第4話『はじめましてですねぇ。』
第4話『はじめましてですねぇ。』
白い光の中へ溶けていったはずの意識が、突然引き戻された。眩しい。寒い。それから身体のあちこちに何かが触れている。何が起きているのか確かめようとした、その瞬間だった。
「おぎゃああああっ!」
大きな泣き声が響いた。
(……あら。これ、私ですねぇ)
「おぎゃあああっ!」
泣こうと思った覚えはない。悲しいわけでも怖いわけでもないのに、身体は勝手に息を吸い、勝手に声を張り上げている。そこでようやく、エレクリアから聞いた言葉を思い出した。
(そうでした。赤ん坊からでしたねぇ)
「元気な女の子ですよ」
「エレノア様、お疲れさまでございました」
「……ええ」
近くから聞こえてくる声の意味は、何の苦労もなく頭へ入ってきた。聞いたことがないはずの言葉なのに、まるで昔から知っていたように分かる。
(本当に会話は分かるんですねぇ。エレクリアさん、そこはちゃんと仕事してくれたようで)
そんなことを考えている間に身体を柔らかな布で包まれ、誰かの腕へ渡された。ぼんやりとした視界の向こうに女性の顔らしきものが見える。
「リリナ……」
女性は疲れ切った声で、それでも嬉しそうに自分を見つめていた。
「私の可愛いリリナ……」
(リリナ。これが今度の名前なんですねぇ)
同時に、その女性が誰なのかもだいたい察しがついた。
(そして、この人が今度のお母さんですか)
そう思った途端、それまで騒がしかった身体が少しずつ落ち着いていった。抱かれている腕が温かい。声も優しい。初めて会った人なのに、ここにいれば大丈夫なのだと身体の方が知っているようだった。
(あらあら。本当にこうなるんですねぇ)
子供を育てたことがある。孫も見たし、曾孫まで抱いた。母親に抱かれた途端、それまで泣いていた赤ん坊が嘘のように静かになる場面も何度となく見てきた。
ただし、自分がその赤ん坊になる日が来るとは思っていなかった。
「泣き止んだな」
低い声が聞こえ、大きな人影が近づいてきた。
「あなた」
「……触ってもいいのかしら」
「あなたの娘でしょう」
「それは分かっている」
(あら)
ウメ――いや、今はリリナなのだろう――は内心で少し笑った。声は随分と堂々としているのに、明らかに緊張している。
「ガイウス、そんなに固くならなくても大丈夫よ」
「固くなどなっていない」
「そう?」
「ああ」
(なってますねぇ)
こんな男は何度も見たことがある。夫も初めて我が子を抱いた時には妙に腕を固くしていたし、息子も自分の子供が生まれた時には似たような顔をしていた。孫の世代になっても、その辺りは大して変わらなかった。
「抱いてみます?」
「……ああ」
返事まで固い。
リリナの身体が、母親の腕から大きな腕へそっと移された。
「首はこれでいいのか?」
「ちゃんと支えてあげて」
「支えている」
「もう少し優しく」
「十分優しくしている」
「あなた、顔が怖いわよ」
「これはいつもの顔だ」
(この人、大丈夫でしょうかねぇ)
もっとも、抱かれている本人が心配するというのも妙な話だった。
赤ん坊を抱き慣れていない人は、少し身体を反らせただけでも慌てることがある。それくらいは知っている。
(なるべく大人しくしていた方が良さそうですねぇ)
せっかくの新しい父親を、初日から怖がらせる必要もない。力を抜き、じっとしていようとした。
ところが鼻の奥が急にむずむずした。
(あ)
「くしゅっ」
「っ!」
ガイウスの腕がびくりと動いた。
「あなた」
「落としていない」
「誰もそんなこと言ってないでしょう」
「……そうか」
(すみませんねぇ。くしゃみまでは止められません)
気遣いはできても、身体が従うとは限らないらしい。
「父上、僕も見たいです!」
今度は少し高い声が近づいてきた。
「アルクス、走るな」
「走ってません」
「走っていた」
「少しだけです」
「それを走ったと言う」
「でも早く見たかったんです」
小さな人影が、ガイウスの腕の横からこちらを覗き込んだ。
「わあ……本当に小さい」
(赤ちゃんですからねぇ)
「この子が僕の妹?」
「ああ」
「リリナ?」
「そうよ」
「リリナ」
アルクスと呼ばれた少年が、嬉しそうに名前を繰り返した。
「僕、お兄ちゃんだよ」
(そうですか。今度はお兄ちゃんまでいるんですねぇ)
前の人生では、自分にも家族がいた。父と母がいて、夫がいて、子供がいて、その子供にもまた子供が生まれた。
そして全部を見届けて、自分の人生を終えた。
