第十五話 二つの影
森が様子を変えたのは、クラウスを付与して三日目だった。
昼間、木立の際から、角の大きな牡鹿が転がるように駆け出してきた。畑を踏み荒らし、人を見ても止まらず、村を突き抜けて、反対側の野へ消えていく。
次は、兎の群れ。狐。何かの羽音。森のけものたちが、こぞって、自分の棲家から逃げ出していた。
昼を過ぎる頃には、あれほどうるさかった鳥の声が、ぱたりと絶えた。
ヴァルガが、木立の縁から戻ってきて、低く言った。
「旦那。例の化け物がもう森の入口まで来てる。昨日はもっと奥だった」
近づいている。一歩ずつ、こちらへ。
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その夜、クラウスの家に村の主だった者が集まった。
議題はひとつ。逃げるか、留まるか。
口火を切ったのはハロルドだった。
「逃げたところで、行く当てがねえ」
太い声が、土間に低く落ちる。
「隣の村に、よそ者を冬じゅう食わせる余裕はねえ。畑を捨てりゃ、来年は別のかたちで死ぬだけだ」
「それにだ」ヴァルガが継いだ。「あの図体が相手だぞ。背中を見せて逃げる群れを追う方が、あいつにゃ楽な狩りさ」
留まって、迎え撃つ。残された道はそれしかなかった。
ただ、肝心のところで、クラウスが首を振った。
「正直に言おう。わしの紙束は倒し方までは教えてくれん。あるのは『大勢が死んだ』という事実だけじゃ」
「つまり、ぶっつけ本番ってことね」
セリアの声は固かった。
「そういうことになるのう」
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全員の目が、自然と、俺に集まっていた。
戦えない俺に戦況をひっくり返す力はない。それでも、皆が待っているなら応えるしかない。
「正面からまともにやり合っても、勝てません。相手の手の内を何ひとつ知らないからです」
「じゃあ、どうすんのさ」
エルナが、身を乗り出す。
「最初のぶつかり合いは、倒すための戦いにしません。"相手を知る"ための戦いにします」
俺は頭の中の村の見取り図に、線を引いていく。
「村の造りを使って、こっちの傷を最小限に抑えます。そのあいだに、あいつの動きを全て見届け、弱点は必ずどこかに出ます」
倒し方は戦いながら探す。乱暴な算段だ。けれど、丸腰の俺に出せる手はそれくらいしかなかった。
ハロルドがふっと息を吐いた。
「……お前がそう言うなら、乗るしかねえな」
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翌日から、村は備えに追われた。
ハロルドが人をまとめ、防壁の傷んだ箇所に新しい柱を継ぎ足した。先の戦いで築いた倉や、掘りかけの井戸の位置を、俺は何度も見て回り、人の流れと逃げ道を引き直していく。
年寄りと子供は、村のいちばん奥の石組みの蔵へ。ニコを始め、まだ傷の癒えない者もそこへ移した。
エルナは、夜更けまで剣を振っていた。
「こわいか」
俺が聞くと、手は止めずに、彼女は答えた。
「こわいよ。あんなの見たこともない」
「でも退かない」
「あたしが退いたら、後ろのみんなが死ぬ。それだけ」
少し前の彼女なら、ただ震えていた。今は、震える手で、それでも柄を握り直していた。
セリアは、ありったけの薬草を煎じ、布を裂いて巻いていた。
「ねえ、リョウ」手元から目を上げずに、彼女は言う。「私、まだこんな光しか出せない。誰かが何かあったとき……間に合うのかな」
差し出した手のひらに、頼りない光がぽつりと点って、すぐに消えた。
「間に合わせます」
俺は言った。
「光の大きさは、関係ありません。あなたの手がこれまで何人をつないできたか——ちゃんと数えています」
セリアは少しだけ笑って、また布に向き直った。
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その作業の最中に、もう一つの影が村の道を入ってきた。
馬が一頭。乗っていたのは、洒落た上着の男だった。腰に剣。土をいじったことのない、柔らかい手をしている。
「ザイン・ドレス男爵様の使いの者だ」
男は馬上から、村をぐるりと見渡した。新しい倉。掘りかけの井戸。市の立った跡。
その目が、わずかに細くなる。思いがけないものを見たという顔だった。
「妙だな。半年前に通ったときは、死にかけの村だったが」
視線が、ハロルドで止まった。
「村長が代わったと聞いた。領主様のお許しも得ず、勝手にな」
前へ出ようとするハロルドを、俺は手で制した。今は波風を立てるときじゃない。
使者は、それ以上は責めなかった。ふところから羊皮紙を一枚抜き、ハロルドへ放るように渡す。
「秋の徴税は例年通り。それと——男爵様が、この村に"ご興味"をお持ちだ。近いうち、改めて人をよこす」
馬首を返しながら、男は最後に、こちらを見もせず言い置いた。
「精々、それまで無事でいることだな」
蹄の音が、遠ざかっていった。
クラウスがぽつりと呟く。
「村が力をつけた、何よりの証じゃよ。……良くも、悪くも、な」
森から、けものが来る。そして人の側からも、別の影が、村を覗き始めた。
片方をどうにか凌いでも、もう片方が、すぐ後ろで待っている。
ずいぶんと、欲張りな巡り合わせだ。
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備えは、整えられるだけ整えた。
あとは、来るのを待つだけだった。
その時は、四日目の明け方に訪れた。
遠く、木立の奥から、地鳴りのような響きが腹に伝わってきた。
太い幹が、何本もまとめてへし折れる音。
一歩。また一歩。重たい何かが、確かにこちらへ歩いてくる。
手を動かしていた村人が、ひとり、またひとりと、森のほうへ顔を向ける。
誰も、口を開かなかった。
長く待ったものが、とうとう、木立の口をこじ開けて——姿を現そうとしていた。




