第8話『言葉は難しいですねぇ。』
第8話『言葉は難しいですねぇ。』
リリナが生まれてから、十か月を過ぎた頃だった。
少し前まで移動するだけで全身を使っていた身体も、今では随分と扱いやすくなっている。床へ下ろされれば自分で這って好きなところまで行けるようになり、気になる物があれば近づいて触れることもできた。
もちろん、だからといって思い通りになることばかりではない。
「あー」
自分の口から出た声を聞いて、リリナはしばらく黙った。
(……違いますねぇ)
もう一度、口を開く。
「うー……ま」
(これも違いますねぇ)
目の前では、エレノアが楽しそうにこちらを見ていた。
「今日はよくお喋りするわね」
「最近増えましたね」
サターシャがそう答える。
「ま……ま」
リリナがもう一度声を出すと、エレノアの表情がぱっと明るくなった。
「今、私を呼んだ?」
「どうでしょう」
サターシャは少し笑っている。
「今のは『まま』でしょう?」
「まだ音を繋げているだけかもしれませんよ」
「でも私を見ながら言ったわ」
「エレノア様がずっと覗き込んでいらっしゃるからではありませんか?」
「夢がないわね」
(すみません。呼んだわけではないんですよ)
リリナは心の中で謝っておいた。
言いたかったことは、もっと別だった。
先ほどからエレノアの手元にある布が気になっていて、それを少し見せてもらいたかったのだ。
頭の中なら、
(お母様、それをこちらへ持ってきていただけますかねぇ)
と、何の苦労もなく考えられる。
ところが実際に口を動かすと、
「ま……あ」
で終わる。
(これは思ったより難しいですねぇ)
人の話していることは、生まれた時から分かっていた。
エレノアが何を言っているのかも、サターシャが何を言っているのかも、意味を考える必要すらなく自然に理解できた。
だから、いざ声が出せるようになれば言葉もそのまま出てくるのだろうと、どこかで思っていたのかもしれない。
そんなに簡単ではなかった。
意味が分かることと、それを自分の口で形にすることはまるで違う。
前の世界でも、外国の言葉を聞けば何となく意味が分かるのに、自分で同じように話そうとすると途端に難しくなることがある。
今の自分は、それよりさらに極端なのだろう。
使いたい言葉は分かっている。
音も知っている。
けれど舌が思った位置へ行かず、唇を閉じるタイミングも合わない。
息まで勝手なところで抜けてしまう。
(頭と口が別々ですねぇ)
「あーうー」
試しに何も考えず声を出してみる。
「ご機嫌ですね」
サターシャが笑った。
(これは簡単なんですけどねぇ)
意味のない音なら簡単に出る。
意味を持たせようとした瞬間、途端に難しくなる。
そこで、ふとリリナは白い場所での出来事を思い出した。
転生する前。
エレクリアから、この世界の言葉について聞いたことがある。
あの時は、深く考えていなかった。
こちらの言葉は、成長に合わせて使えるようになっていく。
生まれてすぐ周囲の言葉が分かった時には、なるほどこういうことなのだと思っていた。
けれど、それだけではなかったらしい。
(理解できることと、使えることまで一緒とは言ってませんでしたねぇ)
今になって、ようやく意味が分かった気がした。
身体が成長する。
耳から入った言葉と意味が結びつくだけではなく、自分で声を出し、音を真似し、それを少しずつ言葉にしていく。
そういうところまで含めて、成長なのだろう。
(女神様、ちゃんと説明してたんですねぇ)
今さらながら少し感心する。
「何だか考え込んでるみたい」
エレノアが頬を指でつついてきた。
「あう」
(今のは勝手に出ました)
「可愛い」
(そうなりますよねぇ)
そこへ、廊下から聞き慣れた足音が近づいてきた。
「母上!」
今度は走ってはいなかった。
以前サターシャに注意されたことを覚えているらしい。
扉が開き、アルクスが顔を出す。
「リリナは?」
「ここにいるわよ」
エレノアの返事を聞くより早く、アルクスは床の上にいるリリナを見つけた。
