第7話『移動は大変ですねぇ。』
第7話『移動は大変ですねぇ。』
リリナが生まれてから、七か月を少し過ぎた頃だった。
寝台の上で手足をばたつかせることしかできなかった頃と比べれば、身体はずいぶん言うことを聞くようになった。寝返りを打つこともできるし、近くにある物なら手を伸ばして掴める。座らせてもらえば、しばらくの間なら身体を起こしていることもできるようになっていた。
(成長するものですねぇ)
もちろん、九十年生きた記憶があるから早く育っているわけではない。
身体は身体なりの時間をかけて、少しずつできることを増やしているだけだ。
問題があるとすれば、できることが増えたせいで別の悩みまで増えたことだった。
床に敷かれた厚手の敷物の上で、リリナは少し離れた場所に置かれた木製の玩具を眺めていた。
丸い部品がいくつか繋がれていて、転がすと音が鳴るらしい。
(あれ、どういう作りなんでしょうねぇ)
遊びたいというより、少し見てみたい。
そう思って身体をそちらへ向けようとした時だった。
視界の端から静かに手が伸びてきて、玩具がリリナの目の前へ置かれた。
(……あら)
顔を上げる。
そこにいたのは、ケルトという若いメイドだった。
あまり喋らない女性だった。
部屋へ入ってきても必要以上に音を立てず、何かを頼まれる前に必要な物を用意していることが多い。
「どうぞ」
(まだ取りに行こうともしてなかったんですけどねぇ)
リリナは目の前へ移動してきた玩具とケルトを交互に見る。
ケルトはそれ以上何も言わず、少し離れたところで畳んでいた布へ手を戻した。
「また先に持ってきたの?」
近くにいたサターシャが笑う。
「見ていましたので」
「この子、何でもじっと見るものね」
「はい」
ケルトの返事は短い。
(よく見ているのは、そちらも同じみたいですねぇ)
リリナは玩具を掴む。
前なら手を伸ばしたところで、指が思った場所へ届かないことも多かった。
今は狙った物を掴めることの方が多い。
指先で木の輪を触り、少し持ち上げてみる。
すると中で小さな音が鳴った。
(なるほど)
「気に入ったみたいですね」
サターシャが言った。
(仕組みを見てるんですけどねぇ)
そう思ったところで、リリナは手を止めた。
最近はこういうことが増えた。
何かが気になれば見る。
手が届けば触る。
身体を向ければ、以前よりずっと思った方向へ動く。
それ自体は赤ん坊なら珍しいことでもないのだろう。
けれど自分の場合は、その前にどうしても考えてしまう。
(あまり考えて動きすぎるのも、変なんでしょうかねぇ)
生まれたばかりの頃は、そんな心配をする余裕すらなかった。
考えていても身体が勝手に泣き、眠り、腹を空かせていたからだ。
今は違う。
少しだけ、自分の意思を身体へ伝えられるようになっている。
できることが増えるというのは、思っていたより難しいものだった。
「リリナ!」
廊下から駆けてくる足音が近づき、勢いよく扉が開いた。
リリナが顔を向ける。
「アルクス様、廊下は走ってはいけませんよ」
サターシャがすぐに言った。
「走ってないよ」
「足音が聞こえていました」
「……そんなに分かる?」
「分かります」
(サターシャさんもよく聞いてますねぇ)
アルクスは少し気まずそうな顔をした後、何事もなかったようにリリナのところへやって来た。
「今日は床にいるんだ」
「最近はこうして遊ばせる時間を増やしているんですよ」
「僕も遊んでいい?」
「もちろんです。ただし無理に抱き上げてはいけませんよ」
「分かってる」
アルクスはそう言うと、リリナのすぐ近くへ座ろうとした。
ところが何かを思いついたらしく、途中で動きを止める。
「そうだ」
手に持っていた小さな木の馬を、リリナから少し離れたところへ置いた。
「リリナ、これ好き?」
(馬ですねぇ)
簡素な造りではあるが、ちゃんと四本の脚と長い顔がある。
リリナがそちらを見ると、アルクスが嬉しそうに笑った。
「見てる」
少しだけ木の馬を動かす。
「こっちだよ」
リリナは馬を見る。
次にアルクスを見る。
「リリナ」
また呼ばれる。
(……どうしましょうかねぇ)
距離はそれほどない。
