第37話『覚えることがいっぱいですねぇ。』
第37話『覚えることがいっぱいですねぇ。』
その日、リリナはいつものようにイスターニャの授業を受けていた。
机の上には本と紙が広げられ、その横には王国の地図が置かれている。
今日は地理についての授業だった。
イスターニャが地図を指しながら川や町の位置を説明し、リリナは話を聞きながら必要なところを書き留めていく。
分からないところがあれば尋ね、そのたびにイスターニャが説明を加えた。
しばらくして、イスターニャが本を閉じた。
「ここで少し休憩にしましょう」
「はい」
リリナも筆記具を置いた。
用意されていた紅茶を手元へ寄せ、添えられていた砂糖を少し入れる。
スプーンを持ち、ゆっくりとかき混ぜた。
くるり。
もう一度、くるり。
強く握らなくても、指先を少し動かすだけでスプーンは素直に回った。
その手の感覚に、リリナはふと木剣を握った時のことを思い出した。
(剣の時も、力を入れすぎないように言われましたねぇ)
最初は木剣を落とさないようにしようとして、手にも肩にも力が入っていた。
力を抜こうとすれば今度は握りまで緩みそうになり、ちょうどいいところが分からなかった。
今では少しだけ、自分が力んでいることに気づけるようになっている。
リリナはスプーンをカップの横へ置いた。
「先生」
「はい」
「最近、覚えることが増えましたねぇ」
イスターニャが少しだけ目を細める。
「急にどうしたのですか?」
「今、紅茶を混ぜていたら剣の練習を思い出したんです」
「剣を?」
「はい」
「力を入れすぎないようにするのが、最初は難しかったなと思いまして」
「なるほど」
「それで考えてみたら、最近はいろいろ覚えているなと思ったんです」
イスターニャは机の上へ視線を落とした。
「確かに、学ぶことは増えましたね」
「文字もあります」
「はい」
「数もあります」
「はい」
「国のことと、歴史もあります」
「そうですね」
「魔法もあります」
「ありますね」
「治す魔法も覚えています」
「はい」
「それから剣もあります」
「ずいぶん増えましたね」
「本当にいっぱいですねぇ」
口にしてみると、自分でも少し可笑しくなった。
どれも一度覚えれば終わるものではない。
文字にもまだ知らないものがある。
国についても、知っていることより知らないことの方が多い。
歴史も学び始めたばかりだった。
魔法だって、使えるようになったものはまだ一部にすぎない。
「大変ですか?」
イスターニャに聞かれ、リリナは紅茶を一口飲んだ。
「大変ではありますねぇ」
「では、少し減らしましょうか?」
「それは嫌です」
自分でも驚くほど、すぐに答えていた。
イスターニャが少し笑う。
「嫌なのですね」
「はい」
「どうしてですか?」
「せっかく知り始めたのに、途中でやめるのも気になります」
「なるほど」
「知らないままなのも気になりますねぇ」
リリナは自分の手を見る。
剣についても最初は怖いという気持ちの方が強かった。
けれど知らないまま怖がるのではなく、まず知ってみたいと思った。
実際に触れてみれば、今度は知らなかった難しさが次々に出てきた。
「剣も、知ったら分からないことが増えました」
「そうですね」
「持つだけでも難しくて、足と一緒に動くのも難しくて、今度は立つ場所まで考えないといけません」
「間合いですね」
「はい」
「一つ分かったと思ったら、次が出てきますねぇ」
「それは剣に限ったことではありませんよ」
「そうなんですか?」
イスターニャは少し考えてから口を開いた。
「魔法を始めた頃はどうでしたか?」
「魔法ですか?」
リリナは記憶を辿る。
最初は魔力そのものがよく分からなかった。
自分の中にある小さな違いへ気づいても、それが本当に魔力なのか判断できなかった。
何度も同じことを確かめた。
「最初は魔力が分かりませんでしたねぇ」
「はい」
「感じられるようになっても、今度は動かすのが難しかったです」
「そうでしたね」
「動かせるようになったら、次は身体の外へ出す練習をしました」
「覚えていますね」
「《ライティ》も、一度ではできませんでした」
