9話 夢ならば、どれだけ良かっただろう
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『――この世界で誰よりも、あなたを愛しているわ、レイ』
「――姉さんッ!! はぁっ、はぁっ……! 夢……?」
姉の最後の姿が浮かんできたのと同時に、レイは現実を認識する。
寝汗でぐっしょりと濡れた背中は気持ちが悪く、腹の上で眠っていたシオが転がされた弾みで目を覚ます。
自分の震えた両手を凝視するレイを心配そうに見上げるシオに気づいたレイがその背を優しく撫でると、あの夜に見た、起こった出来事が夢であるかのように思えてならない。
「……姉さん、姉さんを起こしに行かなくちゃ」
――そうだ、今日は一緒に散歩する約束だったから、今朝の体調が良くないと……。
約束を思い出しながらベッドから立ち上がって初めて、レイは自分がベッドの上に寝かされていたことに気が付く。
レイの家では、ベッドの上にはヒジリが寝ていて、夜は遅く朝は早いレイが床に薄い布を敷いて眠るはずなのに。
そもそも、レイの家に部屋と部屋を区切る扉なんて置かれてないはずなのに。
何かがおかしい、とその扉に手を伸ばしたその時、向こう側からドアノブが回され、外向きに扉が開いた。
「あぁ、レイ、起きたのかい! 体の調子はどうだい? どこか痛むとか――」
レイを心配する声を上げたのは、心配そうに調子を尋ねてくるサオリおばさん。レイが望んだヒジリとは似ても似つかない、ふくよかな女性。
呆然と立ちすくんだままだったレイは、その現実を受け入れ難いものとして認識し、荒くなった呼吸を整える暇もなく、シオを腕に抱いたまま駆け出した。
「ちょっと、レイ! 待ちな! あんたはまだ動いちゃ――!」
レイはその小さな体でサオリおばさんの横を抜け、ゲンさんの屋敷を駆け抜ける。
勝手知ったる廊下に出たらすぐに外に飛び出し、まだ薄暗い明け方の空を見上げた。
待ちなさい! と追いかけてくるサオリおばさんの声を背に、レイは走る。
昨日のことが現実であっていいはずが無いのだと自分に言い聞かせるように、澄んだ朝の空気の中を走り抜ける。
――夢だ、夢に違いない。
見知った自分の畑の横を通り過ぎて、ようやく見えてきた一軒家。
昨日のことは何か悪い夢で、たまたまサオリおばさんの家で寝かせてもらっていたに過ぎない。疲れが出てしまっただけなんだと信じて、足元がふらつく自分に言い聞かせて木の扉に手をかける。
こんなに緊張して扉を開けるなんて、生まれて初めてだ、と乾いた笑みが自然とこぼれる。
――姉さんに話したら笑ってくれるだろうか。
――怖かったね、と慰めてくれるだろうか。
――また、いつもみたいに笑ってくれるだろうか。
「た、ただいま、姉さ――」
ぎぃ、と軋む音を立てて開いた扉の先、真っ暗な室内に朝日が入り込む。
壊れた窓から差し込む朝日は、無慈悲に幼い心に真実を突き付ける。
荒れた食卓は食べ終わった皿もそのままで、床に転がった食器を静かに拾い上げる。
「あ、あぁ……、あ……」
――夢ならば、どれだけ良かっただろうか。
レイは自分の呼吸が激しくなっていくのが分かるが、落ち着かせる余裕もないまま肩で呼吸を繰り返す。
足の折れたテーブルのすぐ傍、ヒジリの吐き出した血の跡がべったりと残る床板は生々しく、そしてそれは夢であってほしいと願ったあの光景が現実のものであるという証拠に他ならない。認めたくなくても、認めざるを得ない状況を押し付けられたレイは、最早自分の意思など関係ないように体を動かしては、ヒジリの痕跡を求めるかのように荒れ果てた家の中を彷徨う。
当然、空になったベッドにヒジリの姿があるはずもなく、レイの流した大粒の涙が床に新しくシミを作っていく。
そうして思い出されるのは、意識を失う直前の光景。
ベッドのすぐ傍の窓越しに見えた人影、駆け込んでくる幻想師たちの姿。
――姉さんは、奪われた……。
真っ白だったはずのレイの心に、埋め尽くすかのように黒いシミが広がっていく。
「レイっ、待ちな、さい……! これ以上、無理、しないで――って、そっちは!!」
ようやく追いついたサオリおばさんだったが、レイはその声に反応を示すことなく、再びその横をすり抜け走り出してしまう。
琥珀色の瞳に涙をいっぱい溜めて、砂利道を駆けていく。腕に抱かれたシオも、レイに負けないくらい涙を流しながら黙って前を向く。
最早レイの頭は、ショックも困惑も受け入れる余裕などなく、ただ一つの思考のみが頭の中を支配していた。
――どうして姉さんが奪われなきゃいけないのか。
これまで、ヒジリは必死で戦ってきた。本当は笑顔を浮かべるのも辛い中で、レイを悲しませないためだけに笑って、笑わせるために冗談を言って。
――どうして、どうしてどうしてどうしてどうして!!!
