↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦争を経験した90歳のおばあちゃん、転生したら聖騎士を目指すことになりました。  作者: 黎明の星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/38

第2話『良い人生だったですねぇ。』

第2話『良い人生だったですねぇ。』


 戦争が終わった翌朝も、腹は減った。


 町に出れば焼けた匂いが残り、昨日まで家だった場所には瓦礫が積もっている。


 終わったと聞いたのに、何も終わっていないようにウメには思えた。


 戦地から戻ってきた人がいた。


 随分痩せて、家族の顔を見た途端に泣き出した。


 待ち続けても帰ってこない人もいた。


 知らせすら届かず、いつまでも玄関の方を気にして暮らす家もあった。


「戦争、終わったんだよねぇ」


 米櫃を覗いていた母が言った。


「終わったよ」


「そうかい」


 母はそれ以上何も言わず、少ない米を量った。


 終わったからといって、昨日までの暮らしに戻るわけではない。


 ウメは、そのことを少しずつ知っていった。


 町はゆっくりと息を吹き返した。


 瓦礫が片づけられ、新しい柱が立った。


 小さな店が開き、子供たちが道を走るようになった。


 ないものだらけの中でも、人は働いた。


 飯を作った。


 恋もした。


 笑った。


 ウメもその中にいた。


◇


 後に夫となる男と初めて会った時、特別なものを感じたわけではなかった。


 口数が少なく、愛想もあまりよくない。


 ただ、一緒にいるとなぜか疲れなかった。


 何度か顔を合わせるうち、向こうから話しかけてくることが増えた。


 ある日、男はひどく真面目な顔でウメの前に座った。


「俺と一緒になってくれないか」


 あまりに怖い顔だったので、ウメは思わず吹き出した。


「そんな顔で言うものかね」


「笑うなよ。こっちは真剣なんだ」


「私だって真剣ですよ」


「じゃあ……」


 男の顔がさらに強張る。


 ウメは少しだけ意地悪をしたくなった。


「どうしようかねぇ」


「おい」


「冗談ですよ」


 ウメは笑った。


「よろしくお願いします」


 男はしばらく何も言わず、やがて肩の力を抜いた。


「寿命が縮んだ」


「戦争を生き残った人がそれくらいで縮むもんですか」


「お前は時々ひどいこと言うな」


 その日から、二人の時間が始まった。


◇


 子供が生まれると、時間の流れまで変わった。


 夜中に何度も起こされる。


 熱が出れば心配で眠れない。


 歩けるようになれば目が離せず、喋るようになれば生意気なことまで言う。


 母親になれば自然と何でも分かるものだと思っていたが、そんなことはなかった。


 迷ってばかりだった。


 ただ、子供に腹いっぱい食べさせたいという気持ちだけは、誰にも教わらなくても分かった。


「お母ちゃん、私の少なくない?」


 ある日の夕飯で娘が言った。


「少なくないよ」


「お兄ちゃんの方が多い」


「お兄ちゃんの方が身体が大きいんだから当たり前でしょう」


「ずるい」


「何がずるいんだい」


 そう言いながら、ウメは自分の皿からおかずを一つ取った。


「ほら」


 娘の皿へ置く。


「いいの?」


「いいから食べな」


「やった」


 娘はすぐに笑顔になった。


 その顔を見ながら、ウメも箸を戻す。


 そして、ふと手が止まった。


 卓袱台。


 一つの饅頭。


『私の大きめのだー』


『良かったな』


 遠い昔の父の声が、耳の奥で蘇った。


 母の前に置かれた小さな饅頭。


 それを見た父の顔。


『お前……』


『何さ』


「あぁ……」


 ウメの口から声が漏れた。


「お母ちゃん?」


 娘が不思議そうにこちらを見る。


 ウメは返事をせず、自分の皿を見つめた。


 今なら分かる。


 父だけではなかった。


 母も、自分の分を減らしていた。


 自分が大きな饅頭を見て喜んでいる横で、二人は何でもない顔をしていた。


「あぁ、あの時……」


 何十年も経ってから、ようやく気づいた。


 胸の奥に、懐かしくて少し痛いものが広がった。


「どうしたの?」


「何でもないよ」


 ウメは笑った。


「ほら、食べな」


 娘は首を傾げながら、また箸を動かし始めた。


 ウメも食事へ戻った。


 もう父も母もいない。


 それでもあの日もらったものは、こうして自分の中に残っていた。


◇


 暮らしは変わった。


 冷蔵庫が来た日には家族で大騒ぎをした。


 テレビが来れば皆で画面の前に集まった。


 町には車が増え、知らない建物が次々に建った。


