第39話『お母様には届かないですねぇ。』
第39話『お母様には届かないですねぇ。』
それからもしばらく、リリナはイスターニャとの剣の練習を続けていた。
最初の頃のように、相手が動くだけで慌てることは少なくなった。
イスターニャがゆっくり動くなら、その行き先を見てから距離を取り直すことも少しずつできるようになっている。
木剣へ届かせられることも増えた。
もちろん、毎回ではない。
足を意識しすぎれば剣が遅れ、剣を急げば相手との距離を見失う。
それでも以前よりは、動いている人と向かい合うことに慣れてきていた。
◇
その日の午後、リリナは母の部屋でエレノアとお茶を飲んでいた。
窓から入る風がカーテンをわずかに揺らしている。
リリナが焼き菓子を一つ取ると、エレノアが紅茶のカップを置いた。
「最近も剣の練習をしているの?」
「はい」
「イスターニャ先生に教えてもらっています」
「楽しい?」
「難しいですねぇ」
「ふふっ」
「でも、前よりは少し分かるようになりました」
「そう」
エレノアは嬉しそうに笑った。
「動く先生を見る練習もしています」
「そこまで進んだのね」
「最初は全然届きませんでした」
「今は?」
「たまには届きます」
「たまには、なのね」
「毎回だったら格好いいんですけどねぇ」
エレノアがまた笑う。
リリナも焼き菓子を一口かじった。
「それなら今度、私とも少しやってみる?」
「お母様とですか?」
思わず手が止まった。
「嫌ならしなくてもいいのよ」
「嫌ではないんですけど……」
リリナの頭に、あの日の光景が浮かんだ。
馬車の外で剣を持つエレノア。
魔物へ向かって迷わず動いた姿。
今、自分が握っている木剣とは違う本物の剣だった。
(お母様、強かったですねぇ)
あの頃は、ただ見ていることしかできなかった。
剣が怖いと思った。
それでも、その剣が自分たちを守ってくれたことも覚えている。
今では自分も少しだけ剣を持つようになった。
「やってみたいです」
「本当に?」
「はい」
「では、今度と言わず今日にする?」
「今日ですか?」
「予定は空いているでしょう?」
「空いていますねぇ」
「それなら決まりね」
エレノアは楽しそうに立ち上がった。
「お母様、ずいぶん早いですねぇ」
「気が変わらないうちに」
「変わりませんよ」
「それなら安心ね」
◇
修練場へ移動すると、エレノアは壁際に並んだ木剣から一本を取った。
リリナもいつも使っている木剣を手にする。
エレノアが木剣を軽く振り、重さを確かめた。
「今日は勝負ではないからね」
「はい」
「身体を狙わなくていいわ」
「では、どこに届かせればいいですか?」
「私の木剣に一度触れられたら終わりにしましょう」
「一度でいいんですか?」
「ええ」
「それならできそうですねぇ」
口にしてから、リリナは少し考えた。
エレノアがにっこり笑っている。
「今、何か思った?」
「少しだけ簡単そうだと思いました」
「そう」
「違うんですか?」
「やってみれば分かるわ」
エレノアは木剣を身体の前へ持った。
力の入った構えには見えない。
むしろ、ただ立っているようにも見える。
リリナは少し離れた場所から、その姿を見る。
(先生の時と同じようにすればいいですねぇ)
まず相手を見る。
距離を見る。
すぐには追いかけない。
相手が動いたら、その場所を見てから自分も動く。
今まで教わったことを一つずつ思い出した。
「準備はいい?」
「はい」
「では、どうぞ」
リリナはエレノアとの距離を見る。
このままでは少し遠い。
一歩出れば届きそうだった。
足を出す。
木剣を振る。
「あれ?」
剣先は何にも触れなかった。
エレノアは先ほどより少しだけ後ろにいる。
「下がりました?」
「少しだけね」
「いつですか?」
「リリナが動いた時よ」
リリナは元の位置へ戻った。
「もう一度やります」
「どうぞ」
今度はエレノアをよく見る。
自分が一歩出る。
エレノアも動く。
見えた。
ほんの少し横へずれた。
