第1話『戦争が終わった日ですねぇ。』
第1話『戦争が終わった日ですねぇ。』
「今日は土産があるぞ」
ガラリと戸が開いて父の声がすると、ウメは膝に置いていた布を放り出して玄関へ走った。
「お土産?」
「そう慌てるな」
父は笑いながら懐へ手を入れ、小さな紙包みを取り出した。
油の染みた薄い紙を見ただけで、ウメの目が丸くなる。
「なに? なに?」
「お母ちゃんに渡しな」
受け取った母が卓袱台のそばへ座り、折り目を一つずつ開いていく。
「あら」
現れたのは、一つの饅頭だった。
「珍しいもの買ってきたねぇ」
「帰りに安くなってたんだ」
「安くたってお金はかかるだろうに」
「たまにはいいだろ」
ウメは母の肩越しから饅頭を覗き込んだ。
「食べていい?」
「夕飯のあと」
「ちょっとだけ」
「夕飯のあと」
「ひと口だけ」
「夕飯のあと」
同じ言葉を三度返され、ウメは唇を尖らせた。
その様子を見ていた父が声を上げて笑う。
「諦めろ。お母ちゃんは一度こう言い出したら駄目だ」
「お父ちゃんからも言ってよ」
「俺は長いものには巻かれる主義なんだ」
「余計なことを教えるんじゃないよ」
母が振り返ると、父は何食わぬ顔で目を逸らした。
その日の夕飯は、芋の入った味噌汁に漬物が少し。
いつもと同じだった。
けれど卓袱台の端に紙包みが置いてあるだけで、ウメには随分豪華な夕飯に思えた。
父が今日の仕事の話をし、母が「また調子のいいことを」と笑う。
ウメは話の半分も聞かずに飯をかき込んだ。
「ごちそうさま!」
「早いねぇ」
「お饅頭!」
「ちゃんと噛んだのかい?」
「噛んだ!」
「怪しいもんだ」
母は呆れながらも紙包みへ手を伸ばした。
饅頭を切ろうとしたところで、父が何気なく口を挟む。
「俺のは小さめでいい。ウメのを大きくな」
「はいはい」
母はそれ以上何も言わず、饅頭を三つに分けた。
一つだけ少し大きい。
残りの二つは、同じくらい小さい。
目の前に置かれた三つを見比べて、ウメの顔がぱっと明るくなった。
「私の大きめのだー」
「良かったな」
父が笑った。
そのまま自分の分へ手を伸ばしかけて、ふと母の前を見る。
動きが止まった。
「お前……」
「何さ」
母は知らん顔で自分の饅頭を摘まみ上げた。
父は何か言いたそうにしていたが、やがて小さく笑っただけだった。
「甘い!」
ウメはもう二人を見ていない。
久しぶりに口へ入れた甘さに頬を緩ませ、少しずつ大事そうに食べている。
「そんなにうまいか」
「うん!」
「そうか」
父がまた笑った。
母も笑った。
だからウメも笑った。
雨の強い日は桶を置かなければならないような家だった。
冬になれば、布団から出るのが嫌になるほど寒かった。
新しい着物など滅多に買ってもらえず、袖や裾には母が縫った布が重なっていた。
それでもウメは、自分の家を貧しいと思うことはあっても、不幸だと思ったことはなかった。
父がいて、母がいた。
腹が立てば喧嘩もした。
叱られて泣くこともあった。
それでも夜になれば同じ屋根の下で眠り、朝になればまた同じ顔がそこにあった。
子供だったウメにとって、それは空が明るくなれば朝が来るのと同じくらい当たり前のことだった。
◇
そんな当たり前が、少しずつ形を変えていった。
最初に変わったのが何だったのか、後になってもウメにはよく分からなかった。
父が新聞を読む時の顔だったかもしれない。
近所の人たちの声が、以前より少し小さくなったことだったかもしれない。
聞いたこともない遠い土地の名前を、大人たちがしきりに口にするようになったことだったかもしれない。
気づけば、町から若い男の姿が一人、また一人と消えていた。
出征の日には旗が振られた。
皆が声を張り上げ、笑顔で送り出した。
ウメもその中にいた。
近所に住んでいた青年が照れたように頭をかき、集まった人々へ何度も頭を下げていた。
「帰ってきたら饅頭でも奢るよ」
そう言われて、ウメは笑った。
「じゃあ二つね」
「欲張りだなぁ」
「無事に帰ってきたら三つでもいいよ」
「勝手に増やすな」
周りから笑い声が上がった。
青年も笑っていた。
だから、帰ってくるのだと思っていた。
けれど戻ってこなかった。
知らせが届いた日、その家の前を通ると、いつもよく喋る母親が縁側に座ったまま動かなかった。
誰かが声をかけても、返事をしなかった。
ウメは何も言えず、その前を通り過ぎた。
それからしばらく、饅頭を見るたびに青年の顔を思い出した。
◇
戦争は、遠くで鳴る雷のようなものだと思っていた。
音だけが聞こえて、自分のところまでは来ないものだと。
けれど雷雲は少しずつ近づいていた。
米が減った。
砂糖が減った。
布が手に入りにくくなった。
欲しいと言っても、ないものはない。
母は米櫃の底を眺め、しばらく考えてから蓋を閉じることが増えた。
「また芋?」
ウメが言うと、母は肩をすくめた。
「芋に失礼だよ。食べられるだけありがたいと思いな」
「前も芋だったよ」
「一昨日も芋だったな」
父まで余計なことを言う。
「文句あるなら食べなくていいよ」
「ありません」
父はすぐに頭を下げた。
ウメが吹き出し、母も笑った。