「はい」
リリナは小さく頷いた。
「《ヒール》もそうですねぇ」
「最初は私の手へ魔力を向ける練習から始めましたね」
「傷を治す前に、そこからでした」
「今では《ヒール》を使えるようになりました」
「《ミヒール》も使いましたねぇ」
マーシアの腕の傷を治した時のことを思い出す。
あの時に使えた魔法も、突然できるようになったわけではない。
それまでに積み重ねてきたものがあった。
「魔法も、少しずつだったんですねぇ」
「そうですね」
「剣とやっていることは違いますけど、覚え方は少し似ています」
「一つできるようになれば、その先にまた覚えることが出てきますからね」
「終わりがありませんねぇ」
「全部を知るのは、なかなか難しいでしょうね」
リリナは紅茶の表面を見る。
少し前まで砂糖が沈んでいたが、今はもう見えない。
(九十年生きても、知らないことはいっぱいありますねぇ)
前の人生では九十年を生きた。
子供の頃から歳を重ねるまで、本当に色々なことがあった。
知ったことも、覚えたことも、経験したこともたくさんある。
けれど今の世界については知らないことばかりだった。
魔法のことも知らなかった。
この国のことも知らなかった。
剣だって、実際に習ったことはない。
長く生きれば、何でも知っている人間になれるわけではないらしい。
「先生」
「はい」
「知らないことって、なくならないんでしょうか」
「難しい質問ですねぇ」
イスターニャは少し考える。
「少なくとも、私は今でも知らないことがありますよ」
「先生にもですか?」
「もちろんです」
「聖騎士だったのに?」
「聖騎士でも、何でも知っているわけではありません」
「そういうものなんですねぇ」
「リリナ様は、知らないことがあるのは嫌ですか?」
リリナは少し考えた。
知らないものが怖いことはある。
分からないから不安になることもある。
けれど最近は、知らないことへ近づいてみることも増えた。
そうすると、少しだけ分かる。
その先に、また分からないものが出てくる。
不思議と、それを嫌だとは思わなかった。
「嫌ではないと思います」
「そうですか」
「知らないと分かったら、少しずつ知ればいいですから」
「良い考え方ですね」
「ただ、覚えることは増え続けそうですねぇ」
「それは仕方ありませんね」
リリナは思わず笑った。
イスターニャも小さく笑う。
やがて休憩の時間が終わり、イスターニャが地図をもう一度広げた。
「では続きを始めましょうか」
「はい」
「今度はこの川からです」
「分かりました」
リリナは紅茶から手を離し、筆記具を持った。
今は地理の時間だ。
剣のことは、また修練場で考えればいい。
地図の上を進むイスターニャの指先を追いながら、リリナは授業へ戻った。
◇
授業が終わり、リリナは廊下を歩いていた。
窓の向こうには修練場の一部が見えている。
壁際には、練習に使っている木剣も並んでいた。
少し前までは、修練場を見ればアルクスが木剣を振っている姿を思い出していた。
今は自分も、あそこで木剣を持っている。
もちろん、兄のように使えるわけではない。
立つ場所が少し変わるだけで、目印へ届かなくなるくらいだ。
(お兄様も、今ごろ色々覚えているんでしょうねぇ)
騎士学校で何を習っているのか、リリナは詳しく知らない。
剣だけを一日中振っているわけでもないだろう。
きっと、自分の知らないことをいくつも学んでいる。
難しいこともあるのかもしれない。
自分が剣を習い始めたことで、以前より少しだけ兄の毎日が気になるようになっていた。
(帰ってきたら、聞いてみたいですねぇ)
何を覚えたのか。
何が難しかったのか。
何ができるようになったのか。
聞きたいことがまた増えた。
リリナは修練場から視線を戻した。
自分が騎士になるのかは、まだ分からない。
剣をどこまで覚えたいのかも決めていない。
魔法ももっと知りたい。
国のことも、歴史のことも知りたい。
それを全部すぐに覚えることはできないだろう。
けれど、一つずつなら知っていける。
(覚えることがいっぱいですねぇ)
不思議と、それを嫌だとは思わなかった。




