第一章 弱い人間と見下されて婚約破棄されましたが、追放先の村で最強の人狼執事に溺愛されています
その屈辱は、過労死した前世と同じ味がした
「闘気も使えない弱い人間の女など不要だ。オリヒメ、お前との婚約は、今ここで破棄する!」
レオンハート獣人王国の王都。絢爛豪華なシャンデリアが照らし出す大夜会の広間で、その冷酷な宣告は響き渡った。
静まり返るホールの中、私――人間の令嬢であるオリヒメ(25歳)は、目の前で傲慢に顎を上げる男をただ見上げていた。
彼の名はレオナルド。獅子耳族の成金貴族であり、レオンハート王国の中でも新興勢力として名を馳せる一族の嫡男だ。彼の背後には、豪奢なドレスに身を包んだ虎耳族の美しい令嬢が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて寄り添っている。
「レオナルド様……それは、どういう意味でしょうか」
「言葉通りの意味だ、オリヒメ。我が一族は次期爵位を狙う重要な局面にある。だというのに、お前のような闘気も練れない、魔法も使えない平民上がりの無能な人間が隣にいては、他家の笑い者になるのだよ」
周囲の獣人貴族たちから、くすくすと嘲笑が漏れる。
『人間なんて、器用貧乏で何をやらせても中途半端な種族だろう』
『ルナミス帝国との商取引があるからと便宜を図って婚約してやったのに、大した役にも立たない』
『ただの書類整理係だったくせに、獅子耳族の正妻に収まろうなんて身の程知らずもいいところだわ』
耳障りな囁き声が、ホールを満たしていく。
アナスタシア世界において、人間という種族は「器用貧乏」とされがちだ。魔法に長けたエルフや、闘気に極振りした獣人族のスペシャリストたちには一歩劣る。特にこの獣人王国においては、爆発的な闘気を持たない人間は「弱者」として見下される傾向が強かった。
私はレオナルドの領地の財政を立て直すため、朝から晩まで執務室に籠もり、複雑なルナミス帝国との商取引の書類を全て一人でさばいてきた。ゴルド商会との交渉、関税の計算、流通経路の確保。その全てを私が裏で回していたからこそ、彼の一族は「成金」と呼ばれるほどの富を築くことができたのだ。
だが、彼にとって私の行動は「薄暗い部屋で紙切れと睨めっこしているだけの、地味で退屈な女」にしか映らなかったらしい。
「これからは、この美しく強きタイガ家の令嬢を新たな婚約者として迎える。彼女の虎耳族としてのパワーと闘気こそ、次期当主の妻に相応しい。お前がちまちまと作っていた書類など、新しく雇う人間にでもやらせれば済むことだ」
「……」
「何も言わないのか? 泣き喚いて縋るなら、辺境の別荘でメイドとして雇ってやらんこともないぞ?」
レオナルドが、豊かな黄金のたてがみを揺らしながら嘲笑う。
その時だった。
私の口の中に、じわりと「苦くて、ひどく冷たい味」が広がったのは。
――ああ、この味だ。
前世で、手柄を全て奪われ続けた、あの理不尽と全く同じ味がする。
その瞬間、私の脳裏に「前世の記憶」が濁流のように流れ込んできた。
日本のブラック企業で、毎日深夜までパソコンのモニターと睨めっこしていた社畜OL「天野織姫」としての記憶。
『天野さん、悪いんだけどこのプロジェクト、俺の名前で上に出しとくから。君は裏方でサポートしててよ』
『えっ、でもこれ、私が三ヶ月かけて徹夜でまとめたデータ……』
『いいからいいから! チームのためだからさ。それに、君みたいに大人しいタイプは表に出ない方が気楽でしょ?』
手柄は全て傲慢な上司に奪われ、残業と責任だけを押し付けられた。
満員電車に押し込まれ、他人の汗と香水の匂いに吐き気を覚えながら会社へ運ばれる日々。
朝目覚めるたびに、『会社に隕石でも落ちてくれないか』と本気で願いながら、それでも「私がやらなきゃ回らないから」と自分を騙して働き続けた。
そしてある月曜日の深夜。
誰もいない冷たいオフィスの床で、心臓を鷲掴みにされたような激痛と共に、私の意識は永遠に途切れた。報われることのないまま、ただ会社という組織の歯車として使い潰され、過労死したのだ。
(……同じだ)
