10話 暗く淀んで、沈んでいく
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額を切り裂かれ、命が流れ出ていく感覚に恐怖を感じつつも、レイの心はどこか落ち着き払っていた。
昨晩、目の前で姉の命が消えていく時に感じた恐怖が大きすぎて、レイの中で自分の命が失われていくことが些細な事のように感じられてしまうくらいレイの感覚は狂っていた。
ほんの数瞬前に感じた頭に血が昇って赤く染まる視界が皮肉のように、流れ出る血液によって目の前が真っ赤に染まっていく。
それでも尚、走り去ろうとする馬車からは瞬き一つせずに目を離さない。
姉が、ヒジリが乗せられている馬車が遠のいていく中で、シオがレイを呼ぶ声だけがぼんやりと聞こえていた。
――あぁ、今度こそ姉さんは、奪われてしまった。
その現実を理解したと同時に流れる涙は絶望を乗せ、頬を伝う。
その一筋の涙が地面に落ちた次の瞬間、レイの鼻を馴染み深い草の香りがくすぐった。
「――!?」
その驚愕は誰のものか、レイには理解が及ばぬまま無抵抗に地面を転がされる。
――レイにとって、ヒジリは生きる目標だった。
生きる目標を、与えてくれた人だった。
レイにとって、それ程までに大きな存在だったと言うのに、自分の力が足りないばかりに、大事な存在を守ることすらできずに今こうして地面に転がっていることが、何よりも悔しくて、情けなくて。
額の痛みなんか忘れてしまえるほどに、絶望していて。
仰向けに転がされたレイは、血と涙で濁った視界のまま、わんわんと泣き喚く。
いつの間にか聞こえなくなっていた観衆の声も、サオリおばさんの声も忘れて、今度こそ、何もかもを失ってしまったのだと泣き続ける。
半身のレイが諦めを悟った瞬間、シオも心のまま泣き叫ぶ。
レイにとっては、最愛のヒジリを。
シオにとっては、敬愛のラナを奪われた。
その二人が、もう二度と帰ってこない、姿を見せない、微笑んでくれない、叱ってくれないのだと分かって、涙が止まらなかった。
その姿を傍らで見つめていた牡鹿が、レイを転がした蹄をその胸に乱暴に乗せて言葉を紡ぐ。
『……這いつくばるのを止めなさい。みっともなく泣くのを止めなさい。泣いたところで、失った命は返ってきません。その託された命は、そうやって悲哀に暮れるために授けられたものなのか、今一度考えなさい』
その言葉の最中、牡鹿はレイの額の傷を閉ざす。
それがせめてもの、自分にできる餞であると考えて。
それでいてあえて前脚をレイの胸に置き、ぐっ、と体重をかけられてレイの息が詰まる。
そんな中で、レイとシオはその言葉を受け、一瞬にして冷静さを奪われる。
お前が言うな、と。
自分たちから姉を奪った分際で、姉を語るな、と。
胸に芽生えた燃え盛る憎悪に、レイは今も零れ落ちる命を捧げて炎を燃やす。
それを一身に受ける牡鹿は、成長不足の子供の体からは信じられない程の抵抗力を覚え僅かにたじろぐも、牡鹿の首に伸ばされた手を見てそれを黙って受け入れる。
「――お前たちが、奪ったんだ!! お前たちが、奪わなければ、今日も、姉さんは……ッ!!」
だがしかし、牡鹿の首を掴む寸前、レイの体からは力が抜ける。
自分が今転がされている場所がどこかを悟ったからだった。
今自分が寝転がされた場所は、幻想の森の外周、霧の森であると知って、本来ならば今日はヒジリと共に来るはずだったことを思い出したがゆえに悲観に暮れ果てる。
そして、レイは改めて牡鹿を心の底から憎悪を込めて睨みつける。
ヒジリを、共にあるはずだった未来を奪った相手の幻想種に説法を説かれる屈辱は、血に濡れた怒りの形相は牡鹿程の幻想種ですらも退かせるだけの覚悟がそこにはあった。
『……これより貴方は罪過の童。疾く去れ。そして、金輪際二度と幻想の森に立ち入ることを禁ずる。次にその顔を目にした暁には、その額の傷では済まされぬと心得よ』
歯噛みするレイの声も聞き流す牡鹿は、淡々とした声音で言い放つ。
牡鹿の向く先、霧の濃い方は何があるかも見えぬまま。
そしてそこで、レイは初めて自分が追放刑にされたのだと知る。
その事実は以外にもレイはすんなりと受け入れられた。
それもそのはず、姉のいない生活など死んだ方がマシ……、死んでいるのと何ら変わらないから。加えて、自分の生きる場所に疑念を抱きながら生きるなど、ましてや憎むべき幻想師の庇護下など死んでも御免であり、上がる心拍数の中で答えを出す。
「――お前たちを、絶対に許さない…! 僕から姉さんを奪って、次は誰から奪うつもりだ!! こんな、こんな世界、滅びてしまえ!! 全部消えて、無くなってしまえ!!」
牡鹿が治癒した額の傷が再び開き始めるほどに叫ぶレイに、シオも加わって叫ぶ。
一度犯した罪は、何度だって繰り返す。いつか必ず、幻想の森は幻想師の手によって滅ぶだろう、と叫ぶレイとシオに対して、牡鹿は黙って子供たちを見据えていた。
子供たちから未来を奪うことが正しいのか。そうして得た未来に希望はあるのか。
