第5話『人の多い家ですねぇ。』
第5話『人の多い家ですねぇ。』
リリナがこの世界に生まれてから、数日が過ぎた。
とはいえ本人にその実感がどれほどあるのかと聞かれれば、かなり怪しい。目を覚ましては眠り、お腹が空けば泣き、何かが気持ち悪くても泣き、気がつけば誰かに抱き上げられている。その繰り返しで一日がどこから始まり、どこで終わっているのかさえ曖昧だった。
(赤ちゃんというのは、本当に忙しいものですねぇ)
九十年生きた頃には、眠りたい時に眠り、起きたい時に起きることくらい当たり前にできていた。
今は眠りたくなくても眠くなるし、もう少し周りを見ていたいと思っても、まぶたの方が勝手に閉じてしまう。
そんな小さな生活の中でも、少しずつ分かってきたことがある。
「はいはい、お腹が空いたのね」
身体を抱き上げられた瞬間、リリナはぼんやりと声の方を見た。
(この人ですねぇ)
サターシャ。
そう呼ばれている女性だった。
まだ顔をはっきり覚えられるほど視界は頼りにならない。それでも、この人に抱かれれば分かる。
腕の入れ方にも迷いがなく、頭を支える手にも余計な力が入らない。泣き声を聞いてから何をするか考えるのではなく、こちらの様子を見ただけで大体のところまで察しているらしかった。
「今日はよく飲みますね」
「元気なら何よりだわ」
寝台からエレノアの声が返ってくる。
リリナはサターシャの腕の中で、ほんの少しだけ感心していた。
前の人生では自分も子供を育てたし、その後には孫も曾孫も見てきた。それなりに赤子というものを知っているつもりではいるが、知っていることと毎日仕事として世話をすることはやはり違う。
(慣れてますねぇ。ずいぶんと)
そんなことを考えていたところで、サターシャの指がそっと頬に触れた。
「今日はよくこちらを見ますね」
(……見すぎましたかねぇ)
慌てて目を逸らそうとして、今度は身体の方が思ったほど動かなかった。
結果として顔をほんの少し傾けただけになり、サターシャは特に不思議がる様子もなく笑った。
「眠いのかな」
(そういうことにしておきましょう)
言葉にはできないので、心の中でだけ頷いておく。
しばらくすると扉が開き、別の足音が入ってきた。
「エレノア様、お加減はいかがですか?」
「もう大丈夫よ。マーシアは心配しすぎ」
「そう言って昨日も起き上がろうとなさったでしょう」
「寝てばかりなのも疲れるのよ」
「だからといって剣の稽古に戻ってよい理由にはなりません」
「まだ戻るとは言ってないでしょう?」
「お顔が言っております」
エレノアが小さく笑った。
マーシア・マティアス。
この女性の名前も、何度か聞いているうちに覚えた。
声だけなら気さくな侍女に聞こえる。
けれどリリナには、どうにも引っかかるものがあった。
歩く時の音が妙に一定なのだ。
物を取る時も身体がふらつかず、向きを変える時にも無駄がない。前世で剣術を嗜んでいたわけではないリリナでも、普通の侍女とは少し違うくらいは分かる。
(この人、何かしていた人でしょうかねぇ)
「リリナ様は?」
「先ほどまでご機嫌でしたよ」
「それはよかった」
マーシアが近づいてきた気配がして、リリナは目だけを動かした。
「あら、本当に見てる」
「でしょう?」
「賢そうなお顔ですね」
(数日前に生まれたばかりですよ)
そう言えたなら、たぶん言っていた。
その時、廊下の向こうから少し慌ただしい足音が近づいてきた。
「失礼いたしますっ」
扉が開く。
「メニャー」
「はいっ」
「声」
「あっ……申し訳ありません!」
今度は大きかった声が、一気に小さくなる。
両手に布を抱えた若い女性の後ろから、もう一人の女性が静かに入ってきた。
「こちらへ置いてください」
「はい、マティさん」
「慌てなくて大丈夫ですから」
「はい!」
「声」
「……はい」
エレノアが堪えきれずに笑った。
リリナも笑えたなら少し笑っていたかもしれない。
(元気な人ですねぇ)
メニャーというらしい。
その横で落ち着いて指示を出しているのがマティ。
まだ顔まではよく分からない。それでも声だけで何となく違いが分かるようになってきた。
この数日、こうして人がよく出入りする。
湯を持ってくる者。
布を替えに来る者。
エレノアの食事を運んでくる者。
何かを確認して出ていく者。
同じ人ばかりではない。
(ずいぶん人がいますねぇ)
松竹ウメだった頃の家を思い出す。
家族三人で暮らしていた小さな家では、誰かが廊下を行き交うことなどなかった。南江家になってから家族が増えた時期でさえ、これほど絶えず人の声がすることはない。
ここが普通の家ではないことくらい、さすがに分かってきた。
