EP 8
狼の牙と、絶対的な護り
夕闇がポポロ村を包み込む中、広場に響き渡る偽善勇者ゼロスの絶叫は、あまりにも見苦しく、そして哀れだった。
「オリヒメェェェッ! お前のせいだ、お前のせいで俺は……ッ!」
泥だらけの聖騎士の鎧。自慢の金髪は乱れ、血走った眼球がギョロギョロと動いている。
つい数日前まで「俺の圧倒的な資金力にひれ伏せ」と豪語していた男の面影は、そこには微塵もなかった。
『ずっ友ロコシ』の魔力によって自らの資金源が「神からの横領」であることを自白してしまった彼は、裏ギルドのゴメスに見限られたばかりか、その情報が瞬く間に大陸中の商業ギルドへと拡散され、一切の取引を拒絶される事態に陥っていたのだ。
さらに、買い占めた大量の物資は腐敗して無価値となり、彼の手元には莫大な「借金」だけが残された。
「……私のせいではありません。貴方が勝手に村の物資を買い占め、勝手に自分の秘密を暴露しただけでしょう」
私は村長室から歩み出て、狂乱するゼロスを冷ややかに見据えた。
「黙れェェェッ! お前がっ、お前が『保冷コンテナ』なんてふざけた代物を出しやがったから、俺の買い占めがパーになったんだ! あのまま俺にひれ伏してりゃ良かったんだよ!」
ゼロスは歯を剥き出しにして吠えた。もはや論理破綻も甚だしい、完全な逆恨みだ。
「俺は勇者だ! 神に選ばれた特別な存在なんだよ! だが、ワイズの野郎は『借金を返せ』と俺を切り捨てやがった……! 冗談じゃねぇ、俺の人生が終わる前に、お前を道連れにしてやる! お前を捕まえて神界に売り飛ばせば、借金もチャラになるはずだァ!」
ゼロスが腰の聖剣(これも神の予算で買った安物のレプリカだろう)を引き抜き、私に向かって猛然とダッシュしてきた。
ガション、ガションと、泥に塗れたシークレット厚底ブーツが、不格好に地面を蹴る。
「オリヒメ!」
広場の端からキャルルが飛び出そうとするが、距離がある。
私は一歩も引かず、ただ彼を見据えた。前世で理不尽な上司の怒号に耐え続けた私にとって、こんな薄っぺらい男の脅しなど、もはや恐怖の対象ですらなかった。
だが、彼が私に指一本触れるなどという事態を、私の「絶対的な護衛」が許すはずがなかった。
「――身の程を知れ、薄汚い三流が」
氷点下の声。
ゼロスの剣が私に届くコンマ一秒前。
私の目の前に、一陣の漆黒の風が舞い降りた。
『キィィィィンッ!!』
金属と金属が激突する、鼓膜を劈くような甲高い音。
完璧な燕尾服を着こなしたリバロンが、どこからともなく取り出した純白の『名刺刃』を振るい、ゼロスの聖剣をいとも容易く弾き飛ばしたのだ。
「なっ……!?」
ゼロスが驚愕に見開いた目の前で、リバロンの流れるような反撃が続く。
「月影流の真似事をするつもりはありませんが……貴様のような下劣な虫けらに、我が主の視界をこれ以上汚させるわけにはいきませんので」
シュパァッ!
