EP 4
人狼執事の嗅覚と、崩壊する獅子の執務室
ポポロ村の村長室には、乾いた紙をめくる音と、羽ペンが走る音だけが小気味よく響いていた。
「よし。これで先月分の『ポポロ・コーヒー』の収穫量と、『ポポロ・タバコ』の出荷予定リストの突合が完了しました。あとはこの複式簿記の台帳に沿って、ルナミス帝国の商業ギルドへ卸す分と、村の備蓄分を分ければ完璧ですね」
私がふぅと息をついてペンを置くと、横で人参をかじっていた村長のキャルルが、目を丸くして身を乗り出してきた。
「お、オリヒメ……あんた、本物の神様なの!? 前の村長が放置してた一年分のぐちゃぐちゃの書類の山が、たったの三日で綺麗さっぱり片付いちゃったよ!」
「これくらい、前世の月末処理に比べたらなんてことないですよ。エクセル……じゃなくて、魔法計算機がない分、少し手書きの手間がかかりましたけど」
前世のブラック企業では、営業部全員の経費精算からプロジェクトの進行管理まで、すべて私一人に丸投げされていた。それに比べれば、村の特産品の在庫管理など、パズルを解くように楽しくて仕方がない。
「お疲れ様でございます、オリヒメ様。完璧な実務能力……まさに『プロフェッショナルマネジャー』の体現ですね」
背後から、芳醇な香りを漂わせた紅茶のカップが、音もなく私のデスクに置かれた。
人狼族の宰相兼執事、リバロンだ。彼の淹れる紅茶は、疲れた脳の細胞一つ一つに染み渡るように美味しい。
「ありがとうございます、リバロンさん」
「それにしても驚きました。獣人王国の貴族たちは、貴女のような至宝を『書類整理係』と蔑んでいたのですね。彼らは『国富論』の第一章すら理解していない愚か者だ」
リバロンは黄金の瞳を細め、呆れたように肩をすくめた。
その時、村長室の扉がバタンと勢いよく開いた。
「村長! 大変だ!」
飛び込んできたのは、ポポロ・コーヒーの畑を管理している農家の青年だった。その手には、ボロボロに刃こぼれした古い鉄の鎌が握られており、何より彼の手のひらや腕は、鋭いコーヒーの木の棘で切り裂かれ、血が滲んでいた。
「どうしたの!? ちょっと待って、すぐ治すから!」
キャルルが素早く駆け寄り、彼女の月兎族としての魔力を帯びた手をかざす。淡い月の光が青年の傷を塞いでいくが、青年の表情は暗いままだった。
「すまねぇ、村長。俺たちの使ってる道具が限界なんだ。コーヒー豆の収穫期なのに、鎌は切れねぇし、棘を防ぐ手袋も穴だらけで……このままじゃ、今月ルナミス帝国に納めるノルマの半分も収穫できねぇ」
「そんな……」
キャルルが耳を伏せて悔しそうに顔を歪める。ポポロ村の収入源は、この特産品にかかっているのだ。
私はすぐさま、ポケットの『エンジェルすまーとふぉん』を取り出した。
昨日のルナキン朝定食の炊き出しの余波で、私の善行ポイントはさらに増え続けていた。神界のゴッドチューブで『無私の村おこし配信』として定着し始めているらしい。
(農作業の効率化と、怪我の防止……必要なのは、頑丈な防具と確かな道具!)
