第2話『良い人生だったですねぇ。』
第2話『良い人生だったですねぇ。』
戦争が終わった翌朝も、腹は減った。
町に出れば焼けた匂いが残り、昨日まで家だった場所には瓦礫が積もっている。
終わったと聞いたのに、何も終わっていないようにウメには思えた。
戦地から戻ってきた人がいた。
随分痩せて、家族の顔を見た途端に泣き出した。
待ち続けても帰ってこない人もいた。
知らせすら届かず、いつまでも玄関の方を気にして暮らす家もあった。
「戦争、終わったんだよねぇ」
米櫃を覗いていた母が言った。
「終わったよ」
「そうかい」
母はそれ以上何も言わず、少ない米を量った。
終わったからといって、昨日までの暮らしに戻るわけではない。
ウメは、そのことを少しずつ知っていった。
町はゆっくりと息を吹き返した。
瓦礫が片づけられ、新しい柱が立った。
小さな店が開き、子供たちが道を走るようになった。
ないものだらけの中でも、人は働いた。
飯を作った。
恋もした。
笑った。
ウメもその中にいた。
◇
後に夫となる男と初めて会った時、特別なものを感じたわけではなかった。
口数が少なく、愛想もあまりよくない。
ただ、一緒にいるとなぜか疲れなかった。
何度か顔を合わせるうち、向こうから話しかけてくることが増えた。
ある日、男はひどく真面目な顔でウメの前に座った。
「俺と一緒になってくれないか」
あまりに怖い顔だったので、ウメは思わず吹き出した。
「そんな顔で言うものかね」
「笑うなよ。こっちは真剣なんだ」
「私だって真剣ですよ」
「じゃあ……」
男の顔がさらに強張る。
ウメは少しだけ意地悪をしたくなった。
「どうしようかねぇ」
「おい」
「冗談ですよ」
ウメは笑った。
「よろしくお願いします」
男はしばらく何も言わず、やがて肩の力を抜いた。
「寿命が縮んだ」
「戦争を生き残った人がそれくらいで縮むもんですか」
「お前は時々ひどいこと言うな」
その日から、二人の時間が始まった。
◇
子供が生まれると、時間の流れまで変わった。
夜中に何度も起こされる。
熱が出れば心配で眠れない。
歩けるようになれば目が離せず、喋るようになれば生意気なことまで言う。
母親になれば自然と何でも分かるものだと思っていたが、そんなことはなかった。
迷ってばかりだった。
ただ、子供に腹いっぱい食べさせたいという気持ちだけは、誰にも教わらなくても分かった。
「お母ちゃん、私の少なくない?」
ある日の夕飯で娘が言った。
「少なくないよ」
「お兄ちゃんの方が多い」
「お兄ちゃんの方が身体が大きいんだから当たり前でしょう」
「ずるい」
「何がずるいんだい」
そう言いながら、ウメは自分の皿からおかずを一つ取った。
「ほら」
娘の皿へ置く。
「いいの?」
「いいから食べな」
「やった」
娘はすぐに笑顔になった。
その顔を見ながら、ウメも箸を戻す。
そして、ふと手が止まった。
卓袱台。
一つの饅頭。
『私の大きめのだー』
『良かったな』
遠い昔の父の声が、耳の奥で蘇った。
母の前に置かれた小さな饅頭。
それを見た父の顔。
『お前……』
『何さ』
「あぁ……」
ウメの口から声が漏れた。
「お母ちゃん?」
娘が不思議そうにこちらを見る。
ウメは返事をせず、自分の皿を見つめた。
今なら分かる。
父だけではなかった。
母も、自分の分を減らしていた。
自分が大きな饅頭を見て喜んでいる横で、二人は何でもない顔をしていた。
「あぁ、あの時……」
何十年も経ってから、ようやく気づいた。
胸の奥に、懐かしくて少し痛いものが広がった。
「どうしたの?」
「何でもないよ」
ウメは笑った。
「ほら、食べな」
娘は首を傾げながら、また箸を動かし始めた。
ウメも食事へ戻った。
もう父も母もいない。
それでもあの日もらったものは、こうして自分の中に残っていた。
◇
暮らしは変わった。
冷蔵庫が来た日には家族で大騒ぎをした。
テレビが来れば皆で画面の前に集まった。
町には車が増え、知らない建物が次々に建った。
昔なら三人で分けた饅頭も、今では箱で買える。