大人なら一歩も必要ない程度だ。
だが今のリリナにとっては違う。
これまで自分が移動する時は、いつも誰かの腕の中だった。
寝返りで多少位置が変わることはあっても、何かを目指して自分からそこまで行ったことはない。
アルクスがもう一度手を振った。
「リリナ、こっち」
楽しそうだった。
(では、行ってみましょうかねぇ)
リリナは両手を床についた。
「え?」
アルクスの声がする。
腕に力を入れる。
(こうして……)
身体を前へ出そうとした。
出なかった。
(……あら)
もう一度やる。
今度は右足だけが妙な方向へ伸び、身体が少し横へ傾いた。
「リリナ?」
(難しいですねぇ)
赤ん坊が這うところなど、前の人生で何度も見ている。
自分の子供も、孫も、曾孫も見た。
だからといって、自分ができるわけではないらしい。
やり方を知っていることと、自分の身体でできることは別なのだろう。
リリナはもう一度手をついた。
今度は腕を先に出す。
身体を引き寄せようとして、腹が敷物に引っかかった。
ほんの少しだけ前へ進んだ。
「あっ」
アルクスの顔が明るくなる。
「サターシャ! 今動いた!」
「ええ」
「リリナ、もう一回!」
(急かさないでくださいねぇ)
とは思うものの、もう一度身体を動かす。
手。
足。
身体。
順番を考えているつもりなのに、実際にはどれも思った通りには動かない。
少し進んでは止まり、また少し進む。
途中で身体が横へ流れた。
「そっちじゃないよ」
(分かってますよ)
リリナは顔だけアルクスへ向けた。
「こっち、こっち」
(だから分かってますって)
言えないのが少し悔しい。
その後ろで、サターシャとケルトは何もせずに見ていた。
手を貸そうと思えば、すぐにでも貸せる距離にいる。
それでも二人とも動かない。
ただ、リリナが危ない体勢になればすぐ支えられるよう、静かに見守っている。
(ありがたいですねぇ)
今助けられてしまったら、たぶん少し残念だった。
また手を出す。
少し進む。
止まる。
もう一度。
気がつけば、さっきよりアルクスの顔がずっと近くなっていた。
「あとちょっと!」
(それくらいは私にも分かります)
最後にもう一度身体を前へ出す。
伸ばした手が、アルクスの膝へ触れた。
「来た!」
次の瞬間、アルクスが満面の笑みを浮かべた。
「リリナが僕のところまで来た!」
(到着しましたねぇ)
リリナはその場で力を抜いた。
思っていた以上に疲れた。
ほんの少し進んだだけなのに、身体中を使ったような気分だった。
(移動というのも大変ですねぇ)
アルクスはそんなことなど気づかないほど嬉しいらしく、床へ両膝をついたままリリナを見ている。
「サターシャ、見た?」
「ちゃんと見ていましたよ」
「ケルトも?」
「はい」
「母上にも言ってくる!」
立ち上がりかけたアルクスが、途中でリリナを見る。
少し考えて、また座った。
「……あとでいいや」
(行かないんですか)
「せっかく来てくれたし」
そう言って、アルクスは木の馬をリリナの前へ置いた。
「これあげる」
(それを取りに来たわけではないんですけどねぇ)
けれど、わざわざ訂正する必要もないだろう。
リリナは木の馬へ手を伸ばした。
アルクスはまた嬉しそうにする。
「やっぱり好きなんだ」
(そういうことにしておきましょうかねぇ)
サターシャが小さく笑っていた。
リリナは木の馬を握りながら、すぐ隣に座る兄を見上げる。
これまでは誰かに抱かれて、行き先を決めてもらっていた。
今日は初めて、自分で行く場所を決めた。
ほんの少しの距離だった。
大人なら一歩にもならないほどの距離だった。
それでも、自分の身体で進んでここまで来た。
そして、その先にいたのは家族だった。
アルクスが木の馬を指で動かしながら、楽しそうに何かを話している。
リリナはそれを聞きながら、少しだけ笑ったような顔になった。
「今笑った!」
(今度はそれですか)
「サターシャ、リリナが笑った!」
「聞こえていますよ」
またアルクスが騒いでいる。
(歩けるようになったら、もっと大変そうですねぇ)
そう思いながらも、リリナは兄のそばを離れようとはしなかった。




