第16話『世界は広いですねぇ。』
第16話『世界は広いですねぇ。』
町から戻って少し休んだあと、リリナはエレノアと屋敷の一室にいた。
「お母様」
「なあに?」
「ユーダリナのお話、聞いてもいいですか?」
エレノアが手にしていたカップを置く。
「もちろん。覚えていたのね」
「気になっていたので」
町の店に置かれていた柔らかな布。
あれが、自分の知らない国から運ばれてきたものだという。
エレノアは少し考えてから立ち上がった。
「それなら、見ながら話した方が分かりやすいわね」
しばらくして戻ってきたエレノアは、大きく巻かれた紙を抱えていた。
「これは?」
「地図よ」
机の上に広げられる。
リリナも椅子から降り、すぐそばまで近づいた。
「大きいですねぇ」
「大陸全部が描いてあるもの」
紙の上にはいくつもの線が引かれている。
文字もあちこちに書かれていた。
エレノアが、その一か所へ指を置いた。
「ここがアルトレシア王国」
「ここですか?」
「ええ。私たちはこの国で暮らしているの」
リリナはじっと地図を見る。
町まで出た昨日は、ずいぶん遠くまで来たような気がしていた。
けれど地図の上では、その町がどこにあるのかさえ分からない。
「昨日行った町はどの辺りですか?」
「この地図だと小さすぎて載っていないわね」
「載ってないんですか」
思わずもう一度地図を見る。
(ずいぶん大きな地図だと思ったんですけどねぇ)
その中でも、昨日歩いた町は小さすぎて描かれていないらしい。
「それで、ユーダリナは?」
「こっちよ」
エレノアの指が別の場所へ動く。
「ユーダリナ共和国」
「共和国……」
聞き慣れた言葉だった。
もっとも、それは前の人生での話だ。
「王国とは違うんですよね?」
「違うわね」
「王様はいないんですか?」
「ええ。少なくともアルトレシアのような王様はいないわ」
リリナは小さく頷いた。
(共和国という言葉は同じでも、中身まで同じとは限りませんねぇ)
知っている言葉だからこそ、分かったつもりになる方が危ない。
「ほかには?」
「そうねえ」
エレノアの指が地図の上を動く。
「ラティナス王国」
「王国ですね」
「ゼッドラス帝国」
「帝国」
「ナーゼル王国」
また指が動く。
「イーフタン国、ミッティル国」
リリナは聞いた名前を頭の中で繰り返した。
「まだありますか?」
「あるわよ」
「タルガス獣国」
「獣国?」
そこで思わず聞き返した。
エレノアが笑う。
「そこが気になった?」
「名前が少し違ったので」
「それについて話し始めると、長くなるわね」
「長くても大丈夫ですよ」
「私は大丈夫じゃないかもしれないわ」
リリナが首を傾げると、エレノアは困ったように笑った。
「あなた、全部聞きそうだもの」
「聞きたいです」
「ほら」
言われてみればその通りだった。
エレノアがもう一度地図を見る。
「それから、神都マールタリナ」
「神都?」
「そこも気になる?」
「気になります」
「やっぱり全部ね」
エレノアがとうとう笑い出した。
リリナもつられて少し笑う。
けれど地図から目は離れなかった。
「この国たちは、みんな仲がいいんですか?」
今度はエレノアがすぐには答えなかった。
「ずっと仲がいい国というのは、なかなかないわね」
「そうなんですか?」
「仲良くするときもあるし、争うこともあるわ」
「戦争も?」
「ええ」
短い返事だった。
リリナは地図を見る。
紙の上では線で分けられているだけだった。
けれど昨日見た町には、大勢の人がいた。
店を開く人もいれば、子供を連れて歩く人もいた。
畑で働いている人もいた。
きっと、この線の向こうにも同じように暮らしている人がいる。
「どうして争うんですか?」
エレノアは少し考えた。
「理由はいろいろよ。土地だったり、物だったり、国同士の約束だったり」
「そんなにいろいろあるんですねぇ」
「昔の出来事がずっと残っていることもあるわ」
リリナは黙って地図を見る。
前の人生でも、国と国が争う理由は一つではなかった。
始まる理由も。
続ける理由も。
終われなくなる理由も。
「難しいですねぇ」
「そうね」
エレノアも地図へ目を落とした。
「だから、私も全部知っているわけではないのよ」
「お母様もですか?」
「もちろん」
その答えは少し意外だった。
大人は何でも知っているように見える。
けれど九十年生きた自分だって、知らないことの方が多かった。
「では、誰に聞けば分かりますか?」
「そうねえ……」
エレノアがリリナを見る。
「歴史なら、詳しい人はたくさんいるわ」
「歴史」
「国がどうやってできたのか。どこと争ったのか。どうして今の形になったのか。そういうことを調べている人たちもいるのよ」
「面白そうですねぇ」
「本当に?」
「はい」
エレノアが少し驚いたように目を瞬いた。
「あなたくらいの頃は、もっと別のものに興味を持つと思っていたわ」
「おかしいですか?」
「いいえ。面白いだけよ」
エレノアはしばらくリリナを見ていた。
「リリナ」
「はい」
「そろそろ先生をお願いしてもいいかもしれないわね」
「先生?」
「文字や数、それから国のことをきちんと教えてくださる人よ」
リリナは地図を見る。
「この地図のことも?」
「もちろん」
「昔のことも?」
「先生によるけれど、教えてくださると思うわ」
「では、お願いしたいです」
返事が早かったのか、エレノアがまた目を瞬いた。
「ずいぶん乗り気ね」
「知らないことが多いので」
「全部覚えようとしている?」
「まさか」
リリナは首を振った。
「九十年あっても知らないことばかりでしたから」
言いかけて、口を閉じる。
「……たくさん知らないことがありますから」
エレノアは特に気にした様子もなく頷いた。
「急がなくていいのよ」
「はい」
リリナも頷いた。
机の上には、まだ大きな地図が広がっている。
アルトレシア。
ユーダリナ。
ラティナス。
ゼッドラス。
ナーゼル。
タルガス。
イーフタン。
ミッティル。
マールタリナ。
名前を聞いただけの場所ばかりだ。
どんな人が暮らしているのか。
どんな町があるのか。
どんな歴史があるのか。
何一つ知らない。
(これは、覚えることがたくさんありそうですねぇ)
けれど不思議と嫌ではなかった。
リリナはもう一度、地図の上へ視線を落とした。




