EP 13
マグローザ漁船の地獄と、完璧な朝のコーヒー
ザパァァァンッ!!
氷のように冷たいシーラン海の荒波が、巨大な漁船の甲板を激しく打ち据える。
「動け、新入り! マグローザの群れが来るぞ! もたもたしてると海に叩き落とすからな!」
怒号が飛び交う甲板で、ひどい船酔いと疲労でふらついている男がいた。
かつてレオンハート獣人王国の次期伯爵としてふんぞり返っていた獅子耳の男、レオナルドである。
自慢だった黄金のたてがみは、今や魚の血と内臓、そして潮水にまみれてドロドロに固まり、見る影もない。豪華な貴族の服は剥ぎ取られ、タローマン製の安い防水作業着だけが彼に与えられた唯一の装備だった。
「う、うぅ……っ。なぜ、この私がこんな目に……!」
レオナルドは、冷え切った手で重い銛を握りしめながら、絶望の涙を流していた。
領地の経済が破綻し、ゴルド商会のブラックリストに載った彼の一族は、莫大な違約金と借金を抱えて文字通り「消滅」した。
彼が連れてこられたのは、裏社会の終着駅――巨大魚型魔獣『マグローザ』を狩る遠洋漁船だった。
「おい新入り。昨夜の地下室での『チンチロリン』の負け分、今日中にマグローザを三匹釣って返せよ? お前の船内通貨『K(ケツフキのK)』は、もう完全にマイナスだからな。このままじゃ、明日の飯は魚の骨だけだぞ、ギャハハ!」
筋骨隆々の荒くれ者たちが、レオナルドを嘲笑う。
「ち、畜生……! この私が、闘気を練って本気を出せば、お前らごとき……っ!」
レオナルドは怒りに任せて獅子の闘気を練り上げようとした。
しかし、連日の過酷な労働と、粗悪な食事による圧倒的な栄養不足で、彼の体からはロウソクの火ほどの闘気しか湧き上がってこなかった。
「あ? なんだそのしょぼいオーラは。マグローザの餌にもなんねぇな」
「ヒッ……!」
荒くれ者に凄まれ、レオナルドは情けなく甲板にへたり込んだ。
冷たい波飛沫を浴びながら、彼の脳裏にフラッシュバックするのは、かつての温かく快適だった執務室の光景だ。
自分が適当に散らかした書類は、翌朝には完璧に整理されていた。面倒な他国との関税計算も、ゴルド商会との痺れるような裏交渉も、気がつけば全て終わっていた。
デスクの横には、いつも自分の好みの温度に調整された温かいお茶が置かれていた。
『お疲れ様です、レオナルド様。こちらの書類にサインをお願いします』
淡々と、しかし決して出しゃばらず、全てを完璧に回していた「ただの弱い人間」の女。
彼女がいなければ、自分は一歩も歩けない赤ん坊も同然だったのだ。
「オ、オリヒメ……っ。すまなかった、私が悪かった……っ!」
レオナルドは甲板に突っ伏し、泥水と魚の血を舐めながら泣き叫んだ。
だが、その謝罪が届くことは永遠にない。彼の傲慢な「見下し」が招いた因果は、一切の救済を許さず、彼をこの暗く冷たい海の底に縛り付け続けるのだった。
***
「――というわけで。かの愚かな獅子の男は、船底でのチンチロリンでスッテンテンに負け越し、現在は5万Kの借金を抱えて甲板を磨いているそうです。ゴルド商会の情報網は実に正確ですね」
明るい朝の光が差し込むポポロ村の村長室。
完璧な燕尾服を着こなしたリバロンが、銀のトレイから美しいティーカップを下ろしながら、涼しい顔でそう報告した。
「おはようございます、オリヒメ様。本日の朝食は、貴女がお取り寄せされた『タローソン』の極厚タマゴサンドと、私が抽出した朝摘みのポポロコーヒーでございます。どうぞ、温かいうちにお召し上がりを」
「おはようございます、リバロンさん。……朝からすごいニュースですね」
私は、湯気を立てる極上のコーヒーを一口飲み、ふうっと息をついた。
窓の外からは、タローマン製の魔導セメントで舗装された道を、荷馬車が軽やかに行き交う活気ある音が聞こえてくる。
昨日までのお祭りの熱気が心地よい余韻として残る、穏やかな朝だ。
「レオナルド様のこと……可哀想だとは思いませんか?」
私がサンドイッチをかじりながら尋ねると、リバロンは微塵も揺らがない黄金の瞳で私を見つめ返した。
「思いません。マキャヴェリの『君主論』に照らし合わせるまでもなく、己の足元を支える真の価値を理解せず、無知と傲慢に溺れた者の当然の末路です。……貴女に少しでも同情の念が残っておいでですか?」
「うーん……」
私は少しだけ考えた後、ずっ友ロコシにたっぷり塩をかけたような、清々しい笑顔で首を振った。
「全く。一ミリも残りませんでした。ただ『そうなんだ』って感じです」
前世の私なら、自分を虐げた相手が不幸になれば、少しは「ざまぁみろ」と暗い喜びを抱いたかもしれない。あるいは「やりすぎでは」と不要な罪悪感を抱いたかもしれない。