 昔なら三人で分けた饅頭も、今では箱で買える。


「食べきれないねぇ」


 ウメが菓子箱を見て言うと、夫が鼻で笑った。


「昔の俺たちに聞かせてやりたいな」


「信じないだろうね」


「俺なら嘘つけって言う」


「私も」


 二人で笑った。


 そんな何でもない日々が積み重なっていった。


 子供は大きくなり、家を出た。


 やがて結婚した。


 孫が生まれた。


「ほら、お母さん」


 腕の中へ渡された小さな命を、ウメは恐る恐る抱いた。


「こんなに小さかったかねぇ」


「何人も育てたでしょう」


「自分の子供の時は必死だったからね。覚えちゃいないよ」


 そう言いながら、孫の頬を指先でそっと撫でる。


 柔らかかった。


 あまりにも柔らかくて、ウメは笑った。


◇


 長く生きれば、見送る人も増えた。


 昔からの友人が一人いなくなった。


 また一人いなくなった。


 年賀状の束が、少しずつ薄くなっていった。


 そして夫も先に逝った。


 葬儀の日は人が大勢いた。


 子供も孫もいた。


 忙しくて、泣いている暇もないくらいだった。


 けれど全部が終わり、家へ戻ると急に静かになった。


 部屋の隅に、夫がいつも座っていた場所がある。


 ウメはそこをしばらく見つめた。


「本当にいなくなっちゃったんだねぇ」


 返事はなかった。


 次の日の朝、湯呑みを二つ出しかけて手が止まった。


 テレビを見ていて、何か言おうと横を向いてしまった。


 買い物をしていて、夫の好きだったものを籠へ入れかけた。


 人がいなくなるというのは、その瞬間だけ悲しいものではなかった。


 何でもない日に、何度もいなくなったことを知らされる。


 それでもウメは飯を食べた。


 眠った。


 朝になれば起きた。


 いつかの戦争のあとと同じだった。


 悲しみがなくなってから生きるのではない。


 悲しいまま生きる。


 そうしているうちに、少しずつ笑える日が戻ってくる。


 ウメはそれを知っていた。


◇


 平成になった。


 孫も大人になった。


 そして曾孫が生まれた。


「おばあちゃん、ちゃんと持てる?」


「誰に言ってるんだい」


「九十近い人」


「まだ九十じゃないよ」


「大して変わらないって」


「若いねぇ」


「何が?」


「何でも」


 ウメは笑いながら曾孫を抱いた。


 小さな指が、ウメの指を握った。


 随分遠くまで来たものだと思った。


 空襲の夜には、次の日の朝さえ分からなかった。


 それが今、自分の子供の、そのまた子供の、そのまた子供を抱いている。


 人生というものは、本当に分からない。


◇


 二〇一〇年。


 南江ウメは九十歳になっていた。


 身体はもう、昔のようには動かなかった。


 起きている時間より、眠っている時間の方が長くなった。


 その日、家族が集まっていた。


 誰かが手を握っている。


 近くで泣いている声がする。


「おばあちゃん」


 呼ばれて、ウメはゆっくり目を開けた。


 顔はぼやけていた。


 けれど、誰なのかは分かった。


「そんな顔するんじゃないよ」


 声になったかどうか、自分でも分からなかった。


 また目を閉じる。


 すると、昔の景色が次々に浮かんできた。


 一つの饅頭。


『私の大きめのだー』


『良かったな』


 父の笑顔。


 母の笑顔。


 出征していった青年。


『帰ってきたら饅頭でも奢るよ』


 燃える町。


 小さな子供の手。


 戦争が終わった日の夕飯。


 夫の緊張した顔。


『俺と一緒になってくれないか』


 生まれたばかりの子供。


 孫。


 曾孫。


 父を見送った。


 母を見送った。


 友人を見送った。


 夫を見送った。


 長かった。


 九十年。


 怖いこともあった。


 苦しいこともあった。


 悔しいこともあった。


 もう一度会いたい人も、たくさんいる。


 けれど。


 ウメはほんの少し口元を緩めた。


 父と母の子供になれた。


 人を好きになった。


 子供を育てた。


 孫を抱いた。


 曾孫まで抱いた。


 泣いた。


 怒った。


 笑った。


 生きた。


「良い人生だったねぇ」


 今度は、ちゃんと声になった。


 握られていた手に力がこもった。


 誰かが泣いた。


 ウメはその温かさを感じながら、静かに息を吐いた。


 父と母は待っているだろうか。


 夫は相変わらず無愛想な顔をしているだろうか。


 そんなことを、ぼんやりと思った。


 そして南江ウメの九十年は、家族に見守られながら静かに終わった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。