第6話『寝室の外ですねぇ。』
第6話『寝室の外ですねぇ。』
リリナが生まれてから、三か月ほどが過ぎた。
最初の頃と比べれば、目に映るものは随分とはっきりしてきた。ぼんやりとした色の塊だった人の顔にも輪郭ができ、近くを動くものなら目で追える。それだけでも、世界というものはずいぶん違って見えるらしい。
(ちゃんと顔があるんですねぇ)
もちろん、生まれた時から誰も顔なしだったわけではない。
見えていなかったのはこちらの事情である。
「今日はご機嫌ですね」
サターシャが覗き込んでくる。
今ではその顔もかなり見分けられるようになった。
リリナがじっと見返すと、サターシャは笑った。
「また見てる」
(見えるようになったものですからねぇ)
そう説明することはできないので、小さく手を動かすだけに留めておく。
以前より首もしっかりしてきたとはいえ、好きな方向へ身体ごと向けるほど自由にはならない。動かしたつもりの手が思った場所へ行かないことも、まだ珍しくなかった。
「リリナ、今日は少しお散歩しましょうか」
鏡台の前にいたエレノアが振り返った。
(お散歩?)
その言葉にリリナは思わず目を向ける。
生まれてからというもの、知っている世界はほとんどこの寝室の中だった。
誰かに抱かれて少し場所が変わることはあっても、目がよく見えるようになってから寝室の外をじっくり見た記憶はない。
「まだ外には出ませんよ。まずは屋敷の中だけ」
「それでも十分でしょう」
サターシャがリリナを抱き上げる。
(屋敷の中だけ、ですか)
その言い方が少し気になった。
普通の家なら、わざわざそんな言い方をするだろうか。
もっとも、この家が普通ではなさそうだということには、とっくに気づいている。
扉が開いた。
リリナは思わず目を見開いた。
(……長いですねぇ)
まず目に入ったのは廊下だった。
寝室の前に少し通路がある程度だと勝手に思っていたが、左右へかなり長く続いている。床には敷物が伸び、壁には見たことのない絵や装飾が並び、大きな窓から外の光が差し込んでいた。
その向こうを、一人のメイドが歩いていく。
さらに反対側から別の使用人が何かを抱えてやって来て、エレノアを見ると足を止めた。
「エレノア様、おはようございます」
「おはよう」
また少し進めば、今度は男性の使用人とすれ違う。
「おはようございます、奥様」
「ええ、おはよう」
(また別の人ですねぇ)
寝室で過ごしていた頃から人が多いとは思っていた。
けれど、部屋に来る人だけを見ていた時と、廊下を実際に眺めるのとでは印象が違う。
人が働いている。
それも、一人や二人ではない。
「何をそんなに見ているのかしら」
エレノアが隣から覗き込む。
(全部です)
答えられるなら、そう言いたかった。
天井も高い。
窓も大きい。
扉もいくつもある。
曲がり角を一つ越えても、その先にまた廊下が続いていた。
(これは……お家というより、ちょっとした施設ですねぇ)
前世で見た旅館や大きな病院を思い出す。
もちろん造りはまるで違うが、家族だけで使う建物にしてはどう考えても広すぎる。
やがて一行は、寝室よりさらに広い部屋へ入った。
中央には大きな卓と椅子があり、壁際には棚や飾り物が並んでいる。
窓の向こうには庭らしき緑まで見えた。
(まだあるんですねぇ)
自分の世界が急に広がりすぎて、どこから見ればいいのか分からなくなる。
「おはようございます、奥様」
落ち着いた男性の声がした。
部屋の中に、すでに一人の老人が立っていた。
背筋は真っ直ぐで、年齢の割に動きに淀みがない。
「おはよう、サンタス」
(サンタスさん)
その名前には聞き覚えがあった。
寝室にいる時も何度か耳にしている。
「お嬢様もご一緒でしたか」
「そろそろ部屋の外も見せてあげようと思って」
「それはよろしいかと」
サンタスが近づいてくる。
リリナは自然とその顔を見る。
「おはようございます、リリナ様」
(おはようございます)
心の中だけで返しておく。
サンタスは少し微笑んだだけで、それ以上赤子を構おうとはしなかった。
代わりにすぐエレノアへ視線を戻す。
「旦那様はすでに執務室へ向かわれております。本日の午後、王城より使者がお見えになる予定です」
「ガイウスから聞いているわ」
「応接室の準備はこちらで進めております」
「お願いね」
「承知いたしました」
サンタスは一礼すると、少し離れた場所にいた使用人へ目を向けた。
「先ほどの書類は旦那様の執務室へ。来客用の茶葉についてはナンザスにも確認を」