「こっちですね」
リリナは向きを変えた。
木剣を届かせようとする。
けれど、その時にはまた少し距離が変わっている。
剣先は木剣の手前を通った。
「また届きませんでした」
「そうね」
「でも、今度は動いたのが見えました」
「ちゃんと見えていたわよ」
「それなのに届きませんねぇ」
「見えたことと、届かせられることは同じではないもの」
聞き覚えのある話だった。
分かることと身体が動けることは同じではない。
イスターニャにも似たことを教わった。
「もう一度お願いします」
「ええ」
三度目。
リリナはすぐには動かなかった。
エレノアの足と木剣を見る。
どこへ動くのかを待つ。
少しだけエレノアが動いた。
(右ですね)
位置を確かめてから一歩出る。
今度は慌てない。
木剣を振る。
だが、やはり届かなかった。
「どうしてでしょうねぇ」
リリナは思わず木剣を下ろした。
「何が?」
「先生の時なら、今くらい見られたら届くことがあります」
「そうなの?」
「はい」
「でも、お母様には届きません」
「私と先生では違う人だからね」
「それだけで、こんなに変わるんですか?」
エレノアは少し考えるように首を傾けた。
「人が違えば、動き方も違うわ」
「動き方……」
「同じ一歩でも、どこから動くかも、どれくらい動くかも違うでしょう?」
「はい」
「剣の置き方も同じではないわ」
「それも見ないといけないんですねぇ」
「少しずつね」
リリナは改めてエレノアを見る。
大きく動いているわけではない。
速く走って逃げているわけでもない。
なのに、こちらが届くと思った時には少しだけ場所が変わっている。
しかも、木剣まで自然に届かないところへ移っていた。
(先生の時より難しいですねぇ)
イスターニャも動いていた。
後ろへ下がり、横へ動いた。
それを見て追えることも増えてきた。
けれどエレノアは、同じように見えて何かが違う。
「もう一度やってもいいですか?」
「もちろん」
リリナは木剣を構え直した。
今度は足だけではなく、エレノアの身体全体を見る。
木剣の位置も見る。
すぐに動かない。
「どうぞ」
エレノアがわずかに動く。
リリナはその位置を見た。
一歩出る。
エレノアも少し動く。
今度はそこで慌てず、もう一度位置を見る。
足を運び直す。
木剣を振る。
剣先がエレノアの木剣へ近づいた。
あと少し。
けれど触れる直前、エレノアの木剣がわずかに動いた。
乾いた音は鳴らなかった。
「ああ……」
リリナは木剣を止めた。
「惜しかったですねぇ」
「今のは良かったわ」
「でも届いてません」
「それでも、今までで一番近かったでしょう?」
「はい」
「なら、それで十分よ」
エレノアは木剣を下ろした。
「もう終わりですか?」
「今日はね」
「まだ一度も触れてません」
「だからといって、できるまで続ける必要はないでしょう?」
「先生と同じことを言いますねぇ」
「良い先生でしょう?」
「はい」
リリナは少し笑った。
それからエレノアの木剣を見る。
「お母様」
「なあに?」
「ずっと手加減していましたよね?」
「もちろん」
「かなりですか?」
「かなりね」
リリナは自分の木剣へ目を落とした。
「それでも届かなかったんですねぇ」
「最初から届いたら、私が少し困るわ」
「そうなんですか?」
「母親にも面目がありますから」
「面目なんですねぇ」
エレノアが笑う。
リリナもつられて笑った。
けれど、胸の中には別のものが残っていた。
母が強いことは知っていた。
魔物と戦う姿も見ている。
それでも今日まで、その強さがどれくらいのものなのかは分からなかった。
自分で木剣を持ち、立ち方を覚え、足を動かし、間合いを少し知った。
だからこそ、今になって初めて分かることがある。
(お母様、全然届きませんねぇ)
少ししか動いていないように見えるのに、どうしてあれほど届かないのだろう。
悔しいというより、その方が気になった。
また一つ、知りたいことが増えていた。




