第31話『お母様の剣ですねぇ。』
第31話『お母様の剣ですねぇ。』
ガル月の誕生日を迎え、リリナは七歳になっていた。
その日はエレノアと一緒に町へ出ていた。
同行しているのはマーシアとマティ、それにメニャーだった。
屋敷で使う布や日用品を買うための外出だった。
「こちらで最後ですね」
「はいっ、奥様」
メニャーが元気よく返事をして、店から受け取った包みを抱え直した。
その横ではマティが荷物の数を確認している。
「メニャー、持ちすぎではありませんか?」
「大丈夫ですっ」
「落とさないようにね」
「はいっ」
エレノアが笑う。
リリナもその様子を見ながら町の通りを歩いた。
以前より人の流れや店先を見る余裕が出てきた気がする。
それでも大人たちと同じように歩き続けられるわけではない。
「リリナ、疲れていない?」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「まだ歩けますねぇ」
そう答えると、エレノアは少しだけ目を細めた。
「それなら馬車まで行きましょうか」
「はい」
◇
買い物を終えた馬車は町を離れ、屋敷へ向かっていた。
荷物は後ろへまとめられ、メニャーはその一つが倒れないよう手で支えている。
マティはリリナの向かいに座り、時々窓の外を確かめていた。
マーシアはいつものようにエレノアの近くにいる。
「今日はずいぶん買いましたねぇ」
「必要な物ばかりよ」
「メニャーが全部持てると言っていましたけど」
「持てますっ」
「馬車があるのですから、全部持つ必要はありませんよ」
マティが静かに言うと、メニャーが口を閉じた。
すぐにエレノアが小さく笑う。
「元気なのはいいことだけれど、無理をするのは違うわね」
「はい……」
少しだけしょんぼりした返事に、リリナも笑いそうになった。
その時だった。
馬車が急に大きく揺れた。
「きゃっ」
メニャーが荷物を押さえ、マティが咄嗟にリリナの肩を支えた。
外で馬が高くいななく。
続いて御者の声が聞こえた。
「何かあったようですね」
マーシアの声が変わった。
先ほどまでの穏やかな調子ではない。
短く、低い。
「皆さんはここにいてください」
マーシアが扉を開け、先に馬車を降りた。
周囲を見回したあと、そのまま御者台の横へ回る。
座席の下には細長い収納箱が取り付けられていた。
道中で何か起きた時のため、剣が収められている場所だった。
マーシアは留め金を外すと、中から鞘に入った剣を一本だけ取り出した。
腰に下げると、馬車の前方へ視線を向ける。
「私も行くわ」
後ろからエレノアの声がした。
マーシアが振り返ると、エレノアが馬車を降りようとしている。
「奥様」
「状況は分かったのでしょう?」
「魔物がいます」
「なら、ここで待っているわけにはいかないわ」
マーシアはわずかに迷ったあと、もう一度収納箱へ手を伸ばした。
残っていたもう一本を鞘ごと取り出し、エレノアへ差し出す。
「お気をつけください」
「ええ」
エレノアが剣を受け取った。
二人がほとんど同時に刃を抜く。
乾いた金属音が続けて響いた。
「リリナお嬢様、馬車から出ないでください」
「はい」
マーシアはそれだけ告げると、エレノアとともに馬車の前へ出た。
扉が閉じても、先ほどの金属音がリリナの耳に残っていた。
(剣ですねぇ)
リリナの身体が少しだけ固くなる。
武器が人の手に握られた時の空気は、前世で何度も知っている。
「お嬢様」
マティの声で意識が戻る。
「大丈夫です」
「こちらにいてください」
「はい」
窓の外に大きな影が走った。
獣に似た姿をした魔物だった。
一体ではない。
馬車の反対側にも別の影が動いている。
「メニャー、こちらの荷物を」
「はいっ」
メニャーが荷物を端へ寄せ、リリナの周囲を空ける。
その直後、外で鋭い音が鳴った。
リリナは窓から外を見た。
マーシアが剣を振るっている。
普段エレノアのそばに静かに立っている姿とはまるで違う。
動きに迷いがなかった。
そして、その少し先にはエレノアがいる。
母もまた剣を構えていた。
(お母様……)
魔物が地面を蹴った。
エレノアが一歩前へ出る。
振るわれた剣が魔物の進路を遮り、馬車へ近づくのを許さない。
別の魔物が横から回り込もうとすると、今度はマーシアがその前へ入った。
刃が動くたび、リリナの胸の奥が冷たくなる。
剣は何かを傷つけるためのものだ。
その事実が変わったわけではない。
前世で見た武器も、人の命を奪った。
形が違っても、怖いものだという気持ちは残っている。
(怖いですねぇ)
それでも魔物が前へ出れば、エレノアも前へ出る。