「はい」
「庭側の入口は午後まで使用を控えてください。馬車が入ります」
「承知しました」
声を荒らげるわけでもない。
急かすような様子もない。
それなのに話し終わった途端、周囲の人間がそれぞれ別の方向へ動き始めた。
(なるほど)
リリナはサターシャの腕の中からその様子を眺めた。
(この方も偉い人ですねぇ)
父親とは違う。
この家の主人という感じでもない。
けれど、屋敷の中のことをかなり広く把握しているらしい。
そこへ別の男性が入ってきた。
「失礼いたします」
三十代半ばほどに見える。
服装にも動きにも乱れがなく、入室してから扉を閉めるまで妙に滑らかだった。
「ゼブライ」
サンタスが呼ぶ。
「はい」
「旦那様の昼食時間が変更になっています。厨房へ伝達を」
「すでにナンザスへ伝えております」
「では、午後の使者については?」
「客室の確認まで済んでおります。玄関には私が出ます」
「分かりました」
(こちらの方もよく働きますねぇ)
ゼブライと呼ばれた男性は、そのままエレノアへ一礼した。
「奥様、お飲み物をお持ちいたしましょうか」
「お願いするわ」
「かしこまりました」
次いでリリナを見て、少しだけ表情が柔らかくなる。
「リリナ様も今日は随分と周囲をご覧になっておりますね」
(皆さん、それを言いますねぇ)
「最近はずっとよ」
エレノアが答える。
「何にでも興味があるみたい」
「結構なことでございます」
ゼブライはそれだけ言うと、すぐに仕事へ戻っていった。
リリナはその背中を目で追う。
サンタスは屋敷全体を動かしている。
ゼブライは家族の近くにいて、必要なことを先回りして処理している。
まだ正式な役職など知る由もないが、違いくらいは少し見えてきた。
(皆さん、それぞれお仕事が違うんですねぇ)
そしてもう一つ、どうしても気になることがある。
「旦那様がお戻りになりました」
誰かの声が聞こえた。
ほどなくしてガイウスが部屋へ入ってくる。
「エレノア」
「お仕事は?」
「一段落した」
その姿を見た途端、周囲の使用人たちが自然に姿勢を正した。
「旦那様」
サンタスが一礼する。
「午後の件は?」
「準備しております」
「そうか」
短い会話だった。
それだけで終わり、ガイウスはすぐリリナの方へやって来る。
「今日はここまで来たのか」
「少しずつ慣れさせようと思って」
「そうか」
ガイウスが覗き込んでくる。
以前より、父親の顔もずいぶん見えるようになった。
相変わらず少し怖そうな顔をしている。
(お父様、やっぱり顔が怖いですねぇ)
もちろん本人には言えない。
ガイウスが指を一本差し出した。
リリナは反射的にそれを握る。
「握った」
「前から握るでしょう?」
「今日は強い」
「毎回言ってるわね、それ」
エレノアが笑う。
ガイウスは少し不満そうな顔をしたが、指はそのままにしていた。
リリナは父親の向こうへ視線を動かす。
サンタス。
ゼブライ。
サターシャ。
エレノア。
少し離れた場所では、別の使用人が静かに動いている。
(……お父様、ずいぶん偉い方なんでしょうかねぇ)
周囲の接し方を見れば、それくらいは分かる。
けれど、何がどう偉いのかは分からない。
この世界の身分も制度も、まだ何一つ学んでいないのだから当然だった。
九十年生きた経験があっても、知らないものを知っていることにはできない。
(分からないことは、分からないままでいいですねぇ)
そのうち分かる。
今までだって、大抵のことはそうやって覚えてきた。
少ししてサターシャに抱かれたまま、再び廊下へ出る。
来た時よりも、目に入るものが増えている気がした。
部屋があり、その向こうにも部屋があり、窓の外には庭があり、さらにその先にも何かがある。
三か月前。
リリナにとっての世界は、腕の中と寝台の周りだけだった。
数日前までは、エレノアの寝室と、そこへやって来る人たちがほとんどすべてだった。
けれど今は、その扉の向こうがある。
廊下がある。
別の部屋がある。
そこにも人がいる。
(世界が、ずいぶん広くなりましたねぇ)
そう思った直後、大きなあくびが出た。
「あら、もう眠いの?」
(……広くなっても、これは変わりませんねぇ)
サターシャの腕に身体を預ける。
まだ見ていない場所はいくらでもある。
知りたいことだって、また増えた。
けれど今日のところは、ここまでらしい。
ゆっくり閉じていく視界の端で、長い廊下だけが最後まで残っていた。




