと片方の手を上げた。
ただし、馬の顔へそのまま触れようとはしない。
小さな手を、自分の前へ出したところで止めた。
馬がその手を見る。
鼻先が近づいてくる。
ふん、ふん、と匂いを嗅いだ。
リリナはじっと待つ。
やがて馬の鼻先が、小さな手のひらへ触れた。
(柔らかいですねぇ)
思っていたより温かい。
リリナが指先を少しだけ動かす。
馬は離れなかった。
それどころか、もう少し頭を下げてくる。
リリナは今度こそ、そっと鼻筋に触れた。
「……本当に珍しいな」
ドルバークがもう一度言った。
「この子、そんなに人が苦手なんですか?」
「苦手ってほどじゃない」
ドルバークは腕を組んだまま馬を見る。
「知らん奴が近づけば、普通は先に距離を取る」
「でもリリナ様には自分から来ましたね」
「ああ」
ドルバークは少し黙った。
それからリリナを見た。
「何もしてないな」
(何もしてませんねぇ)
「あー」
「何もしてないからか」
ドルバークの言葉に、サターシャが首を傾げる。
「といいますと?」
「大抵は馬を見たら、触ろうとする」
ドルバークは馬の首へ手を置いた。
「呼ぶ奴もいる。いきなり手を出す奴もいる。怖がって固まる奴もな」
リリナは自分の手を見た。
「こいつは待ってただろ」
「まあ」
「馬が寄るまで何もしなかった」
ドルバークはそこで一度言葉を切る。
「それなら、馬の方も嫌がる理由が少ない」
(なるほど)
リリナとしては、嫌がるかもしれない相手へ無理に近づかなかっただけなのだが、馬にとってはそれが良かったらしい。
「お嬢様は昔から、よく人のお顔を見ていらっしゃいますからね」
サターシャが言った。
「赤ん坊の頃から、誰かが何をしているのかじっと見ておられました」
(そこまで昔のことを出さなくてもいいですよ)
もちろん声にはならない。
馬がもう一度鼻先を寄せてきた。
「あう」
今度は少し押され、リリナの身体が後ろへ揺れる。
サターシャがすぐに支えた。
「おっと」
(やっぱり力もありますねぇ)
ドルバークが馬の額を軽く押す。
「調子に乗るな」
馬がブルルッと鼻を鳴らした。
「お嬢様が小さいんだから加減しろ」
(やっぱりよく喋りますねぇ)
リリナは馬よりも、そちらの方が少し面白くなってきた。
ドルバークが気づいたようにこちらを見る。
「何だ」
「あー」
「何でもないと思いますよ」
サターシャが笑う。
「そうか」
ドルバークはそれ以上追及せず、また馬へ視線を戻した。
リリナも目の前の馬を見上げる。
最初に見た時は、ただ大きいと思った。
脚も長く、身体も高く、少し動くだけでも迫力があった。
今も大きいことには変わらない。
それでも、さっきまでより少しだけ近い存在に思える。
リリナがもう一度手を伸ばすと、馬は今度は迷わず鼻先を寄せてきた。
(気に入ってもらえたんですかねぇ)
「どうやら気に入られたみたいですね」
サターシャが同じことを言った。
(そうみたいですねぇ)
リリナはそっと馬の鼻筋を撫でる。
馬は目を細めるようにして、その場を離れなかった。
それを見ていたドルバークが、小さく息を吐く。
「まあ、こいつが嫌がってないならいい」
最初よりほんの少しだけ、声が柔らかかった。
リリナはそんなドルバークと、大きな馬を交互に見る。
知らない場所へ来れば、知らないものがある。
けれど近づいてみれば、少しずつ分かることもあるらしい。
馬がもう一度、リリナの小さな手へ鼻先を押しつけてきた。
(やっぱり大きいですけど、優しいですねぇ)
リリナは今度は驚かず、その温かな鼻先をゆっくり撫でた。