私は画面を操作し、ルナミス帝国が誇るホームセンター『タローマン』のカタログを開いた。
タローマンは、一般向けの生活雑貨から、ガテン系職人向けの超本格的な武具・工具まで幅広く取り扱う神の店だ。
「これだわ……!」
私はポイントを消費し、『タローマン製・特殊防刃軍手(棘ガード機能付き)』と『魔導アシスト機能付き・軽量農作業鎌』を、村の農家全員分お取り寄せした。
空間が歪み、ダンボール箱がいくつも村長室にドサリと出現する。
「なっ、なんだこれは!?」
「新しい道具です! この軍手は、ドワーフの技術とスライムポリマーが編み込まれていて、どんな棘も通しません。こちらの鎌は、少しの闘気や魔力を流すだけで、硬い枝もバターのように切れる優れものです」
私は箱から真新しい軍手と鎌を取り出し、青年に手渡した。
青年はおそるおそる軍手をはめ、鎌を振ってみる。シュッ!という鋭い風切り音とともに、部屋の隅にあった不要な木箱が、力を入れずとも綺麗に真っ二つに分かれた。
「す、すげぇ……!! これなら、怪我もせずにいつもの三倍の速度で収穫できるぞ! ありがとう、お嬢さん! あんたはポポロ村の救世主だ!」
青年は涙ぐみながら深く頭を下げ、急いで畑へと戻っていった。
「ふふっ、よかった。これで怪我をする人も減りますね」
私が安堵の息を吐いた時だった。
「……信じられない」
不意に、リバロンが私のすぐ傍に膝をつき、私の手の甲をそっと両手で包み込んだ。
「リ、リバロンさん?」
獣人族トップの嗅覚を持つ人狼の彼が、その鼻先をわずかに震わせている。
「オリヒメ様。私はこれまでの生涯で、数多の貴族や為政者を見てきました。彼らが施しを行う時、そこには必ず『名誉欲』『支配欲』『打算』という、ひどく泥臭い悪臭が漂うものです」
リバロンの黄金の瞳が、熱を帯びて私を見上げる。
「ですが、貴女からはそれが一切しない。ただ純粋に、彼らの痛みを我が事のように憂い、最も的確な『実務』をもって解決に導いた。打算なき善意と、完璧なマネジメントの融合……これぞ真の『道徳感情論』。ああ、なんという芳醇で美しい魂の香りか」
「そ、そんな大層なものじゃありません! 私はただ、皆に笑っていてほしいだけで……」
「その『ただ』が、どれほど奇跡的なことか。……オリヒメ様」
リバロンは、自身の首元に巻かれたネクタイにスッと指を添えた。いざという時、彼が闘気を流し込んで鋼の刃へと変える、人狼執事の命の武器だ。
「このリバロンの牙と爪は、ポポロ村の主であるキャルル様に捧げております。ですが……私の『心』と『生涯の絶対的な忠誠』は、今この瞬間、貴女個人に捧げさせてください。貴女の歩む道に、いかなる障害も寄せ付けぬと誓いましょう」
甘く、けれど凄まじい熱量を持った執事の宣誓に、私は顔から火が出そうになるほど赤面してしまった。
「もーっ! リバロン、オリヒメを困らせちゃダメでしょ! オリヒメは私の親友なんだからね!」
キャルルがぷんすかと怒りながら間に割って入り、私を背中に庇う。
国境の村での日々は、前世では考えられないほど、温かくて騒がしいものになっていた。
***
――一方その頃。レオンハート獣人王国の王都、レオナルドの屋敷。
「おい、どうなっている! なぜルナミス帝国の『ゴルド商会』からの取引停止通告が来ているんだ!?」
豪華な執務室で、獅子耳のレオナルドが書類の束を床に叩きつけ、怒鳴り声を上げていた。
部屋の中は、未処理の書類や計算の合わない帳簿が山のように散乱し、足の踏み場もない惨状だった。
「も、申し訳ございませんレオナルド様! これまでの関税の計算や、ゴルド商会のオロチ会長との裏交渉のルートが……どこに記録されているのか、我々では全く解読できず……っ!」
文官の獣人が、青ざめた顔で震えながら報告する。
「ふざけるな! あんなものは、あの無能な人間の女が、適当に紙に書いていただけだろうが!」
「それが……オリヒメ様が構築されていた複式簿記のシステムは、ルナミス帝国の経済講座1級レベルの高度なものでして……我々では、数字一つ合わせることができません!」
「ええい、役立たずどもめ!」
苛立つレオナルドの横で、新しい婚約者である虎耳の令嬢が、退屈そうにあくびをしながら、邪魔な書類の山を無意識に蹴り飛ばした。書類が宙を舞い、さらに部屋が混沌に沈む。
『ただの書類整理係』と見下し、簡単に代わりが利くと切り捨てた女。
彼女という「完璧な土台」を失ったことで、己の領地の経済が音を立てて崩壊し始めていることに、傲慢な獅子はまだ、本当の意味で気づいていなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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