もう二度と誰かの娘になることなどないと思っていたのに、今は父親の腕に抱かれ、母親がすぐそばにいて、目の前では小さな兄が嬉しそうに笑っている。
「僕のこと分かるかな?」
(分かってますよ)
反射的にそう返しそうになり、もちろん声にはならなかった。
代わりに顔でも向けてやろうかと思ったところで、リリナは少し考えた。
(……これは反応しすぎると驚かせますかねぇ)
生まれたばかりの赤ん坊が、話しかけるたびに正確に相手へ顔を向けていたらどうだろう。孫や曾孫を見てきた経験から考えても、少し不自然な気がする。
(普通にしておきましょうか)
九十年も生きていれば、余計なことで人を驚かせないくらいの気遣いはできる。
「リリナ」
(はいはい)
心の中だけで返事をした。
「リリナ?」
(聞こえてますよ)
今度も動かない。
上手くできている。そう思った直後、身体が勝手に声のする方へ少し顔を向けた。
「あっ!」
(あ)
「父上! 今、僕の方を見た!」
「たまたまだろう」
「でも僕が呼んだら見たよ!」
「赤子は音のする方を見るものだ」
「じゃあ、もう一回呼ぶ!」
(もう呼ばなくていいですよ)
「リリナ!」
思わず反応しそうになり、今度は必死に動かないようにした。
「……見ない」
「だから偶然だと言っただろう」
「むぅ」
(危ないところでしたねぇ)
どうやら普通の赤ん坊として振る舞うのも、案外難しい。
しばらくすると、再びエレノアの腕へ戻された。そこでリリナは、自分の頭が急にぼんやりしてきたことに気づいた。
(ああ、これは眠いんですねぇ)
赤ん坊がよく眠ることくらい知っている。子育てをしていた頃には、ようやく寝かしつけたと思ったらすぐ起きたり、逆に起こしたい時ほど起きなかったりして随分振り回されたものだった。
しかし、外から見るのと自分が眠くなるのでは話が違った。
「この子、もう眠そうね」
「さっき生まれたばかりだからな」
「いっぱい泣いたものね」
「リリナ、寝ちゃうの?」
(できればもう少し皆さんの話を聞いていたいんですけどねぇ)
自分がどんな家に生まれたのかも分からない。父親らしいガイウスと、母親のエレノア。そして兄のアルクス。分かったのは今のところ、その程度だった。
(せめて名字くらいは聞いてから……)
そこまで考えたところで、意識が途切れた。
次に目を覚ました時、リリナは泣いていた。
「おぎゃああああっ!」
(……またですか)
今度は何だろう。
身体の感覚へ意識を向ける。胸の奥が落ち着かず、何かを求めるような感覚がある。
(これは……お腹ですかねぇ)
赤ん坊を何人も見てきた経験があるから、おおよその見当はついた。とはいえ分かったからといって、どうにかできるわけではない。
(お腹が空いたのは分かりましたから、そんなに泣かなくても――)
「おぎゃあああああっ!」
(……聞きませんねぇ)
頭が理解していようが、身体には関係ないらしい。
「まあまあ。お腹が空いたのね」
エレノアがすぐに抱き上げてくれた。
(はい。どうやらそのようです)
答えられるものなら答えたいが、当然口から言葉は出ない。
空腹が満たされると、今度は身体が急速に落ち着いていく。
(赤ちゃんというのは、本当に分かりやすいですねぇ)
そう思った直後、別の不快感がやって来た。
(……ああ)
これにも覚えがある。
(今度はおむつですかねぇ)
そして予想通り、また泣いた。
(分かっていても泣くんですねぇ)
少し可笑しくなった。
九十年生きた知識も、子育ての経験も、孫や曾孫を見てきた経験も、全部ちゃんと残っている。
けれど今の自分は、自分で食事もできなければ歩くこともできない。眠気ひとつ我慢できず、おむつが気持ち悪ければ身体が勝手に泣いてしまう。
(本当に一からなんですねぇ)
それでも、不思議と嫌ではなかった。
世話をしてくれる人がいる。
泣けば抱いてくれる母親がいて、恐る恐る自分を抱いてくれる父親がいて、何度も名前を呼んでくる兄がいる。
まだ、この人たちのことを何も知らない。
この世界のことだって、ほとんど何も知らない。
けれど急いで全部を知る必要もないだろう。
(何でも急げばいいってものじゃありませんからねぇ)
エレノアの腕の中で、リリナはゆっくりと目を閉じた。
南江ウメとしての九十年は終わった。
そして今度は、リリナという名前で新しい人生が始まった。
(これから、よろしくお願いしますね)
誰にも聞こえない挨拶を、新しい家族へ向ける。
その直後にはもう、リリナは眠っていた。