ただ、どれほど普通ではないのかはまだ分からない。
「お湯の温度は確認しましたね」
新しい声がした途端、部屋の空気が少しだけ変わった。
「はい、ミネアさん」
「布はこちらへ。使い終えた物と混ぜないように」
「はい」
「メニャー」
「はいっ」
「走らない」
「……走ってません」
「今、廊下で走っていました」
「少しだけです」
「少しでも走ったのでしょう」
「はい……」
怒鳴っているわけではない。
それなのにメニャーの声がどんどん小さくなっていく。
(なるほど。この人が偉いんですねぇ)
リリナなりに一つ理解した。
ミネア。
この女性が部屋に来ると、他の使用人たちの動きが少しだけ変わる。
怖がっているというより、姿勢を正すと言った方が近い。
「エレノア様、何か不足はございませんか?」
「十分よ。みんなよくしてくれているわ」
「それなら結構です」
その声が少し柔らかくなった。
「お嬢様もお元気そうで」
近づいてきた気配に、リリナは目を向ける。
「……本当によく見ていらっしゃいますね」
(また言われましたねぇ)
「赤ん坊は動くものを目で追うことがありますよ」
サターシャがそう答える。
「そうですね」
ミネアもそれ以上は気にしなかった。
リリナは内心で少しだけ安心する。
自分では普通にしているつもりでも、九十年分の記憶を持ったまま赤子をするというのは想像以上に難しい。
何を見ても知らないふりをする必要があるわけではない。ただ、どうにも考えながら人を見る癖だけは抜けそうになかった。
その日の午後、また扉が開いた。
「リリナ」
今度は聞き慣れてきた低い声だった。
(お父様ですねぇ)
ガイウスが寝台のそばまで来る。
数日前よりは多少慣れたらしく、今ではリリナを見るだけで固まることはなくなった。
「今日はどうだ」
「元気ですよ」
エレノアが答える。
「そうか」
ガイウスはしばらくリリナを見ていた。
「……抱きますか?」
サターシャが尋ねる。
「いや」
「昨日もそう言ってましたよ」
エレノアが笑う。
「必要がないなら無理に抱くこともないだろう」
「抱くのが怖いだけでしょう?」
「怖くはない」
「ではどうぞ」
「……」
少しの沈黙の後、リリナの身体がサターシャからガイウスの腕へ渡された。
相変わらず硬い。
(まだ力が入ってますねぇ)
けれど最初の日ほどではなかった。
頭を支える場所も覚えたらしいし、腕の角度も前より自然だ。
「どうだ」
「何がです?」
「……いや」
エレノアがまた笑う。
どうやらこの父親は、赤子を抱くたびに何か感想を求めているらしい。
そこへ今度は小さな足音が近づいてきた。
「父上、僕も見ていい?」
「静かにな」
「分かってるよ」
アルクスだった。
五歳の兄はガイウスの腕の中を覗き込み、嬉しそうに笑う。
「リリナ、僕だよ」
(覚えてますよ)
「今日は泣かないね」
(今は泣く理由がありませんからねぇ)
「僕のこと分かるかな」
アルクスが少しだけ顔を近づける。
リリナは思わずそちらへ目を向けた。
「あっ、父上! 今僕を見た!」
「声を抑えろ」
「ご、ごめんなさい」
嬉しさを抑えきれない顔で、今度は小さな声になる。
「僕のこと分かったのかな」
もちろん分かっている。
だが、それを伝える手段はない。
仕方なく見つめていると、アルクスはそれだけで満足したらしい。
「やっぱり僕のこと好きなんだ」
(ずいぶん早い結論ですねぇ)
そう思ったところで、また眠気がやってきた。
(あら)
まだ聞きたい声がある。
まだ覚えたいこともある。
この家には何人いるのか。
自分の父親や母親は一体どういう立場の人なのか。
どうしてこれほど多くの人が働いているのか。
少しずつ分かってきたところなのに、そんな事情など今の身体には関係がないらしい。
ガイウスの腕の中で、まぶたが重くなっていく。
(もう少し起きていたいんですけどねぇ)
「寝た?」
アルクスの声が遠くなる。
「寝たようだな」
「父上が抱いてるのに?」
「どういう意味だ」
「だって最初は泣かれてたから」
「アルクス」
エレノアの笑い声が聞こえた。
リリナの意識は、そのあたりで途切れた。
九十年分の記憶があっても、今の自分が知ることのできる世界はまだ狭い。
エレノアの寝室と、その扉の向こうからやって来る人たちがほとんどすべてだった。
けれど、その小さな世界だけでも随分にぎやかだ。
名前を知った人が増えた。
声を覚えた人も増えた。
抱かれれば分かる人までできた。
(この家、思っていたよりずっと人が多そうですねぇ)
そんなことを考えながら、リリナは今日も赤子らしく眠り続けた。




