EP 2
月兎の村長は、心音で真実を聴く
レオンハート獣人王国の王都を飛び出してから数日。
私は、ルナミス帝国とアバロン魔皇国、そして獣人王国の三カ国が接する国境の緩衝地帯を目指して歩き続けていた。
「はぁっ……はぁっ……」
アナスタシア世界の住人は、闘気のおかげで基礎体力が地球人とは桁違いだ。しかし、闘気を練れない「弱い人間」である私にとって、ろくな野営装備も持たずに長距離を移動するのは想像以上に過酷だった。
途中で運良く「ロックバイソン乗り合い定期バス」に乗れた区間もあったが、最後は自分の足で山道を越えなければならない。
(あと少し……あの看板が見えれば……)
木々の隙間から、古びた木の看板が見えた。
『歓迎・ポポロ村』
かすれた文字でそう書かれている。特産品である「ポポロコーヒー」と「ポポロ・タバコ」の産地として知られる、国境の辺境村だ。
「着い、た……」
安堵した瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
極度の疲労と空腹で足がもつれ、私は冷たい土の上に倒れ込んだ。重い泥のような眠気が、急速に意識を奪っていく。
あんなに傲慢な男たちから解放されたというのに、ここで野垂れ死ぬのだろうか。
視界が暗転する直前、ザッ、ザッ、と土を踏みしめる足音が近づいてくるのが聞こえた。
「――おい! 大丈夫か、あんた!」
鈴を転がすような、けれど芯のある明るい声。
薄れゆく意識の中で見上げたのは、長い兎の耳を持った美少女だった。
彼女は、動きやすいラフな現代風のパーカーのような上着に、足元にはルナミス帝国のホームセンター『タローマン』で売られているような、ごつい特注の安全靴を履いていた。
「ひどい熱だ。それに、魔力も体力もすっからかんじゃないか」
彼女はしゃがみ込むと、戸惑う私の胸元に、ためらうことなく自分の耳をぴたりと押し当てた。
「え……?」
「しっ。ちょっと静かにしてて」
トクン、トクン。
私の弱々しい心音が響く。彼女は目を閉じ、真剣な表情で私の鼓動を聴き取っていた。
アナステシア世界において、兎耳族の上位種である『月兎族』は、並外れた聴覚を持つ。そして彼女は、その優れた聴覚で「相手の心音から、嘘を吐いているか、どんな感情を抱いているか」を完璧に見抜くことができた。
数秒後、彼女は顔を上げ、深い瑠璃色の瞳で私を見つめた。
「……あんたの心音、すっごく綺麗だね。不器用で、理不尽に傷つけられて、それでも誰かを恨むようなドロドロした音が一切しない」
「……あ……」
「よく頑張ったね。辛かったでしょ。でも、もう大丈夫。今日からここが、あんたの村だよ」
ぽん、と頭を優しく撫でられた。
その温もりに触れた瞬間、前世からずっと張り詰めていた心が、音を立てて崩れ落ちた。
「使えるか、使えないか」だけで評価されてきた二つの人生。損得抜きで、ただ私が傷ついていることを心配し、労ってくれたのは、彼女が初めてだった。
目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
私は彼女の服の袖を掴んだまま、赤子のように泣きじゃくり、そして深い眠りに落ちた。
***
ふわりと、香ばしくて甘い香りが鼻をくすぐった。
重い瞼を開けると、そこは質素だが清潔な木造の部屋だった。ふかふかのベッドに寝かされている。
「お、起きた?」
ベッドの横の丸椅子で、器用に人参柄のハンカチに刺繍をしていた兎耳の少女が、ぱぁっと顔を輝かせた。
「ここは……」
「ポポロ村の村長室だよ。私はキャルル・ムーンハート。一応、この村の村長をやってる」
「村長さん……あなたが、私を助けてくださったのですね」