たった二年。突然姉を名乗って現れてから、何も無かったレイの人生には色が付いたかのように毎日が楽しかった。
僅か二年の間で、ヒジリはレイにたくさんのものを与えてくれた。
それはきっとレイだけでなく、シオも同じ思いのはずだった。
穏やかに時を過ごしたい。そんなささやかな願いさえも、ヒジリは奪われ、挙句の果てには愚か者呼ばわり。
幻想師は人を助けることは無い。自分の正義のためならば人から何を奪ってもいいと考えている集団なのだと、レイはあの瞬間理解した。
目に映っていたのはガリウスとシュウのみだったが、レイの耳には確かに他の足音も聞こえていたから。
大義を、正義を振りかざして人から奪う人間に、それを慕う連中に助けを求めていたことが、今になって思えばひどく滑稽に思えて仕方がない。幻想師を騙っていようと、歓楽区の連中と同じ。助ける気のない人間にいくら声をかけたところで、手を差し伸べることは疎か、見向きさえもされていなかった訳だ。
――どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてッ!!
しかしレイは、だからと言って、それを許せるほど堕落した人間でいたくなかった。
生まれて初めて抱くこの思いは、レイの脳裏を焼き尽くすかのように、希薄だったはずの感情を呼び起こすかのように真っ赤に燃えていく。
幸いにも、燃料は飽きるほどある。発散されることなく溜められた鬱憤が今、絶えることのない燃料となって感情の炎を沸き上がらせる。
――姉との、別れの機会すら弄ばれて奪われた。
自分が殺されかけたこと以上に腹立たしいそれは、レイが失いかけていた怒りの感情を思い出させる。
そうして裸足のまま砂利道を駆け抜けたレイは、人だかりを見つけて足を止める。
気づけば辿り着いていた歓楽区の広場。そこは数週間前にゲンさんに別れを告げた場所でもあり、今は朝早くから集まった歓楽区の人間に見送られる幻想師たちの姿があった。
――憎き、幻想師の姿があった。
最早この場所には用など無い、と鼻で笑うかのような幻想師連中の出発式に、臨界点をとうに超えているはずのレイの怒りが爆発する。
乱れた呼吸も整えずに、人の波をかき分けて最前列にまで抜け出す。
抜け出した先、歓楽区の人間たちが一斉に向ける視線の先には、幻想師と同じ衣服を身にまとった顔なじみの少年。
レイからヒジリを奪った直接的な人物が今、歓楽区の人たちに囲まれて持て囃されているところだった。
「――シュウぅぅッッッ!!!!」
目の前が真っ赤になってしまう程に荒れ狂った感情は制御することができずに、駆け込む勢いのまま、感情のまま叫ぶ。
竜気すら乗った言霊は朝の澄んだ空気を裂いて広場の空気を支配した。
レイの怒号に肩を跳ねさせ、まるで幽霊でも見たかのように怯えた様子を見せるシュウに対して、レイはさらに怒りを募らせる。
「し、死んだ、はずじゃ…………!?」
シュウのその怯えた声はレイには届かないが、怯えるシュウの肩に手を置いて現れたガリウスに、レイは睨みを強めて飛び込んだ。
止めに入る幻想師の面々に飛び掛かって殴りかかるが、竜気の扱いもままならないレイと幻想師では、圧倒的実力差の前にレイは為す術なく追い返されて地面に転がされるも、痛みなど感じないかのように笑う。
「シュウ! 今のお前は最高に醜いよ! 人を殺して、偽善の集団に入るところ、最高に似合ってるよ!!」
アハハハハ、と壊れたかのように、狂ったかのように嗤うレイに、狂気すら感じて後ずさるシュウはガリウスの背に隠れる。
止めに入った幻想師と入れ替わるようにして前に歩み出たガリウスは、その目にレイを映すわけでもなく、ただ憮然と言い放つ。