でも、今の私にあるのは、完全な「無関心」だった。
彼を陥れたのは私ではない。私が自分のために、誰のことも蹴落とさずにただ「善く生きよう」とした結果、彼が勝手に自滅していっただけなのだ。
私の人生の時間は、もう彼のような人間に割くためにあるのではない。今目の前にある、この温かいコーヒーと、村の皆の笑顔のためにある。
「素晴らしいお答えです、我が主」
リバロンが、心底愛おしそうに目を細めた。
「貴女のその、一切の執着を持たない澄み切った魂こそが、私を狂わせる。……ああ、いけない。朝から貴女を抱きしめたくなる衝動を抑えるのに、執事としての理性を総動員しなければなりません」
「り、リバロンさんっ、朝からからかわないでください!」
私が顔を真っ赤にして抗議すると、彼は喉の奥で低く笑った。
「ドーンッ!!」
「おっはよー、オリヒメ!!」
その時、いつものようにドアを勢いよく開け放ち(今回は壊さなかった)、親友のキャルルが飛び込んできた。彼女の腕には、朝採れの『太陽芋』が大量に抱えられている。
「聞いてよオリヒメ! 昨日の収穫祭のおかげで、村のみんなすっごく元気になってさ! 朝から『タローマン』の魔導アシスト鎌で、予定の倍の収穫ができちゃった!」
キャルルがウサギ耳をピンと立てて、私に満面の笑みを向ける。
「すごいですね、キャルル! これなら、ルナミス帝国への追加納品も余裕で間に合いますよ」
「うんっ! これも全部、オリヒメが来てくれたおかげだよ。……えへへ、だからさ、今日の午後はお仕事休んで、三人でピクニックに行かない?」
キャルルの提案に、私は目を丸くした。
「ピクニック、ですか?」
「そう! 太陽芋を焚き火で焼いてさ、オリヒメの通販で『ルナキン』のハンバーグとかお取り寄せして、ポポロ山のふもとでのんびりするの! ダメ、かな……?」
上目遣いでウサギ耳をぺたんと寝かせるキャルル。そんな顔をされたら、断れるはずがない。
「……ふふっ、いいですね。たまには息抜きも必要です」
私が微笑むと、キャルルは「やったぁぁっ!!」と跳び上がって喜んだ。
「午後からのスケジュールは白紙ですね。承知いたしました。では、ピクニックの警護と、最高のランチのセッティングは、このリバロンにお任せを。……お嬢様にふさわしい、完璧な休息をご提供いたしましょう」
リバロンが優雅に一礼する。
(ああ……私の前世は、本当に終わったんだ)
誰かのための「便利な道具」ではなく。
誰もが私の「心」を大切にしてくれる、このポポロ村。
私はここで、彼らと一緒に、穏やかで幸せな人生を歩んでいくのだ。その確信が、私の胸を温かく満たしていた。
***
――だが、世界はまだ、私を完全な平穏の中には置いてくれないらしかった。
天界、神々の管理フロア。
女神カグヤがゴッドチューブのランキング一位に君臨し、高笑いを上げているモニターの対角線上。
薄暗い個室で、専用のノートパソコンを睨みつけていた新入りの世界神『炎上神ワイズ』が、苛立ちに任せてマイタンブラーを壁に叩きつけた。
「クソッ……! なんだこの『ポポロ村スローライフ配信』ってのは! 俺が裏で魔王軍に村を焼かせて、契約勇者に討伐させる『胸糞ざまぁからの復讐配信』より、こんな平和ボケした村おこし動画のほうがPVが高いだと!?」
ワイズの目は、血走っていた。
神々にとってPV率は、そのまま自分の権力と世界予算に直結する。自分のヤラセ炎上配信が、たった一人の人間の女の「善行」によってランキングから蹴落とされたことが、彼は許せなかった。
「ふざけるな。……カグヤのババアのお気に入りらしいが、平和な村なんてのはなぁ、悲劇のスパイスのために燃やされるのが相場なんだよ!」
ワイズはエンジェルすまーとふぉんを乱暴に操作し、地上にいる自らの駒――『マネー』のユニークスキルを持つ偽善の勇者、ゼロス・ディバインへ直接の神託を送信した。
『――ゼロスよ。標的を変更する。緩衝地帯にある「ポポロ村」へ向かえ。あそこには魔族の残党が潜伏しているという名目で、村を"浄化"しろ。もちろん、カメラが回っている前で、お前が悲劇のヒーローとして村人を"救う"絵を撮るんだ』
地上のどこかで、分厚いシークレットブーツを履いたイケメン勇者が、そのメッセージを見てニヤリと醜悪な笑みを浮かべた。
「あの人間の女……天野織姫とか言ったか。俺の最高のエンタメのために、その平和ごとぶち壊して絶望させてやるよ」
私の知らないところで、新たな悪意の影が、ポポロ村へと忍び寄ろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