私が身を起こそうとすると、キャルルは「無理しないで」と制止し、ポケットからごそごそと飴玉を取り出して私の口に放り込んだ。
ポポロコーヒーの深いコクと甘みが広がり、冷え切っていた体にじんわりと熱が戻ってくる。
「前の村長がさ、ゲートボール大会で知り合った隣町の婦人と『駆け落ちラビリンス(※ダンジョンへの駆け落ち)』でバックレちゃって。私が冒険者ギルドの地域応援隊として派遣されてきたってわけ」
彼女はあっけらかんと笑う。
後で知ったことだが、キャルルはただの月兎族ではない。レオンハート獣人王国の元・第三姫君であり、近衛騎士隊長候補でもあった規格外の存在だ。王族の籠の鳥になることを嫌い、自由を求めて出奔してきたのだという。
「私はオリヒメと申します。レオンハートの王都から……訳あって、追放されてきました」
「ふーん。まあ、心音を聴けば、あんたが悪いことして追い出されたんじゃないってのは分かるよ。あそこの貴族は、血の気が多くて見栄っ張りな馬鹿ばっかりだからね」
キャルルはカラカラと笑いながら、親しみを込めて私の手を握った。
「コンコン」
その時、控えめだが、完璧な間合いのノックの音が部屋に響いた。
「お嬢様方。そろそろお目覚めの頃かと思い、お茶をお持ちいたしました」
静かにドアを開けて入ってきたのは、黒い燕尾服を身に纏った、長身の男性だった。
銀色の髪に、鋭くも知的な黄金の瞳。頭の上にはピンと立った狼の耳があり、背後にはふさふさの尻尾が優雅に揺れている。獣人族の中でも最強の闘気と嗅覚を誇る『人狼族』だ。
彼は音もなくベッドサイドに近づき、銀のトレイから美しいティーカップを差し出した。
「ポポロ村の特産茶葉を用いた、陽薬茶のブレンドです。疲労回復に効果がございます」
「あ、ありがとうございます……」
一口飲むと、驚くほど澄んだ香りと、体に染み渡るような滋味が広がった。前世で飲んだどんな高級紅茶よりも美味しい。
「彼はリバロン。ルナミス帝国の執事検定1級を持ってる、この村の宰相兼、私の執事だよ」
「お見知りおきを、オリヒメ様。ルナミス帝国の愚かな貴族に見切りをつけ、人材ギルドで優雅にお茶を楽しんでいたところ、キャルル様の『純粋な心と規格外の暴力』に惹かれ、押し掛けた次第です」
リバロンは胸に手を当て、完璧な角度の美しいお辞儀をした。
しかし、彼が顔を上げた瞬間、その黄金の瞳が、獲物を値踏みするような鋭い光を帯びて私を射抜いた。
「……私の『鼻』は誤魔化せません。オリヒメ様、貴女からは嘘や打算の匂いが一切しない」
ぞくり、と背筋が震えた。彼の発するオーラは、先ほどまで王都で威張っていたレオナルドなどとは比べ物にならないほど、深く、底知れない。
「地位を失い、ボロボロになりながらも、貴女の魂には一片の濁りもない。……貴女は、実に興味深いお方だ」
「えっ……」
リバロンは薄く、けれど極上の笑みを浮かべた。
「我が主、キャルル様。この方を、ポポロ村にお迎えすることを強く推奨いたします。この方の存在は、必ずやこの村に『かつてない利益』をもたらすでしょう」
「もっちろん! 私もオリヒメのこと、すっごく気に入ったし!」
キャルルが無邪気に抱きついてくる。人参と日向の匂いがした。
最強の月兎姫と、底知れない人狼の執事。
思いがけない二人の優しさに包まれながら、私はこのポポロ村で、新しい人生をやり直すことを静かに決意した。
そして、リバロンの言葉通り。
私がこの村に「かつてない利益」をもたらすことになるとは、この時の私にはまだ知る由もなかった。私自身の持つ『エンジェルすまーとふぉん』の真の力によって。
読んでいただきありがとうございます。
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