「あ、いた」
そのまま近くまで来てしゃがみ込む。
「リリナ、今日は何してるの?」
(発音練習です)
「あー?」
「僕?」
(違います)
アルクスは楽しそうに首を傾げた。
「何か言った?」
「最近よく声を出すのよ」
エレノアが答える。
「さっきは私のことを呼んだわ」
「まだそうとは決まっておりませんよ」
すかさずサターシャが訂正する。
「じゃあ僕のことも呼べる?」
(また難しいことを)
アルクスは自分を指さした。
「ア・ル・ク・ス」
(それは無理ですねぇ)
四音もある。
今の自分には随分遠い。
リリナは口を開いた。
「あ……」
そこで止まる。
「今『あ』って言った!」
「アルクスの最初の音ではありますね」
サターシャが言う。
「じゃあもう一回。アルクス」
「あー」
「もうちょっと!」
(急に四音は無理ですよ)
アルクスは諦める様子もなく、しばらく自分の名前を繰り返していた。
リリナも何度か真似しようとしてみたが、
「あ」
「う」
「く」
と、ばらばらの音になるだけだった。
「惜しい!」
(どこがでしょう)
そんなやり取りをしばらく続けた後、アルクスは誰かに呼ばれた。
「アルクス様」
廊下からゼブライの声がする。
「お時間です」
「あ、忘れてた」
アルクスが立ち上がる。
「何かあるの?」
「父上のところに行く約束してたんだ」
「なら待たせてはいけないわね」
「うん」
アルクスは扉の方へ向かいかけた。
リリナはその背中を見る。
(行ってしまうんですねぇ)
別に困ることはない。
また戻ってくるだろうし、毎日のように顔も見ている。
それでも、何となく呼んでみたくなった。
さっきまで何度も聞いていた音を思い出す。
アルクス。
それは難しい。
では、自分がこの人を心の中で何と認識しているか。
(お兄様……)
リリナは口を開いた。
「に……」
アルクスの足が止まった。
「え?」
振り返る。
リリナはもう一度声を出そうとした。
(お兄様)
「に……ぃ」
今度は、少しだけ音が続いた。
部屋が静かになった。
アルクスが目を丸くしている。
「……僕?」
リリナは答えようとして、
「あー」
別の音になった。
(あら)
「今、僕のこと呼んだよね!?」
アルクスが勢いよく戻ってくる。
「ねえ母上! 今『にい』って言った!」
「聞こえたわ」
エレノアも驚いている。
「サターシャも聞いたよね?」
「聞きましたよ」
「僕を呼んだんだよね?」
サターシャは少し考えた。
「少なくとも、アルクス様が離れようとした時に声を出されたのは確かですね」
「やっぱり!」
(ずいぶん都合よく解釈しますねぇ)
けれど今回は、完全に間違いというわけでもなかった。
リリナは確かに、アルクスを呼ぼうとした。
出来上がった言葉とは呼べない。
たった二つの音が、何とか繋がっただけだ。
それでも初めて、自分の考えを声にして誰かへ向けた。
アルクスは嬉しそうにリリナの前へ座り直した。
「もう一回言って」
(それはちょっと……)
「にい、って」
「アルクス様」
廊下からゼブライの声がした。
「旦那様がお待ちです」
「あっ」
アルクスが困った顔になる。
リリナと廊下を交互に見てから、渋々立ち上がった。
「すぐ戻ってくるからね」
(はいはい)
「待っててね」
(分かってますよ)
アルクスが今度こそ部屋を出ていく。
扉が閉まった後、エレノアが笑った。
「今日は一日中自慢するでしょうね」
「おそらく」
サターシャも笑っている。
リリナは自分の口元に小さな手を当てた。
(聞くのと話すのでは、随分違うものですねぇ)
まだ一つの言葉にもなっていない。
伝えたいことは山ほどあるのに、出せる音はほんの少ししかない。
それでも。
さっきアルクスは振り返った。
自分の声が、初めて誰かへ届いた。
(まあ、急がなくてもいいですねぇ)
言葉も身体と同じなのだろう。
少しずつ覚えていけばいい。
リリナはそう考えながら、もう一度口を開いた。
「に……」
今度は誰もいない扉に向かって、小さな声が落ちた。