「食べきれないねぇ」
ウメが菓子箱を見て言うと、夫が鼻で笑った。
「昔の俺たちに聞かせてやりたいな」
「信じないだろうね」
「俺なら嘘つけって言う」
「私も」
二人で笑った。
そんな何でもない日々が積み重なっていった。
子供は大きくなり、家を出た。
やがて結婚した。
孫が生まれた。
「ほら、お母さん」
腕の中へ渡された小さな命を、ウメは恐る恐る抱いた。
「こんなに小さかったかねぇ」
「何人も育てたでしょう」
「自分の子供の時は必死だったからね。覚えちゃいないよ」
そう言いながら、孫の頬を指先でそっと撫でる。
柔らかかった。
あまりにも柔らかくて、ウメは笑った。
◇
長く生きれば、見送る人も増えた。
昔からの友人が一人いなくなった。
また一人いなくなった。
年賀状の束が、少しずつ薄くなっていった。
そして夫も先に逝った。
葬儀の日は人が大勢いた。
子供も孫もいた。
忙しくて、泣いている暇もないくらいだった。
けれど全部が終わり、家へ戻ると急に静かになった。
部屋の隅に、夫がいつも座っていた場所がある。
ウメはそこをしばらく見つめた。
「本当にいなくなっちゃったんだねぇ」
返事はなかった。
次の日の朝、湯呑みを二つ出しかけて手が止まった。
テレビを見ていて、何か言おうと横を向いてしまった。
買い物をしていて、夫の好きだったものを籠へ入れかけた。
人がいなくなるというのは、その瞬間だけ悲しいものではなかった。
何でもない日に、何度もいなくなったことを知らされる。
それでもウメは飯を食べた。
眠った。
朝になれば起きた。
いつかの戦争のあとと同じだった。
悲しみがなくなってから生きるのではない。
悲しいまま生きる。
そうしているうちに、少しずつ笑える日が戻ってくる。
ウメはそれを知っていた。
◇
平成になった。
孫も大人になった。
そして曾孫が生まれた。
「おばあちゃん、ちゃんと持てる?」
「誰に言ってるんだい」
「九十近い人」
「まだ九十じゃないよ」
「大して変わらないって」
「若いねぇ」
「何が?」
「何でも」
ウメは笑いながら曾孫を抱いた。
小さな指が、ウメの指を握った。
随分遠くまで来たものだと思った。
空襲の夜には、次の日の朝さえ分からなかった。
それが今、自分の子供の、そのまた子供の、そのまた子供を抱いている。
人生というものは、本当に分からない。
◇
二〇一〇年。
南江ウメは九十歳になっていた。
身体はもう、昔のようには動かなかった。
起きている時間より、眠っている時間の方が長くなった。
その日、家族が集まっていた。
誰かが手を握っている。
近くで泣いている声がする。
「おばあちゃん」
呼ばれて、ウメはゆっくり目を開けた。
顔はぼやけていた。
けれど、誰なのかは分かった。
「そんな顔するんじゃないよ」
声になったかどうか、自分でも分からなかった。
また目を閉じる。
すると、昔の景色が次々に浮かんできた。
一つの饅頭。
『私の大きめのだー』
『良かったな』
父の笑顔。
母の笑顔。
出征していった青年。
『帰ってきたら饅頭でも奢るよ』
燃える町。
小さな子供の手。
戦争が終わった日の夕飯。
夫の緊張した顔。
『俺と一緒になってくれないか』
生まれたばかりの子供。
孫。
曾孫。
父を見送った。
母を見送った。
友人を見送った。
夫を見送った。
長かった。
九十年。
怖いこともあった。
苦しいこともあった。
悔しいこともあった。
もう一度会いたい人も、たくさんいる。
けれど。
ウメはほんの少し口元を緩めた。
父と母の子供になれた。
人を好きになった。
子供を育てた。
孫を抱いた。
曾孫まで抱いた。
泣いた。
怒った。
笑った。
生きた。
「良い人生だったねぇ」
今度は、ちゃんと声になった。
握られていた手に力がこもった。
誰かが泣いた。
ウメはその温かさを感じながら、静かに息を吐いた。
父と母は待っているだろうか。
夫は相変わらず無愛想な顔をしているだろうか。
そんなことを、ぼんやりと思った。
そして南江ウメの九十年は、家族に見守られながら静かに終わった。