記憶が統合された私は、目の前で胸を張る獅子耳の男を見た。
前世の上司と、レオナルドの姿が完全に重なる。
私が身を粉にして尽くしても、彼らはそれを「当たり前」としか思わない。私が裏で泥水をすすって支えていたからこそ成り立っていた基盤を、彼らは「自分自身の力」だと勘違いしている。
弱い立場の人間がどれだけ擦り切れても、彼らのような強者は絶対に気づかないし、感謝もしないのだ。
(だったら、もういい)
私は深く息を吸い込み、背筋をピンと伸ばした。
泣いて縋ると思っていたのだろう、レオナルドが怪訝な顔をする。
「……承知いたしました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
私の口から出たのは、一切の感情を排した、冷ややかな声だった。
まるで、ずっ友ロコシに塩をぶっかけたような、完璧な「塩対応」だ。
「なっ……なんだと?」
「私の作った書類など誰にでもできるとおっしゃるのなら、どうぞお好きになさってください。本日をもって、私はあなたの屋敷から出て行きます。短い間でしたが、お世話になりました」
怒りも、悲しみもなかった。ただ、果てしなく呆れていた。
私はレオナルドを一度だけ冷たく見据えると、きびすを返し、豪奢な広間を後にした。ヒールの音が大理石の床に響く。獣人貴族たちがざわめく中、私は一度も振り返らなかった。
「ま、待て! なんだその態度は! 誰のおかげで平民のお前がここまで贅沢できたと思っている!」
背後からレオナルドの怒声が飛んでくるが、私の耳にはもう届かない。
屋敷に戻り、最低限の着替えと少しばかりの路銀だけを小さなトランクに詰めた。私が買い揃えた私物だが、持ち出すと後で難癖をつけられそうなので、高価なドレスや宝石は全て置いていく。
これからの人生に必要なのは、見栄を張るためのドレスではない。
夜の冷たい風が頬を打つ中、私は一人、王都の門を潜り抜けた。
空には、満月に近い明るい月が浮かんでいる。
(もう我慢しない。誰かのために擦り切れるだけの人生は、これで終わりにしよう)
前世のように、耐えて耐えて、最後は一人で死ぬだけの人生はもう嫌だ。
せっかく二度目の命をもらったのだから、今度は自分が心地よいと思える場所で、のんびりと、誰にも踏みにじられずに生きていきたい。
そう決意した時、私のコートのポケットの中で、何かが「ピロリン♪」と間の抜けた電子音を鳴らした。
驚いて取り出すと、それは薄い板のような不思議な機械だった。前世の記憶が蘇った今の私には、それが「スマートフォン」に似ているとわかる。
だが、その背面には天使の羽根の意匠が施されており、どう見てもこの世界の魔導具とは違う。
画面には、煌びやかな文字でこう表示されていた。
『起動確認! 天野織姫ちゃん、初めまして! 月の世界の女神カグヤですわ♡』
「……は?」
思わず変な声が出た。女神? カグヤ?
画面をタップすると、さらにメッセージが続く。
『理不尽に耐えるのはもうやめにしましょう? 貴女の純粋な人柄と善行は、必ず誰かを救うわ。そしてそれは、最高の物語となって私のゴッドチューブのPVを爆上げ……コホン。とにかく! 貴女には特別なスキル【善行ポイント通販】を授けますわ! 困っている人を助けて善く生きるだけで、現代の便利な品をお取り寄せできる最強のシステムよ!』
前世の記憶と今の状況が入り乱れ、頭がパンクしそうになる。
だが、画面に表示された『ルナキン 苺パフェ』や『タローマン 特注安全靴』といった謎のカタログリストを見ていると、不思議と心が落ち着いてきた。
「……とりあえず、ここから一番遠いところへ行こう」
私が目指すのは、レオンハート獣人王国と、人間が治めるルナミス帝国、そして魔族のアバロン魔皇国――その三カ国の国境に位置する緩衝地帯。
「ポポロ村」と呼ばれる、貧しくも干渉を受けにくい辺境の村だった。
誰にも縛られず、穏やかに生きるための、私の本当の人生が始まろうとしていた。
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