EP 7
お迎えに参りました(ヒーローの自然な格差)
『――失礼。オリヒメ様、お迎えに上がりました』
甘ったるい香水と、侯爵令嬢エレノアの甲高いマウントの声で満たされていた王都の高級サロンの空気が、一瞬にして静寂に包まれた。
扉を開けて現れたのは、王都の貴族たちすら見たこともないほどに完璧に仕立てられた漆黒の燕尾服を纏う、人狼の執事・リバロンだった。
「予定の時刻を過ぎましたので、お迎えに参りました。……我が愛しき主(お嬢様)。こんな埃っぽい部屋で、退屈な時間をお過ごしではありませんでしたか?」
彼は、並み居る王都の令嬢たちには目もくれず、ただ一直線に私のもとへと歩み寄り、その長い脚を折って、恭しく私の足元に跪いた。
月の光を溶かしたような黄金の瞳が、私だけを熱っぽく見上げている。
彼が私の手を取り、その甲にひどく甘く、そして情熱的な口づけを落とした瞬間、サロンにいた令嬢たちから「ひっ……」「まぁ……っ」という、言葉にならない悲鳴のようなため息が漏れた。
「あ……リバロンさん。来てくれたの?」
私は、自慢でも勝ち誇りでもなく、ただ純粋に、迎えに来てくれた大好きな彼を見て、嬉しそうにふわりと笑った。
「ええ。扉の外で待機している間、貴女の姿が見えないことが、私にとってどれほどの拷問だったか……。今すぐ貴女をこの腕に抱き込んで、ポポロ村の私の部屋まで攫ってしまいたい気分ですよ」
周囲の目を全く気にしない、極甘な溺愛の言葉。
前章で両想いになって以来、タガが外れた彼の愛情表現は、時と場所を選ばなくなっている。私は顔から火が出そうになりながら、「も、もう……外なんだから、あまりからかわないでください」と小さく抗議した。
「からかってなどいませんよ。私の世界の中心は、常に貴女なのですから」
リバロンは喉の奥で低く笑うと、優雅な動作で立ち上がり、私の肩に、ふわりと上質な『タローマン製・温度調節機能付きシルクショール』を掛けてくれた。
「さあ、帰りましょう。外には既に、貴女専用の特注サスペンション馬車を待たせてあります。車内には、ルナキンが貴女のために冷やしておいた『特製メロン・フラペチーノ』をご用意しておりますよ」
「本当!? やったぁ、帰りの馬車で飲もうと思ってたの!」
私が無邪気に喜ぶと、リバロンは目を細めて私の頭をそっと撫でた。
「な、なんなのよ……なんなのよ、それ!!」
その時、ヒステリックな叫び声がサロンの空気を引き裂いた。
顔面を蒼白にし、ワナワナと震えながら立ち上がっていたのは、侯爵令嬢エレノアだった。
「た、たかが執事じゃない! 獣人の使用人じゃないの! そんな男にチヤホヤされて、いい気にならないでよ!」
エレノアは、血走った目で私とリバロンを交互に睨みつけた。
「私には、近衛騎士団の副団長であるエリート騎士の婚約者がいるのよ! 毎日薔薇を贈ってくれて、甘い言葉を囁いてくれるの! あなたのその、うす汚い従者なんかより、ずっとずっと格上の男性に愛されているんだから!」
エレノアの悲痛なまでの叫び。
だが、その言葉は、誰の心にも響かなかった。
なぜなら、彼女の語る「エリート騎士からの愛情」は、どう見ても虚勢にしか聞こえなかったからだ。
一方で、私の隣に立つリバロンはどうだろう。
王都のエリート騎士など足元にも及ばないほどの、圧倒的な美貌と、洗練された身のこなし。そして何より、私に向けるその瞳に宿る、隠しきれない本物の『執着』と『溺愛』。
言葉でどれだけ「愛されている」とマウントを取ろうが、目の前で繰り広げられる『本物の愛情(自然な格差)』の前では、すべてが薄っぺらい嘘にしか見えなくなってしまう。
「……ねえ、あの執事の方……信じられないくらい素敵じゃありませんこと?」
「ええ……。あんな風に、まるで宝物を扱うみたいに愛しそうに見つめられるなんて……」
「エレノア様の婚約者様って、そういえば、ここ数ヶ月、夜会でもお見かけしませんわよね……?」
取り巻きの令嬢たちが、ヒソヒソと囁き合い始めた。
彼女たちの目は、もはやエレノアの虚飾のドレスや金貨十枚の美容液ではなく、リバロンのエスコートを受ける私への『純粋な羨望』で満たされていた。
「だ、黙りなさい! 黙りなさいッ! 私の婚約者は、私のことを愛してるのよ! 今だって、仕事が忙しいだけで……ッ!」
エレノアが、耳を塞ぐようにして叫んだ。
私は、彼女の姿がたまらなく可哀想に思えて、静かに声をかけた。
「エレノア様。もう、無理をなさらなくて大丈夫ですよ。私たちは、これで失礼しますから」
私がマウントを取り返してこないどころか、最後の最後まで自分と『張り合おう』とすらしてくれない事実が、エレノアのプライドに致命的なトドメを刺した。
「……っ! 嘘よ、嘘よ! あなたみたいな田舎女が、私より幸せなはずがない! 私の婚約者の方が、絶対に上なんだからァッ!!」
エレノアが半狂乱になって叫んだ、まさにその時だった。
『バァァァンッ!!』
サロンの重厚な扉が、今度は乱暴に蹴り開けられた。
「おーい、エレノア! いるんだろ! 今日こそ、はっきりさせようと思ってよォ!」
酒臭い息と、だらしない声。
入ってきたのは、王都の近衛騎士団の制服(ただし着崩してヨレヨレになっている)を着た、一人の男だった。
「……えっ? ダ、ダリウス様……!?」
エレノアが、信じられないものを見るように目を見開いた。
彼女がたった今「私を心から愛している完璧なエリート」だと自慢していた、彼女の婚約者である。
「おっ、いたいた。……なんだ、今日もお茶会か? 借金まみれで屋敷のメイドも逃げ出してるってのに、相変わらず見栄っ張りな女だな」
婚約者のダリウスは、エレノアを嘲笑うように鼻で笑った。
だが、それだけではなかった。
彼の腕の中には、けばけばしい化粧をした別の若い女性が、ピッタリと寄り添い、ダリウスの頬にキスをしていたのだ。
「ダリウス様……? そ、その女は……誰ですの……?」
エレノアの顔から、完全に血の気が引いていく。
彼女の婚約者は、彼女が王都の令嬢たちを集めて「婚約者マウント」の絶頂に達していたこの最悪のタイミングで、浮気相手を連れてサロンに乱入してくるという、最悪の『自滅のトリガー』を自ら引いてしまったのだ。
「誰って、俺の新しい恋人に決まってるだろ?」
ダリウスは、ニヤニヤと下劣な笑みを浮かべた。
「もうお前みたいな没落寸前の侯爵家の娘に用はねえんだよ。今日、正式に婚約破棄を申し入れに来てやったぜ。……お前みたいなプライドだけの女、最初から家の金目当てじゃなきゃ相手にするわけねえだろうが!」
――パリィィィンッ!
エレノアが手にしていた扇子が、床に落ちて無惨に砕け散った。
取り巻きの令嬢たちは言葉を失い、青ざめて後ずさる。
私は、このあまりにも悲惨な『ざまぁ(自滅の修羅場)』の開幕を前に、ただ静かに、隣でトンファーを構えようとするキャルルを制止することしかできなかった。
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