「小僧、幻想部隊を侮辱するのか」
その瞬間、幻想師が何を大事にして、何に重きを置いているのかが分かったような気がした。
彼らは、エネルゼアと言う威を借る獣に過ぎないのだと。
選ばれしその力でもって守るのは、人ではなく名前だけなのだと。
幻想師によって地面に体を押さえつけられた状態のまま、レイは思いの丈を叫ぶ。喉が裂け、血を吐いてまでも叫ぶのだった。
「はっ! 大層な名前、大層な力があって、どうして僕からも、姉さんからも奪うんだよ!! 僕と姉さんが何をしたって言うんだよ!? 返せよ……! 姉さんを、返せよ! 静かに生きようとすることの、何が悪いって言うんだ! 返せ! 姉さんを、返せ――ッ…………!」
だが、それが分かったところでレイに言語化する能力も、観衆を扇動する力も、ましてやガリウスが軽く繰り出した足蹴すらも止める力も無いのが現実であった。
ガリウスにとって、その子供は周囲をやかましく飛び回る羽虫と変わらないもので、ただ叩き落としたに過ぎない。
ガッ! と鈍い音を立てて軽く弾き飛ばされたレイは、鼻から血を噴き出し、口の中に鉄の味が広がるのも構わずに「姉さんを、返せ」と声を上げる。そのしつこさに、いい加減にしろ、とガリウスのこめかみに青筋が立つ。今すぐにでも聖王竜の竜気を還元し、生まれてくる我が子に捧げなければならない焦燥に駆られるガリウスの気は長くなかった。
「……度重なる幻想部隊への暴言、幻想師への侮辱。それらは全て、我らが真祖、エネルゼア様への冒涜と心得よ。主に変わってこの俺が、罰を下そう――」
一歩前に踏み出したガリウスは、腰に差した幻想師の象徴である剣、真剣を抜いた。
朝日よりも輝く真の剣は王者の剣であり、それを目にした人間は誰であれ感嘆の息を零すに違いないと思わせるほどの一品であった。
観衆のみならず、同じ幻想部隊の者からもざわつく声が上がる。レイを止めに入った幻想師からはガリウスを止めるような声がかかるも、ガリウスは聞く耳を持たない。
だが、ガリウスの剣が持ち上げられようとした瞬間、幻想師でさえも止められなかったガリウスの動きを止めるものがレイの目の前に現れた。
「――申し訳ございません、幻想師様ッ!! この子供は今目覚めたばかりで、錯乱している様子! どうか、どうかここは私の顔を立てる意味合いも込めまして、子供の戯言としてその剣先を収めてはいただけないでしょうか!」
全身から汗を吹き出し、見るもはしたない姿で地べたに手指をつけて這いつくばる、サオリおばさんの姿だった。
息せき切ってレイを追いかけていたとは思えない程に息継ぎなく謝罪の口上を口にするサオリおばさんの登場に、誰もが開いた口を閉じずにはいられなかった。
体は震え、息も上がったまま、大量の発汗は、見る者によってははしたない、見る者によっては笑い者、見るものによっては鬼気迫るものを感じさせる。
けれども、ガリウスの手は一瞬止まっただけで、怒りが収まる様子は無いまま、無慈悲な宣告が下る。
「貴様の顔を立てるだと? 調子に乗るのも大概にしておけ、女。貴様はゲンの妻だと言うから、生かしておいた。ゲンの顔を立てたに過ぎないのを貴様の顔だと? 分不相応なことこの上ないな。今ここで貴様ごと処断しても構わないのだぞ」
冷酷な目で見下ろすガリウスに対して、サオリおばさんは頭を下げたままの状態で動かない。
無言の抵抗とも言えるその姿勢は懇願に近く、ガリウスは剣を収めるでもなく、ただ背を向けた。
「その子供を連れてこの場から去れ。二度と俺の視界に入らぬよう教育を徹底しろ」
「寛大な処置を、誠にありがとうございます」
