11
王都の不良在庫たちが惨めな悲鳴を上げながら城門の外へと叩き出されてから、さらに二日の月日が流れていた。
北国フロストヘイムの朝は、相変わらず厳しい寒さに包まれている。
しかし、公爵邸の私の執務室の中だけは、窓から差し込む冬の柔らかな光と、暖炉でパチパチと爆ぜる良質な炭のおかげで、まるで春の温室のような心地よさが保たれていた。
「レティシア。……これを、食べてくれないか。お前がここ数日、王都から届く財務崩壊の報告書にかじりつきで、ろくに休息を取っていないのが心配なのだ」
私の机のすぐ隣。
給仕係のセバスを下がらせ、自ら銀のトレイを恭しく捧げ持ったギルバート様が、深刻極まる真剣な顔で私を見つめていた。
気高き白銀の髪を揺らし、軍服の袖を厳かに捲り上げた彼は、お皿に載った切り立ての林檎を、木製の小さなフォークでそっと突き刺して私の唇へと差し出してくる。
国の最高戦力であり、戦場では一瞥で万の敵を凍らせると噂される「氷の処刑人」が、今は私の口元に果物を運ぶためだけに、指先を微かに震わせているのだ。
その深紅の瞳には、私という存在を一時も目を離さずに見守り、甘やかしたいという、狂おしいほどの情念が宿っていた。
私の「真実の眼」が捉える彼の頭上は、今朝も文字通り限界突破のログを叩き出している。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
【思考ログ:限界突破(過保護システムの完全暴走)】
『レティシアに朝の果物を捧げる。これは夫としての重要な任務だ。
彼女が小さな唇を開けて俺の差し出した林檎を食べてくれたら、
俺は嬉しさのあまり、この場で新たな氷河期を引き起こして
しまうかもしれない。レティシアの指先が少し冷えている。
やはり、お袋の形見の最高級の毛皮をもう十枚ほど取り寄せて、
彼女を頭から完全に包み込んでしまうべきではないか……!』
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
(公爵様、部屋の中は十分に暖かいですし、林檎を一口食べただけで領地を氷河期にしないでくださいな。でも、これほどまでに私を慈しんでくださるなんて、本当に贅沢な優良物件ですこと)
「ありがとうございます、ギルバート様。いただきますわね」
私は小さく微笑み、彼の差し出した林檎をパクリと口に含んだ。
シャキシャキとした瑞々しい甘みが広がるのと同時に、ギルバート様の頭上のウィンドウが【最愛の捕食行動を確認:幸福度が測定不能の領域へ到達しました】と表示して白くフリーズする。彼は完璧な鉄面皮を維持したまま、耳の付け根だけを真っ赤に染めて満足そうに深く頷いた。
「美味しいですわ。ギルバート様のおかげで、今日も素晴らしい仕事ができそうですの」
「そうか。お前が満足なら、俺の命には意味がある。だが、決して無理はするな」
ギルバート様は私の返した言葉に胸を突かれたように視線を揺らし、それから、私が広げている王都からの暗部報告書へと、冷徹な視線を落とした。その瞬間、彼の端正な顔立ちに、最強の武官としての峻厳な格が戻る。
「それで……王都のあのゴミどもは、いよいよ息の根が止まりかけているようだな」
「ええ、そのようですわ」
私は手元の羊皮紙を軽く指先で弾きながら、冷ややかな笑みを浮かべた。
前日にカイル王子たちがこのフロストヘイムに乗り込み、私に「第二妃」などという薪以下の不良条件を提示して追い返されたことは、王都の財務官僚たちの耳にも瞬く間に伝わったらしい。
「レティシア様が王宮に戻ることは二度とない」と完全に悟った彼らが一斉に職場放棄を起こした結果、王宮の機能は文字通り完全停止へと追い込まれていた。
私が残した、私以外には解読不能な仕様の連動帳簿。
カイル王子やミリアが、自分のドレス代や遊興費を捻出するために適当に数字を書き換えたことで、全体の計算システムが致命的なエラーを起こして完全にロックされた。それが、今の王都のすべての元凶だ。
現在の国家予算の残高がいくらあるのか、どこの金庫にいくら眠っているのかが誰にも分からず、王宮の財布は物理的に開かなくなっている。
結果として、来期の各領地へのインフラ予算の配分はおろか、王宮直属の近衛騎士団や憲兵たちへの今月分の給与支払いすら、一ゴールドも引き出せない状態に陥っていた。
「セバスからの最新の定時報告によれば、王宮の廊下には、給与の未払いに激怒した近衛騎士たちの代表が連日押し寄せ、扉を蹴り破らんばかりの勢いで抗議の声を上げているそうですわ」
「ふん、当然の帰結だな。武官にとって、給与の滞納は明確な契約違反であり、反逆を許可されたに等しい。カイルの奴は、兵を養うという最低限の統治コストすら理解していない」
ギルバート様が、腕を組んで冷淡に吐き捨てる。彼の声には、百戦錬磨の指揮官としての圧倒的な説得力があった。
「その通りですわ。さらに滑稽なのは、カイル殿下とミリア様が、その怒り狂う騎士たちの前に立って『レティシアが呪われた帳簿を残して逃げたせいだ! 僕は悪くない!』と言い訳を並べ立てたそうですの。そのせいで、騎士たちからの社会的信用は完全にマイナス(債務超過)へ叩き落とされたとか」
「見苦しいな。自分の無能のツケを、すでに手放したお前に擦り付けるとは。やはりあの男は、存在そのものが国家の損失だ」
ギルバート様の深紅の瞳に、鋭い殺気の冷気が微かに混ざる。
王都の人間たちは、私がどれほど完璧に帳尻を合わせ、彼らの無能さを裏で覆い隠してやっていたのかを、失って初めて現実として突きつけられているのだ。
カイル王子がいくら「僕の素晴らしい手腕で国が回っている」と虚勢を張ろうとも、その中身を支えていたワンオペ財務インフラ(私)が消え、手足となる実務文官たちまでが我が領地に亡命した今、彼らには書類の一文字を処理する能力すら残されていない。
「カイル殿下は連日、執務室の机に積み上がった何千枚もの請求書を前に、一歩も外に出られず徹夜で数字と格闘しているそうですわ。もっとも、一時間で終わる計算に丸一日を費やし、結局すべてエラーで投げ出しているそうですが」
「哀れなことだ。お前という至高の宝石の価値を理解せず、ただの便利な道具として搾取し続けた報いだ。王都が勝手に破産していくのは心地よいな」
ギルバート様は私の髪にそっと触れ、愛おしそうに指先でその毛先を遊ばせた。
彼の触れる場所から、彼の内面の熱い情念が、心地よい温度となって私の身体へと流れ込んでくる。
王都で私を無価値だと切り捨て、物笑いの種にしていたカイル王子や実家のグランディス伯爵家。
彼らが己の傲慢さと怠惰の報いを受け、奈落の底へと自爆していくその様は、まさに最高の配当金という他ない。価値を認めずに放り出した損失の大きさに、彼らは今更気づいてももう遅いのだ。
「さあ、ギルバート様。あちらの不良在庫たちが勝手に崩壊していくのを遠目に眺めながら、私たちは本日も、このフロストヘイムの地をどこよりも豊かにするための最適化(内政無双)を進めましょうか」
「ああ、レティシア。お前の望むままに、俺の資産も、この力も、すべてを好きに使ってくれ」
過保護な旦那様の熱すぎる愛を完璧に手懐け、私はこの白銀の領地から、崩壊していく王都のすべてをひっくり返す次なる一手を、静かに指し示すのだった。




