第30話『いってらっしゃいですねぇ。』
【作中の暦について】
この世界では「セラル暦」が使われています。
一年は四百日で、十か月。
ひと月は四十日、五日で一週間となります。
月は順に、
アク月、ベク月、セル月、ドル月、エン月、フォ月、ガル月、ヘク月、イル月、オル月。
曜日は、
ラグトル曜、ネクサム曜、ソルケム曜、デルノク曜、フェルガ曜の五日間で、フェルガ曜が休日です。
一日は二十時間、一時間は五十分、一分は五十秒ですが、一日の長さそのものは地球とほぼ同じです。
学校の新学年はアク月の第五週から始まり、フォ月は一か月すべてが長期休暇となります。
第30話『いってらっしゃいですねぇ。』
アルクスの部屋へ入ると、いつもより広く見えた。
机に積まれていた本は減り、壁際に置かれていた木剣もなくなっている。
代わりに大きな鞄と木箱がいくつも並び、その中へ服や日用品が収められていた。
「ずいぶん持っていくんですねぇ」
「寮で暮らすからね」
「必要な物は持っていかないと」
アルクスは机に残っていた本を一冊手に取ると、開いていた鞄へ入れた。
その様子を見ながらリリナは部屋の中を見回した。
「本当にここで暮らさなくなるんですねぇ」
「ずっとじゃないよ」
「フォ月になったら帰ってくるから」
「フォ月ですか」
まだアク月だ。
帰ってくる日はちゃんとある。
そう聞いても、すぐそこではないのだと分かった。
(毎日会えるわけではなくなるんですねぇ)
学校へ行くことは前から聞いていた。
アルクスが騎士を目指していることも、そのために家を離れることも知っている。
けれど知っていることと、空いていく部屋を見ることは少し違った。
「騎士学校では何をするんですか?」
「剣の稽古はもちろんするよ」
「体も鍛えるし、騎士に必要なことも勉強するって父上が言ってた」
「大変そうですねぇ」
「楽しみだよ」
アルクスはすぐに答えた。
少し緊張しているようにも見えたが、それ以上に嬉しそうだった。
「向こうには僕より強い人もたくさんいるだろうしね」
そう言ってアルクスが右手を開いた。
リリナは少し前まで赤くなっていた掌を思い出した。
「今度は赤くなる前に休んでくださいねぇ」
「まだ言うの?」
「言いますよ」
「向こうじゃ、あれくらいじゃ済まないかもしれないけど」
「それは困りますねぇ」
思わず眉が寄った。
「怪我をしないのが一番です」
「分かってるよ」
「でも怪我したら、フォ月に帰ってきた時に治してよ」
「その頃には、もっと上手になっておきますねぇ」
「じゃあ僕も、もっと強くなって帰ってくる」
「約束ですねぇ」
「うん」
アルクスが笑った。
リリナも笑い返した。
◇
翌朝、屋敷の前には馬車が止まっていた。
使用人たちが昨日までアルクスの部屋にあった鞄や木箱を積み込んでいる。
家族だけでなく屋敷の者たちも何人か外へ出てきていた。
アルクスは旅支度を整え、馬車の前に立っている。
いつもの修練場で木剣を握っている姿より、少しだけ大人びて見えた。
「忘れ物はないな」
「はい、父上」
ガイウスは息子を真っすぐ見た。
「向こうでは家の名に頼るな」
「自分で学び、自分で考えろ」
「はい」
「励め」
「はい!」
ガイウスはそれ以上何も言わなかった。
けれどアルクスも、それで十分というように頷いた。
「困ったことがあったら、きちんと先生に相談するのよ」
「分かっています、母上」
「無茶もしないこと」
「分かっています」
「ちゃんと食べること」
「母上」
アルクスが困った顔をすると、エレノアが小さく笑った。
「しばらく言えなくなるんだから、今日くらい言わせてちょうだい」
「……はい」
最後にはアルクスも笑っていた。
やがてアルクスがリリナの前へ来ると、少しかがんで目の高さを合わせた。
「リリナも元気でね」
「アルクス兄様も」
「フォ月には帰ってくるから」
「はい」
「その頃にはもっと強くなってるよ」
「では私も、もっと魔法を使えるようになっておきますねぇ」
「負けないからね」
「私も負けませんよ」
二人で笑った。
その時、御者から準備が整ったと声がかかった。
アルクスが立ち上がる。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、アルクス」
「励め」
エレノアとガイウスに続いて、リリナも大きく手を振った。
「いってらっしゃいですねぇ!」
アルクスが馬車へ乗り込む。
やがて車輪がゆっくりと動き始めた。
窓からアルクスが手を振っている。
リリナも何度も手を振り返した。
馬車は門を抜け、そのまま道の向こうへ進んでいく。
小さくなってもアルクスの手はしばらく見えていた。
やがて馬車そのものが見えなくなった。
リリナは下ろしかけた手を、そのまま胸の前に置いた。
(行ってしまいましたねぇ)
フォ月になれば帰ってくる。
もう会えないわけではない。
それでも屋敷へ戻ろうと振り返った時、いつもより少しだけ広く感じた。
◇
午後、リリナは修練場の前で足を止めた。
いつもなら聞こえてくる木剣の音がしない。
中を覗いてみても、アルクスの姿はなかった。
踏み固められた土と、壁際に並ぶ道具だけがそこにある。
昨日までなら兄が木剣を振っていた場所だった。
(毎日会えないというのは、こういうことなんですねぇ)
少し寂しい。
そう思った。
けれどアルクスは自分で選んだ道へ向かっていった。
次にここへ立つ時には、今より少し強くなっているのだろう。
(フォ月になったら、どんな顔で帰ってくるんでしょうねぇ)
リリナは静かな修練場をもう一度眺めると、ゆっくりと屋敷へ戻っていった。




