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第十三話 夜の眼

数日が経って、ターン村は別の場所のように見えた。

 夜が明けるたび、鎚音が響くようになった。新しい井戸を掘る音、共同倉庫の骨組みを組む音、防壁の柱を打ち込む音。

 広場では、初めての市が立とうとしていた。台に布が敷かれ、麦と根菜と薪が慎ましく並ぶ。

 村のはずれでは、バロックが鍬を振っていた。

 以前のように人を見下す眼差しはもうない。腰が痛むのか、時折手を止めて空を仰ぐ。それでも土を耕すのをやめなかった。

 その隣で、セリアが苗を一本ずつ丁寧に植えていた。

 「ここまで根を張れば、半年で薬になる。最初の冬は、もう——誰も死なせないわ」

 彼女の手は、まだ豆粒ほどの光しか灯せない。

 でも、その手が植えた苗が、いずれ村の薬箱の底を満たしていくだろう。


---


 ハロルドは村長になってから、ろくに寝ていなかった。

 帳簿、収穫の見立て、村の蓄えの計算。「算術・実務」のスキルが解放されてから、頭の中で動く数が明らかに増えていた。

 「リョウ。三年分の備蓄の見立てが立った。これなら男爵様の取り分を払っても、冬は越せる」

 昔の彼なら、「数字」と聞いただけでしかめ面をしていた。

 今は紙とペンを手放さない。

 心を動かす力に、村を回す背骨がそっと足された。その効果はもう、形になり始めていた。


 エルナは村の若い者を集めて、剣の素振りを教えていた。

 「いいか。剣は振るんじゃない。当てるんだ。当たる位置に、足を運ぶ」

 あの夜、自分の「踏み込み」一つが戦況を変えたことを、彼女自身が一番よく覚えていた。

 「見切り」のスキル——あれが彼女の戦い方を確実に変えていた。

 以前は来る攻撃を捌くので精一杯だった。今は相手の動きを読んでから、自分の足を運んでいる。

 たった一つのスキルが、戦い手の重心を丸ごと変える。


 クラウスは相変わらず、縁側で村の年寄りの相談を聞いていた。

 戸籍の整理、土地の境界、もめ事の前さばき。地味な仕事を丁寧に。

 俺の付与可能残数は、あと二つ。

 その一つは、たぶんこの爺さんのためにある。それは、彼自身が一番わかっている気がしていた。


---


 さて——俺だ。

 戦えない俺は相変わらず戦えない。鎚も握れず、薬草も植えられず、剣も教えられない。

 ただ、井戸の位置や倉の角度や薪の積み方を紙に描いて、村人にあれこれ口を出した。

 それでも、村は動いた。

 動かしているのは、俺じゃない。彼らだ。

 俺はその日の夕方、村のはずれの宿へ向かった。

 もう一人、決めなければならない男がまだ残っていた。


---


 宿の二階。窓辺に座って、ヴァルガは村の灯りを眺めていた。

 俺が入ってきても、振り返らない。

 「旦那。商売の話か」

 「いえ」

 「ふうん」

 彼の前に、もう一脚椅子があった。座れ、ということだろう。

 俺は座って、しばらく同じ景色を眺めた。広場の灯。新しい倉の骨組み。バロックの薬草園。

 やがてヴァルガがぽつりと言った。

 「俺は、王都にいた」

 「警備隊長だったと、ハロルドさんから」

 「ご丁寧に。……まあいい。十年前、辞めた。組織の腐り方が、見るに堪えなくてな」

 「何かを、変えようとは」

 「したよ。変わらなかった」

 短い答えだった。

 「変えられない場所にいるくらいなら、流れる方が楽だ。そう決めた。それから、ずっと流れてる」

 彼は酒の杯を傾けた。

 「この村も、立ち寄っただけのつもりだった。さっさと次へ行く気だった」

 「なぜ、残ったんですか」

 ヴァルガが初めてこっちを向いた。

 うっすら笑った目で。

 「旦那を、見ててな」

 「俺を」

 「戦えない。剣も握れない。なのに村が変わっていく。あんたの周りでだけ、何かが起き続けてる」

 「気のせいですよ」

 「さあてね」

 彼はまた窓の外を見た。

 「久しぶりに、流れるのをやめてもいいかと思った。それだけだ」


---


 俺は決めた。

 もう一度決めた、という方が正しい。

 あの夜、ならず者の数を黙って数えに行った男だ。村の囮を軽口一つで引き受けた男だ。とっくに決まっていた。

 ——あなたの目を、貸してください。

 心の中でそう告げた。

 付与画面が視界に灯る。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

対象:ヴァルガ・グレイ(35)

職業:行商人(自称)

現在のレベル:概念なし

【概念付与:レベル】を使用しますか?

▶ はい

いいえ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 はい、を選んだ。

 ヴァルガがわずかに眉を寄せた。

 「……なんだ、いま」

 「え」

 「いや。なんでもねえ」

 数字が並んだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ヴァルガ・グレイ 付与完了

現在Lv:1

───────────────

HP 17 / MP 6

STR 11 / AGI 18 / VIT 10 / DEX 18 / INT 14

───────────────

経験値の主な獲得源:情報入手/隠密成功/偵察・追跡

付与可能残数:1 / 5

※対象者には何も見えていません

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 AGIとDEXが揃って18。

 ヴァルガ自身の中で最も尖っている数字だ。逆にVITが10——脆い。

 体は決して頑丈じゃない。その代わり足が速くて手が器用だ。

 戦って勝つ男じゃない。気づかれずに動く男だ。

 数字が、人の輪郭をまた一つなぞって見せた。

 ——もっとも。

 レベル1だ。スキルはまだない。今すぐ何かが起きるわけじゃない。

 素のヴァルガが、初めて数字で見えるようになっただけだ。あとは彼自身が動いて、その数字を押し上げていく。


---


 ヴァルガは何も気づかないまま、杯を干した。

 そしてふと、立ち上がった。

 「旦那」

 「どうしました」

 「悪い、ちょっと外を見てくる。なんとなく気になる」

 階段を降りていく足音が軽かった。これまでも軽かったが、今夜は違って聞こえた——気のせいかもしれない。

 俺は窓辺に残された杯を、しばらく眺めていた。


---


 深夜、ヴァルガが戻ってきた。

 その顔つきが、出ていく前とは明らかに違っていた。

 「旦那。森がおかしい」

 「おかしい?」

 「あの、太い爪痕。村の柵の傷だけじゃなかった。森の奥に、新しいのがいくつも増えてる。前のより、もっと深い場所だ。木を何本もまとめて引き裂いてる」

 俺の背筋がひやりとした。

 ゴブリンの仕業じゃない。

 あの夜、村の柵に残されていた、丸太を三本まとめて引き裂いた太い爪痕。

 その主が——動き出している。

 ヴァルガは酒の残りを一気に呷った。

 「次に来るのは、ゴブリンの群れじゃねえ。得体の知れない化け物だ。……旦那、覚悟しといた方がいい」

 再生したばかりの村は、夜明け前の闇に、しんと沈んでいた。

 その静けさの奥で——森の何かが、もう目を覚ましていた。

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