第29話『約束ですねぇ。』
第29話『約束ですねぇ。』
あれから数日、リリナはイスターニャと《ヒール》の練習を続けていた。
最初は相手へ魔力を向けるだけでも何度か意識を整える必要があったが、今では小さな傷ならほとんど迷わず治療を始められるようになっている。
「ヒール」
リリナの前に差し出されたイスターニャの指先から、小さな光がいくつか浮かび上がる。
ほんの少し赤くなっていた皮膚から光が離れ、一つずつ消えていった。
「はい、もう大丈夫です」
「どうでしょうか?」
「きちんとできていますよ」
イスターニャが指先を確かめるように動かした。
「ここ数日は失敗もほとんどありませんね」
「よかったです」
「ただし、今できているのはあくまで《ヒール》で治せる程度の傷です」
「はい」
「できることが増えた時ほど、自分にできる範囲を忘れないようにしてください」
「分かりました」
リリナは素直に頷いた。
(何でも治せるわけではないんですよねぇ)
それでも、小さな傷なら治せる。
そう思えるくらいには、《ヒール》を使うことにも慣れてきた。
◇
その日の午後、リリナは修練場の端に座っていた。
少し離れたところでは、アルクスが木剣を振っている。
「はっ!」
木剣が空気を切る。
構え直し、もう一度振る。
「はっ!」
そしてまた構える。
リリナはその様子をじっと見ていた。
(今日も頑張っていますねぇ)
けれど、見ているのは剣の振り方ではない。
足の動きでもない。
どこへ木剣を振っているのかも、よく分かっていない。
リリナが気にしているのは別のことだった。
(転ばないでしょうかねぇ)
アルクスが踏み込む。
(大丈夫ですねぇ)
木剣を振る。
(手をぶつけたりしないでしょうか)
構え直す。
(今のところ大丈夫そうですねぇ)
そんなことを考えながら見続けていると、アルクスが木剣を下ろした。
額の汗を腕で拭い、そのままリリナの方を見る。
「リリナ」
「はい?」
「さっきからずっと見てるよね」
「見ていますよ」
「どうしたの?」
アルクスが首を傾げる。
「剣に興味があるの?」
「いいえ」
「違うの?」
「はい」
即答すると、アルクスが少しだけ困った顔になった。
「じゃあ、なんで見てるの?」
「お兄様が怪我をしたら、すぐ治せるようにです」
アルクスが止まった。
「……僕が?」
「はい」
「怪我する前提なの?」
「怪我をしない方がいいですよ」
「だよね」
「でも、お稽古をしていたら転んだり、擦ったりすることもありますよね」
「まあ……あるけど」
「だから見ています」
リリナは当然のことのように答えた。
アルクスはしばらく何も言わずに妹を見る。
「リリナって、変なところで心配性だよね」
「そうでしょうか?」
「だって、怪我してないのに治す準備してるんだよ」
「準備しておけば、すぐ治せますから」
「でも怪我しないかもしれないよ」
「それが一番です」
アルクスが少し笑った。
「じゃあ今日は《ヒール》を使わない方がいいんだ」
「もちろんです」
「使いたくないの?」
「お兄様が怪我をしない方が嬉しいですよ」
そう答えると、アルクスはますます笑った。
「そっか」
木剣を持ち直す。
「じゃあ怪我しないように頑張るよ」
「はい。そうしてください」
アルクスは再び修練場の中央へ戻っていった。
リリナもまた、その姿をじっと見る。
(頑張るところが少し違う気もしますけどねぇ)
それでも怪我をしないように気をつけてくれるなら、その方がいい。
アルクスは何度も木剣を振った。
止まり。
構え。
また振る。
同じ動きを繰り返しているように見えて、少しずつ速さが変わっている。
けれどリリナは、やはり剣のことよりアルクスの方を見ていた。
◇
しばらくして、稽古が終わった。
アルクスが木剣を持ったままリリナのところへ戻ってくる。
「終わったよ」
「お疲れさまです」
