第13話『初めての言葉ですねぇ。』
第13話『初めての言葉ですねぇ。』
リリナが声を出すこと自体には、もうそれほど苦労しなくなっていた。
「あー」や「うー」なら気分に合わせて出せるし、口の形によって音が変わることも少しずつ分かってきている。
だからといって、頭の中にある言葉をそのまま口から出せるわけではなかった。
(分かってはいるんですけどねぇ)
リリナは自分の膝の上に置いた手を眺める。
言いたいことならいくらでもある。
エレノアにも、ガイウスにも、サターシャにも、もちろんアルクスにも話したいことはたくさんあった。
けれど口を開けば、それらのほとんどが「あー」か「うー」に変わってしまう。
(なかなか思い通りにはいきませんねぇ)
「リリナ」
声がして顔を上げると、アルクスが目の前にしゃがみ込んでいた。
「今日は何してたの?」
「あー」
「お庭?」
「あー」
「お馬さんのところ?」
「あー」
アルクスが少し困った顔をする。
「全部同じ返事だね」
(仕方ないでしょう)
言えるものならきちんと答えている。
リリナがじっと兄を見ると、アルクスはすぐに笑った。
「でも分かってるんだよね」
「あー」
「ほら、やっぱり」
(今のはたまたま同じ音ですけどねぇ)
どうやら兄の中では、妹の「あー」にはずいぶん多くの意味があるらしい。
アルクスは床へ座ると、近くに置かれていた木の玩具をリリナへ渡した。
以前なら両手で持つだけでも大変だったが、今では受け取ること自体は難しくない。
「これ覚えてる?」
小さな木馬だった。
(覚えてますよ)
リリナが木馬を見てからアルクスを見る。
「これ、前にリリナが取りに来たんだよ」
(取りに行ったというより、お兄様のところまで這っていったんですけどねぇ)
「あの時すごかったんだよ。ずっとこうやって……」
アルクスが床へ手をつき、這う真似をする。
「アルクス様」
少し離れたところからサターシャの声が飛んだ。
「お召し物が汚れますよ」
「あ」
アルクスは慌てて起き上がった。
(怒られましたねぇ)
「今のはリリナに説明してただけだから」
「床を這わなくても説明はできます」
「はい」
素直に座り直す兄を見て、リリナは少しだけ笑った。
「あぅ」
「笑った?」
アルクスがすぐに顔を近づける。
「あー」
「やっぱり笑ったよね」
(近いですよ)
けれど、その顔を見ているうちに、ふと思い出した。
以前も同じように、アルクスの名前を呼ぼうとしたことがある。
ア、ル、ク、ス。
四つの音は難しすぎた。
結局出せたのは、兄を呼ぼうとして絞り出した曖昧な音だけだった。
「に……」
リリナの口から小さな音が漏れた。
アルクスの動きが止まる。
「……え?」
(ん?)