笑っていられる日は、まだよかった。
夜になると、窓から灯りが漏れないように気を配るようになった。
警報の音が聞こえるたび、胸の奥がざわついた。
昨日まで普通に売っていたものがなくなる。
昨日までいた人がいなくなる。
ある日突然ではなかった。
だからこそ、気づいた時にはもう、昔の暮らしが随分遠くなっていた。
◇
ウメも二十を過ぎた。
働き、家へ金を入れ、母と一緒に家計のことを考えるようになった。
いつの間にか、自分が守られるだけの子供ではなくなっていた。
「お父ちゃん、白髪増えたね」
ある晩、父の頭を見て言うと、父は不満そうに眉を寄せた。
「お前が苦労かけるからだ」
「何言ってるんだい。一番苦労かけてるのはあんただろ」
母がすぐに返す。
「俺か?」
「あんた以外に誰がいるのさ」
「世の中が悪い」
「便利な言葉だねぇ」
ウメは笑った。
父も渋々笑った。
そんな他愛もない夜が、妙にありがたかった。
◇
空襲警報が鳴った夜は、ひどく冷えたように覚えている。
実際に寒かったのか、それとも恐怖で身体が震えていただけなのか、後になっても分からなかった。
「ウメ!」
「分かってる!」
母に呼ばれ、外へ出る。
辺りにはもう人が溢れていた。
荷物を抱える者。
子供の手を引く者。
老人を背負う者。
どの顔にも余裕がない。
遠くから重い音が近づいてきた。
空を見上げる者はいなかった。
次の瞬間、大きな音が腹の底まで響いた。
地面が揺れた。
どこかで悲鳴が上がる。
「走れ!」
父の声だった。
ウメは母の手を掴み、走った。
息が苦しい。
足がもつれる。
もう一度、大きな音がした。
振り返る。
夜空が赤かった。
町が燃えている。
昨日まで歩いた道。
知っている家。
誰かの店。
それらが、炎の向こうにあった。
「見るな!」
父に怒鳴られ、前を向いた。
走った。
怖かった。
ただ怖かった。
国がどうとか、勝つとか負けるとか、そんなことは頭から消えていた。
父と母だけは見失いたくなかった。
生きて帰りたかった。
その時だった。
「お母ちゃん……」
小さな声がした。
道の端に、幼い子供が一人立っている。
泣きもせず、ただ同じ言葉を繰り返していた。
「お母ちゃん……」
ウメの足が止まる。
「ウメ!」
父が振り返った。
早く行かなければならない。
分かっていた。
また音が近づいている。
それでも身体は先に動いた。
ウメは子供のところまで戻り、その手を強く握った。
「行くよ」
「お母ちゃんが……」
「あとで探そう。今は一緒に行こう」
「ウメ!」
「この子も連れてく!」
父は一瞬だけ何か言いたそうな顔をした。
けれど戻ってきて、子供の反対側の手を取った。
「走れるか?」
子供が泣きながらうなずいた。
「なら走るぞ」
それだけだった。
四人で走った。
炎から遠ざかるために。
生きるために。
◇
朝が来た。
空は明るくなった。
なのに町だけが、昨日とは違う場所になっていた。
煙の匂いが鼻についた。
瓦の砕ける音がした。
道端で名前を呼び続けている人がいた。
焼け跡の前に座り込んだまま動かない人もいた。
ウメは立ち尽くした。
昨夜連れて逃げた子供は、その日のうちに母親と会うことができた。
母親は何度も頭を下げ、子供を抱き締めて泣いた。
ウメも泣きそうになった。
けれど少し離れたところでは、別の誰かがずっと家族の名前を呼んでいた。
そちらには返事がなかった。
助かった人の隣に、助からなかった人がいる。
そのことが胸に重く残った。
◇
それでも戦争は終わらなかった。
次の日も、その次の日も続いた。
腹は減った。
働かなければならなかった。
また警報が鳴った。
また誰かの知らせが届いた。
ウメは何度も、いつまでなのだろうと思った。
答えを知る者はいなかった。
そして昭和二十年の夏。
戦争が終わった。
そう聞かされた時、ウメは二十五歳になっていた。
周りでは泣く人がいた。
怒る人がいた。
呆然としている人がいた。
ウメはただ、言葉を失っていた。
終わった。
頭の中で何度も繰り返す。
終わった。
けれど、外へ出ても町は変わらない。
焼けたものは焼けたままだった。
戻らない人は戻らない。
明日の食べ物が急に増えるわけでもなかった。
家に帰ると、母が静かに座っていた。
「終わったんだって」
ウメが言った。
母は少しだけ顔を上げた。
「そうかい」
父も黙っていた。
三人の間に、妙に長い沈黙が落ちた。
その時、母が膝に手を置いて立ち上がった。
「さて」
「どうしたの?」
「夕飯にしようか」
ウメは目を瞬いた。
「今日くらい、何か違うこと言わないの?」
「戦争が終わったって、腹は減るだろう?」
父がふっと笑った。
「違いない」
その声を聞いて、ウメも笑った。
笑った途端、涙が溢れた。
どうして泣いているのか、自分でもよく分からなかった。
母は何も言わなかった。
父も何も言わなかった。
三人で卓袱台を囲んだ。
子供の頃、一つの饅頭を分けた時と同じように。
戦争は終わった。
けれどその日、何もかもが終わったわけではなかった。
それでも三人は、生きていた。
その夜、ウメはそれだけで十分だと思った。