マーシアが剣を振るえば、魔物は馬車へ近づけない。
マティもメニャーも、自分も。
その後ろにいる。
また一体の魔物がマーシアへ向かって飛びかかった。
「マーシア!」
エレノアの声が飛ぶ。
マーシアが身体をひねり、迫った魔物を剣で払う。
けれど避けきれなかった爪の先が腕をかすめた。
「っ」
袖が裂け、赤いものがにじんだ。
「マーシアさん!」
リリナが立ち上がりかける。
すぐにマティが手を伸ばした。
「まだです、お嬢様」
「でも、怪我を」
「今出ればマーシア様たちが、お嬢様を守るためにこちらを気にしなければなりません」
その言葉で足が止まった。
今ここから出れば、自分が助けになるとは限らない。
むしろ守る相手を増やしてしまう。
(今は待つしかありませんねぇ)
マーシアは傷ついた腕を気にする様子もなく、再び剣を構えた。
エレノアと互いの死角を補うように立つ。
しばらくして最後の魔物が地面へ倒れた。
それでも二人はすぐには剣を下ろさない。
周囲を確かめ、ほかに動く気配がないことを見届けてから、ようやくエレノアが息を吐いた。
「もう大丈夫よ」
その声を聞いた瞬間、リリナは扉へ向かった。
今度はマティも止めなかった。
◇
「マーシアさん」
馬車を降りると、マーシアは傷ついた腕を押さえていた。
裂けた袖の下から血がにじんでいる。
「リリナお嬢様、お怪我はありませんか?」
「私は大丈夫です」
「それなら何よりです」
「何よりではありませんよ」
「マーシアさんが怪我をしています」
マーシアは自分の腕へ目を落とした。
「これくらいなら問題ありません」
「問題ありますねぇ」
リリナはマーシアの前へ立った。
以前なら、これほどの傷を見ても何もできなかった。
けれど七歳になるまでの間も、イスターニャとの練習は続けてきた。
《ヒール》より深い傷を治す魔法も、少しずつ使えるようになっている。
「腕を見せてください」
「お嬢様」
「今度は私にできることをします」
マーシアが少しだけ目を見開いた。
それからエレノアを見る。
エレノアが静かに頷くと、マーシアは押さえていた腕を差し出した。
リリナは傷へ意識を向ける。
流れている血。
爪に裂かれた皮膚。
ここを治したい。
そのことだけを考えながら魔力を動かした。
「ミヒール」
傷の周りから小さな光がいくつも浮かび上がった。
リリナは魔力を向け続ける。
開いていた傷が少しずつ閉じ、流れていた血も止まっていく。
しばらくして光が消えた。
何もなかった時とまったく同じではない。
それでも、先ほどまで開いていた傷は塞がっていた。
「どうですか?」
「……痛みはかなり引きました」
マーシアがゆっくり腕を動かす。
「ありがとうございます、リリナお嬢様」
「こちらこそです」
「え?」
マーシアが首を傾げた。
「マーシアさんが守ってくれたから、私は怪我をしませんでした」
「ですから、これくらいはさせてくださいねぇ」
マーシアは少しだけ困ったように笑った。
「それが私の役目ですから」
「それでもです」
リリナはそう答えてから、エレノアを見た。
母の手にはまだ剣が握られている。
先ほどまで魔物へ向けられていた剣だ。
怖いと思った。
今も、その気持ちは消えていない。
けれどあの剣がなければ。
マーシアの剣がなければ。
魔物は自分たちのところまで来ていたのかもしれない。
◇
帰りの馬車は、行きよりも静かだった。
メニャーも今度は大人しく座っている。
マティは時々リリナの様子を見ていた。
マーシアは治した腕を確かめながら、エレノアの向かいに座っている。
二本の剣は再び鞘へ収まり、御者台の座席下にある収納箱へ戻されていた。
エレノアも、もういつもの母の顔に戻っている。
けれどリリナの目には、剣を構えていた姿がまだ残っていた。
「お母様」
「なあに?」
「お母様も、ずっと剣を使っていたんですか?」
エレノアは少しだけ考えてから頷いた。
「騎士だった頃はね」
「怖くなかったんですか?」
「怖い時もあったわ」
その答えは少し意外だった。
「でも、怖くても動かなければならない時があるの」
「今日のような時ですか?」
「そうね」
リリナは膝の上へ視線を落とした。
人を傷つけるもの。
魔物を斬るもの。
怖いもの。
それだけなら、今までと同じだった。
けれど今日は、それを握った母とマーシアが自分たちの前に立っていた。
剣があるから傷つくものがある。
それでも剣があったから守られたものもある。
そんな光景を、初めて目の前で見た。
(あの剣がなかったら、どうなっていたんでしょうねぇ)
答えはまだ分からなかった。