「今日は怪我しなかった」
少し得意そうに言う。
「それはよかったです」
リリナも安心して頷いた。
その時だった。
アルクスが木剣を持ち替えた手を見て、リリナの目が止まる。
「お兄様」
「なに?」
「手を見せてください」
「手?」
「はい」
アルクスが右手を差し出した。
リリナはその手のひらを見る。
大きな傷はない。
血も出ていない。
けれど木剣をずっと握っていたせいか、手のひらの一部が少し擦れて赤くなっていた。
「赤くなっています」
「これ?」
アルクスが自分の手を見る。
「これくらい平気だよ」
「痛くないんですか?」
「ちょっとひりひりするくらい」
「痛いんですね」
「いや、これくらいなら痛いうちに入らないよ」
「ひりひりするなら痛いと思います」
「そうかな」
「そうです」
リリナはアルクスの手を両手で持った。
「リリナ?」
「ちょうどいいですね」
「何が?」
そこでリリナは、少し前のことを思い出した。
アルクスの手に小さな擦り傷があった日。
《ヒール》のことを話した時、兄は嬉しそうに言っていた。
(覚えたら僕に使って、でしたねぇ)
あの時の傷は、とっくに治っている。
けれど約束そのものはまだ残っていた。
「お兄様」
「うん?」
「覚えたら使ってほしいと言っていましたよね」
アルクスが一瞬考えたあと、目を見開いた。
「あっ」
「覚えていますか?」
「覚えてる」
「では、約束通り使いますねぇ」
リリナは赤くなっている場所へ意識を向ける。
「本当にできるようになったの?」
「小さい傷なら、だいぶ上手になりました」
「すごい」
「動かないでくださいね」
「うん」
リリナは自分の魔力を感じる。
手へ動かし、身体の外へ出す。
そしてアルクスへ。
もうここで迷うことはほとんどない。
赤く擦れた皮膚を見つめる。
(ここを治します)
「ヒール」
アルクスの手のひらから、小さな光が一つ浮かんだ。
「出た」
アルクスが目を丸くする。
「まだ動かさないでください」
「分かった」
続いてもう一つ。
さらに小さな光がいくつか現れ、赤くなった皮膚の上で淡く揺れる。
「これが《ヒール》の光なんだ」
「そうですよ」
「前にリリナから出てた光とは違うね」
「《ライティ》とは違いますね」
リリナは治療を続ける。
浮かんでいた光が一つずつ消えていった。
最後の光が消える。
それと同時に、赤く擦れていたところもほとんど元の色へ戻っていた。
「終わりました」
「もう?」
「はい」
アルクスが手のひらを眺める。
握る。
開く。
もう一度握る。
「痛くない」
「本当ですか?」
「うん。ひりひりしない」
アルクスが嬉しそうに手を見せる。
「すごいね、リリナ」
「治ってよかったです」
「本当に僕に使ってくれた」
「約束しましたからねぇ」
リリナがそう言うと、アルクスは笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
治したのは、ほんの少し赤くなっていただけの手だった。
大きな怪我でもない。
放っておいても、きっとすぐに治っただろう。
それでもリリナは少し嬉しかった。
先生の手を借りて練習した時とは違う。
今日は、怪我をした兄のために自分から《ヒール》を使った。
(こういう時に使える魔法なんですねぇ)
怪我をしてほしいわけではない。
使う機会などない方がいい。
けれど、もし誰かが傷ついた時。
自分にできることがある。
それは少しだけ心強かった。
「じゃあ、もう少しやってくる」
アルクスが木剣を持ち直した。
「まだやるんですか?」
「うん。手も治ったし」
リリナは治したばかりの手を見る。
「お兄様」
「なに?」
「今度は赤くなる前に休んでくださいねぇ」
アルクスが木剣を持ったまま止まった。
「……はい」
少しだけしょんぼりした返事に、リリナは思わず笑った。