今の音は、自分でも少し違った気がした。
リリナは口の動きを確かめるように、もう一度舌を動かした。
「に……ぃ」
アルクスの目が大きくなる。
「お母様!」
(まだ呼ばなくても)
「お母様!」
勢いよく振り返ったアルクスの声に、近くにいたエレノアがこちらを向いた。
「どうしたの?」
「今、リリナが僕のこと呼んだ!」
エレノアが目を瞬く。
「前にも呼んでくれたでしょう?」
「今日は違うの。もっとちゃんとしてた」
(ちゃんとしてたんですかねぇ)
リリナとしても、前より狙った音へ近づいている感覚はあった。
けれどまだ「言葉」と呼べるほどなのかは分からない。
アルクスが再びリリナの前へしゃがむ。
「リリナ」
期待に満ちた顔だった。
(そんなに見られるとやりにくいですねぇ)
「もう一回言ってみて」
簡単に言ってくれる。
リリナは一度口を閉じた。
兄。
前の人生でも何度も使った言葉だ。
けれど、この身体で出したことはない。
必要なのは最初の音。
舌を動かす。
「に……」
少し息が抜けた。
もう一度。
「にぃ……」
近い。
アルクスは何も言わずに待っていた。
普段なら先に何か言いそうなのに、今はただじっとリリナを見ている。
(もう一度ですねぇ)
リリナは小さく息を吸った。
舌の位置を意識する。
口を開く。
「にい」
今度は、自分でも分かった。
途中で崩れなかった。
二つの音が、きちんとつながった。
部屋が静かになる。
アルクスは口を開けたまま動かなかった。
(聞こえませんでしたかねぇ)
「……にい」
もう一度言う。
「呼んだ!」
今度はアルクスが飛び上がった。
「今、僕のこと呼んだ! にいって!」
「ええ」
エレノアも笑っている。
「今度ははっきり聞こえたわ」
「本当に?」
「本当よ」
「サターシャも聞いた?」
「はい。きちんと聞こえましたよ」
「やった!」
(ずいぶん大事になりましたねぇ)
アルクスは嬉しそうにリリナの周りを歩き回っている。
「もう一回言って」
「アルクス」
エレノアがたしなめる。
「何度もお願いしたら疲れてしまうでしょう」
「でも……」
「言いたくなったらまた呼んでくれるわ」
アルクスは名残惜しそうにリリナを見る。
「分かった」
(助かりました)
これで終わるかと思った。
けれど、エレノアがリリナの前へしゃがんだ。
「それなら次は、お母様も言えるかしら」
(来ましたねぇ)
「おかあさま」
ゆっくり区切る。
「お、か、あ、さ、ま」
(難易度が急に上がりましたねぇ)
リリナは口を開いた。
「お……」
そこで止まる。
「あ……」
違う。
もう一度試す。
「お……ぁ」
エレノアは楽しそうに笑った。
「まだ難しいわね」
(そうみたいですねぇ)
「じゃあ父上は?」
アルクスが言う。
「ちちうえ」
(そちらも難しいですよ)
ちょうどその時、扉の向こうから足音が近づいてきた。
ほどなくしてガイウスが部屋へ入ってくる。
「何の騒ぎだ」
「父上!」
アルクスがすぐに駆け寄る。
「リリナが喋った!」
ガイウスの視線がリリナへ向いた。
「喋った?」
「僕のこと『にい』って呼んだ」
「……そうか」
短い返事だった。
けれど、そのままリリナのところまで来る。
ガイウスは少しだけ腰を落とした。
「リリナ」
「あー」
しばらく見つめ合う。
「……父はまだか」
(お父様まで)
エレノアが吹き出した。
「あなた、張り合ってるの?」
「張り合ってはいない」
「そう?」
「ただ聞いただけだ」
(そういうことにしておきましょうかねぇ)
リリナは試しに口を動かした。
「と……」
ガイウスの眉がわずかに動く。
「と?」
「……あー」
続かなかった。
ガイウスはしばらく黙ったあと、リリナの頭へそっと手を置いた。
「急がなくていい」
(はい)
その言葉には素直に頷きたかったが、まだ頷くより「あー」の方が簡単だった。
「あー」
ガイウスはそれで満足したらしい。
アルクスだけはまだ嬉しそうにしている。
「リリナ」
呼ばれ、リリナは兄を見る。
「にい」
今度はさっきより少し楽に出た。
アルクスの顔が一瞬で明るくなる。
「もう一回!」
「アルクス」
「はい」
エレノアに呼ばれ、すぐに引き下がった。
(言えるようになったのは嬉しいですけどねぇ)
ひとつ言葉が出た。
それだけだった。
頭の中にあるたくさんの言葉が、全部使えるようになったわけではない。
母も父も、サターシャも、まだ名前すらきちんと呼べない。
けれど、以前は届かなかったものが今日は届いた。
声ではなく。
きちんと意味のある言葉として。
リリナは目の前でまだ嬉しそうにしているアルクスを見る。
「にい」
兄が笑った。
その顔を見ていると、もう一度言ってみたくなった。
(言葉が届くというのは、嬉しいものですねぇ)
まだ一つだけ。
それでもリリナにとっては、十分大きな一歩だった。