名刺刃が閃いた瞬間、ゼロスの足元で何かが弾け飛んだ。
「ギャアアッ!?」
ゼロスがバランスを崩し、無様に地面に這いつくばる。
見ると、彼が履いていた『十センチのシークレット厚底ブーツ』の底の部分が、左右とも見事に水平に切り飛ばされていた。
底上げの魔法が解け、本来のチンチクリンな背丈(私と大して変わらない)に戻ってしまったゼロスは、泥水の中で醜く足掻いた。
「てめぇ……! 俺の、俺の勇者ブーツを……!」
「黙りなさい」
リバロンは靴底を失い這いつくばるゼロスの首筋に、青白い闘気を纏った名刺刃の切っ先をピタリと突きつけた。
黄金の瞳からは、執事としての理性すらも焼き尽くさんばかりの、圧倒的な『人狼の殺意』が放たれている。
「私の愛する人に、その汚い厚底ブーツで近づくな」
低く、地の底から響くような宣告。
周囲の空気が、リバロンの放つプレッシャーによって一瞬で凍りついた。ゼロスは恐怖のあまり泡を吹き、カチカチと歯を鳴らして震え上がった。
「貴様の放つ金と権力の匂いは、腐ったドブネズミよりも不快です。……自分の無能さを金の力で覆い隠し、あまつさえ他者の努力を札束で踏みにじろうとした。その果てが、この無様な泥這いですか? 笑止千万」
リバロンは氷のような冷笑を浮かべ、ゼロスを見下ろした。
「我が主の慈悲に感謝することです。オリヒメ様が『不殺』を望んでおられなければ、貴様は今頃、その安い鎧ごと微塵切りにされていましたよ。……さあ、二度とこの村に近づかぬよう、這ってでも消え失せなさい」
「ヒィィィッ! あ、悪魔……! 悪魔だァァァッ!!」
ゼロスは涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、折れた聖剣も、切り飛ばされた厚底ブーツの残骸も放り出し、四つん這いになりながら暗闇の中へと逃げ去っていった。
もはや彼には、勇者としての威厳も、財力も、何一つ残されていない。
神の裏口座から横領した莫大な借金だけを背負い、全大陸のギルドから追われる身となった彼の末路は、火を見るより明らかだった。
「……周囲の警戒、完了しました。ネズミ一匹残っていません」
リバロンが名刺刃を懐にしまい、静かに振り返った。
彼が纏っていた恐ろしいほどの殺意と闘気は嘘のように消え失せ、そこにはいつもの、私を溺愛してやまない完璧な執事の顔があった。
「お怪我はありませんか、オリヒメ様。あのような汚物の飛沫が、貴女の美しい肌に一滴でも掛かったかと思うと、今からでも追いかけて八つ裂きにしたい気分ですが」
「だ、大丈夫です。リバロンさんが、守ってくれたから……」
私が安堵の息を吐き出した瞬間、膝からふっと力が抜けそうになった。
強がってはいたものの、やはり刃物を向けられた恐怖は、遅れて体を震わせたのだ。
「っ……!」
私がよろめいた体を、リバロンの逞しい両腕が、ガッチリと、そしてひどく優しく受け止めた。
「リバロン、さん……」
「……これだから、貴女から目が離せないのです。ご自身がどれほど危うく、そして価値のある存在か、もっと自覚していただきたい」
彼は私を腕の中に引き寄せ、そのまま強く、強く抱きしめた。
彼の大きな手が私の背中を包み込み、耳元には、彼自身の安堵したような吐息が掛かる。
「……っ」
私の顔が、彼の上質なベストの胸元に埋もれる。
トクトクと、彼のリズミカルな心音と、私の激しい心音が重なり合って聞こえた。
上品な紅茶の香りと、ほんの少しの野性の匂い。
私を何があっても絶対に守り抜いてくれる、この世界で一番安全で、一番甘い場所。
(……ああ、私。本当に、この人が好きなんだ)
昨夜の「明確な恋心の自覚」が、今はもう、ごまかしようのない絶対的な確信となって私の心を支配していた。
前世で誰にも頼れなかった私が、今、こうして全身を預けている。
彼が「私の愛する人」と、はっきりとゼロスに宣言した言葉が、頭の中で何度もリフレインし、私の心を甘く蕩けさせていく。
「リバロンさん……ありがとう」
私は震える手を伸ばし、彼の背広の背中に、そっと手を回した。
ほんの少しだけ、私からの「好意」のサイン。
それを受け取ったリバロンの体が、一瞬だけビクッと震え、直後、私を抱きしめる腕の力が、さらに熱く、独占欲を孕んだものへと変わった。
「オリヒメ様。……今夜は、貴女が完全に落ち着くまで、こうして抱きしめさせていただいてもよろしいですね? 執事の職権濫用と言われようと、もうこの腕を離すつもりはありませんので」
耳元で囁かれる極甘の言葉に、私は顔を真っ赤にしながら、ただ小さく、彼の胸の中でコクリと頷くことしかできなかった。
広場では、逃げ去ったゼロスを笑うように、キャルルやリーザたちが歓声を上げていた。
偽善勇者の愚かな買い占め騒動は、こうして完全なる「ざまぁ」の決着を迎え、私たちの絆と、私の中の新しい感情だけを強く残して、幕を下ろそうとしていた。
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