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第十六話 届かぬ刃

木立が、内側から爆ぜた。

 太い幹が紙のように裂け、左右へ薙ぎ倒されていく。その裂け目から、それは姿を現した。

 でかい。

 家一軒分は、ゆうにある。四つ足で身を低くしているのに、頭の位置が村の屋根より高い。

 熊のような巨躯に、猪を思わせる長い顎。全身を覆うのは、土気色の——岩だった。皮膚というより、隙間なく敷き詰めた硬い甲羅の鎧。歩くたび、石と石が擦れるような鈍い音が鳴る。

 森の主。

 クラウスの紙束の中にだけいた化け物が、今、朝靄を割って、村の前に立っていた。

 黄色く濁った目が、ぎょろりと村を見下ろす。

 誰かが、悲鳴を上げた。それが合図になった。


---


 「持ち場へ! 段取り通り——正面で受けるな、横へ流せ!」

 俺は声を限りに叫んだ。

 まともにぶつかれば、村など一息で踏み潰される。だから受けない。いなして、観る。それが今日の、唯一の勝ち筋だった。

 倒すための戦いじゃない。生き延びて、知るための戦いだ。

 ハロルドが村人を二手に割り、防壁ぞいへ散らす。ヴァルガは身を低くして、巨体の死角へ回り込んでいく。

 そして、エルナが前へ出た。

 森の主が、最初の一歩を踏み出す。遅い。一歩は、確かに遅い。だが、その一歩が大きすぎる。

 長い顎が、横薙ぎに振られた。エルナは低く滑り込み、それをかわす。見事だった。相手の動きを、彼女はもう読み切っている。

 そのまま、懐へ。

 渾身の一閃が、森の主の前脚の関節へ吸い込まれた。

 会心の太刀。少し前の彼女には、振れなかった一撃。

 硬い音が、鳴った。

 ——刃が、滑った。

 火花が散る。岩の鎧に、白い擦り傷が一本走っただけ。血の一滴も、にじまない。

 エルナの顔から、表情が抜け落ちた。


---


 森の主が、初めてエルナを目に留めた。

 邪魔な羽虫でも見るような、気のない目。前脚が、無造作に持ち上がる。

 「エルナ、退け!」

 俺の声より、ヴァルガが速かった。横合いから飛び込み、エルナの襟を掴んで、二人もつれて転がる。

 直後、さっきまで彼女がいた地面を、岩の前脚が叩き潰した。土が陥没し、泥の塊が噴き上がる。まともに受けていれば、人ひとり、染みも残らなかった。

 村の若い衆が、ありったけの槍を投げた。穂先は甲羅に弾かれ、ぱきぱきと折れていく。城壁に小石を投げつけるようなものだった。

 斬れない。刺さらない。通らない。

 手にしている武器のすべてが、この一匹の前で、丸ごと意味を失った。


---


 それでも、俺は目を凝らし続けた。剣が通らないなら、その理由の奥に糸口があるはずだった。

 わかったことが、いくつかある。

 あの鎧は、刃を通さない。これはもう、疑いようがない。

 もう一つ。あの図体は、急には止まれない。前脚を振り下ろしたあと、たたらを踏んで体勢を戻すまで、たっぷり間が空いた。動きは重く、舵の利きがひどく鈍い。

 それから、ほんの一瞬。横を向いた巨体の、脇腹のあたり。鎧の照りが、そこだけ妙にくすんで見えた。気のせいかもしれない。確かめる暇は、なかった。

 だが、それがどう役に立つのか、今の俺には見えてこない。

 止まれなかろうが、くすんでいようが——斬れないものは、斬れない。それが、動かない現実だった。


---


 これ以上続ければ、ただ死人が増えるだけだ。

 俺は、腹を決めた。

 「全員、退け! 外は捨てる! 石蔵の内へ——壁の内側まで下がれ!」

 築いたばかりの村を、明け渡す。倉も、掘りかけの井戸も、市の跡も。奥歯を噛んで、手放す。

 柵は、また建てられる。死んだ人間は、戻らない。

 ハロルドの誘導で、村人が奥の石組みへ雪崩れ込む。エルナが殿に立ち、森の主の気を引きながら、じりじりと退いていった。

 森の主は、追ってこなかった。

 明け渡された外の村を、巨体がのっそりと踏み荒らしていく。空き家を潰し、柵を薙ぎ——だが、石壁の手前で、ふと足を止めた。

 壁の内側からは、声も、灯りも、動く影も漏れてこない。

 張り合いをなくしたように、森の主は顎を上げ、低く吼えた。腹の底を揺さぶる、地鳴りのような声。

 そして、来た時と変わらぬ重い足取りで、木立のほうへ引き返していった。


---


 助かった、わけじゃない。

 あいつは、負けて退いたんじゃない。俺たちを、わざわざ仕留めるほどの相手とも見ていない。ただ、それだけのこと。気が向けば、また来る。明日か、明後日か。半年眠って待つことすら、あの化け物には、造作もないのだろう。

 石蔵の暗がりに、村人たちは声もなく寄り集まっていた。

 エルナが、握ったままの剣を見つめている。あれだけ振るって、刃こぼれの一つもない。一度も届かなかった、何よりの証だった。

 「……あたしの剣が、通らなかった」

 掠れた声だった。

 俺は、自分自身に問うていた。

 斬れない。刺さらない。叩いても、びくともしない。

 ——では、いったい何で、あれを倒す?

 その答えだけが、どこを探しても、見つからなかった。

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