そう言って幻想馬車へと離れていくガリウスと、振り返ってレイを抱き寄せるサオリおばさん。
ヒジリと違って強く、乱暴な抱擁であったが、本気で心配してくれたのが分かる抱擁だった。
腕に抱かれながら「アカリもいる家においで」と泣き崩れるサオリおばさんにレイは空返事のまま、ヒジリが入れられているであろう馬車を注視していた。
レイはそう、まだ姉を取り返すことを諦めてなんていなかった。
「っ、レイ……ッ!?」
ガリウスの一声で御者が幻想馬に鞭を入れた瞬間、サオリおばさんの腕が離れて「帰ろうか」と立ち上がった瞬間を狙って、レイは走り出す。
シオもまた、レイ同様に諦めておらず、半身の意思を汲んでレイの前を飛んで馬車に近づいていく。
大きくなったシオがガリウスの横を無事に通り過ぎたその時、レイの眼前に光が走った。
「――え」
それは誰が上げた声か。観衆か、幻想師か、それともレイ自身か。サオリおばさんは口元に手を当てて顔を真っ青にしていたため違う事だけは分かった。
広場に鮮血が舞う。吹き出した血しぶきはレイの視界を赤く染め、燃えるような熱さと頭が割れるような痛みが遅れてやってくる。
「レイ――ッ!!!!」
その声は誰のものか。
仰け反った頭は支えることができずに重みのまま落ちていく。膝をついて崩れるレイの目には、血振りの仕草をするガリウスの姿があり、ここでようやく、ガリウスの一閃がレイの、自分の額を裂いたのだと気づいた。
「――言っただろう。二度と俺の視界に入れるな、と。幻想種は主よりの授かりもの、斬ることは叶わぬが、人は別。また、同じく幻想種を殺すことは致しかねるため、貴様は今より大罪人として追放の刑に処す。幻想師として、秩序を乱す者に主の制裁を下す。以上、異議のある者は」
幻想の森では半身の死がエネルゼアからの賜り物である幻想種も殺してしまうために、死刑と言う概念がなかったが、額に消えぬ傷をつけて追放すると言う極刑が存在していた。
秩序の守り手である幻想師に執行の権利が与えられているが、ここ百年余り、実際に追放刑を受けた者はいなかった。これはつまり、レイに対して、僅か十歳の子供に対して、ガリウスは極刑を発動したと言う前代未聞の異例な事態であった。
その異様な事態において、抜き身の剣を掲げて問うガリウスに異を唱えられる人間などおらず、唯一味方であったサオリおばさんも、あまりにも突然の出来事に理解が追い付かないでいた。
「こいつを、外へ連れ出せ」
その声に、いつの間にかガリウスの隣に立っていた牡鹿がレイの傍に寄る。
シオが必死になって額からとめどない出血を果たすレイに声をかけ続ける隣で、牡鹿は角を輝かせたかと思うと、レイとシオ諸共、瞬く間にその場から姿を消すのであった。
「――レイ……?」
遅れて広場にやってきたアカリは、その異様な空気と騒然とする観衆の中で泣き崩れる義母のもとへ歩み寄る。
「ね、ねぇ、ママ……? レイは、レイは、どこに行ったの……?」
だが、泣いてばかりの義母は答えられない。
その事実は、受け止めるには少し、少しばかり、重たすぎるものだったから。
「レイ、帰ってくるよね……?」
だから今しばらく、整理する時間が欲しい。
不安げに顔を見上げる娘を、放してなるものか、ときつく抱きしめる。
呆然とした時間は、消えた牡鹿が再び姿を現すまで続いた。
その間、グリンは残ったシオの残滓からシオの姿を探すようにきょろきょろとしていた。
しばらくして、牡鹿が戻ってきた時にはレイもシオも姿は見当たらず、家に連れ帰られたアカリにはサオリおばさんによって真実が告げられる。
その日から三日三晩、アカリは泣き続けるのだった。