牡鹿は自分の中で疑問を反芻しながらも、自身に与えられた職務を遂行する。
瞬間、今もまだ騒ぎ立てるレイの頭部目掛けて、竜気を込めた踏み抜きが放たれる。
レイの顔面の真横に突き立てられた蹄は地面を盛大に踏み抜き、その衝撃でレイの耳が痛い程に震える。予想だにしていない余りの衝撃を受けて驚愕の色を表情に浮かべるも、それでも尚憤怒の消えないレイ達に対して、牡鹿は本気で脅しにかかる。
『――次は頭を踏み抜く。罪過を背負うその意味を、体に刻み込め。理解したのであれば、私の視界から去ね。……それとも、私の手ずから送ってやろうか』
淡い光を放つ牡鹿の角は、神性竜種をも跪かせる竜気が立ち上り、レイよりもまずシオの怒りが恐怖にかき消され、続いてレイの歯ががちがちと震え出した。
竜気を扱えなくても、竜気は感じ取れてしまえるがために、レイの強がりはそれまでだった。
今までの見ないふりをし続けてきた恐怖がまとめて襲い掛かってきたかのような感覚に、牡鹿の足元から後ずさるレイとシオ。
牡鹿の角には、千年もの間高められ続けた竜気が宿ると言われ、数日前に体感したシュウのものなど及びもしない程の竜気を前に、レイの目には牡鹿が化け物に見えて仕方がなかった。それでも、レイの琥珀色の目には最後まで濁るほどの憎悪が残っていた。
遂に背を向けて逃げるように歩き出したレイに対して、牡鹿はただ黙って、その翡翠の眼から涙を流して見送ることしかできなかった。
幻想の森においては、家族の、血の繋がりがあまりにも希薄であった。
それは半身たる幻想種がいるためか、血の繋がりに大した重要視はされない。上級区においては生まれて間もなく賜った幻想種に応じて適した場所へ売り出される始末であった。幻想の森において最も数多い集団は家族ではなく、生きるために必要な繋がりを持った集団であった。シュウの家族は実際の血の繋がりはあったものの、息子は自身の利益のためとしか思っておらず、シュウ自身もまた自分が上に行くために必要な繋がりだとしか認識していなかった。
家族というだけで別人。そう言った認識が当たり前である幻想の森において、血の繋がりもない姉が命を懸けるほど愛した少年がどれだけ珍しく、どれだけ貴重な存在だったか、どれだけ美しいものかを、知る人はいない。
繋がりを尊ぶ子と、歯牙にもかけぬ無慈悲な大人。
例え同じ髪の色をした大人から別れを切り出されたとて、あの少年は姉のために走った。
その執念を、醜いと取る人しか存在しないこの森が、牡鹿には酷く薄汚れているように見えて仕方がなかった。
霧の向こうに消えたレイとシオを見送ったのち、牡鹿はゆっくりと頭を持ち上げ、昇る朝日に視線を向ける。
未来を映すと言われる牡鹿の翡翠の目には、朝日が昇る幻想の森が暗く淀んで、沈んでいくように映る。
昇る朝日は暗黒に染まり、これより暗くて長い、深い夜が訪れたようにしか、映らないのであった。
濃い霧の中を進む二つの影。
前に進んでいるのか、進んでいないのかも分からないこの状況で、レイは歩み出す一歩が重くなっていくのを感じていた。
――果たして、このまま進んでいって良いのだろうか。
そう感じながらも、レイは足を止めることはできない。
時折霧の中に響き渡る魔物の叫び声が、まるで断末魔のように聞こえてくる中で心落ち着ける暇などあるはずもなく、今はただ歩みを進めることでしか安寧は得られなかった。
それもまた、前に進めているのかどうかも怪しいのだけれども。
そして、今もまだレイの胸中を占めるのは姉を奪われた怒りのみであり、霧の中を先行するシオもまた同じ思いであった。
シオの背に浮かぶ光輪の翼に導かれるまま歩き続け、遂に霧が薄まる場所まで辿り着く。
「ふぅ、ふぅ……っ」
大量の血を流した後にこれだけ歩いたのだから疲労するのは当然として、しかしそれ以上に息苦しさに包まれるレイの異変にシオは気づいていなかった。
一刻も早く落ち着ける場所を探そうと先行していたシオが霧を抜け、レイとは反対に体の軽さを覚え始めた頃、突然シオの背後で倒れる音がした。
「レイっ!」
突如としてレイに襲い掛かったのは、得体のしれないレイの体を押し潰さんとする目には見えない圧力。そして猛毒を吸い込んだかのような呼吸困難に陥ってしまう。
そんな緊急事態に、シオは自分の口からレイと同じ言葉が出てきたことに気が付かない。
ヒジリが倒れた時と似た苦痛を感じるが、異なるのは半身であるシオが苦しんでいないと言う点。
多少の不快感を感じる程度のシオに反して、レイに襲い掛かった異変は時を追うごとに苛烈さを増す。
苦しさに藻掻くレイは、遂には体を押し潰され、肺の中身を全て押し出され、空っぽのはずの胃の内容物まで全て吐き出す。
「――ぁ、がはっ…!! ぅあ、あが…、おぼぁ――! がはっ、ぐふ……っ!?」
そして異変は体内だけに留まらず、レイの頭の中、脳みそまでかき混ぜられるような悍ましい程の不快感も襲い来る。
体中の穴と言う穴から汗が、涙が、涎が、血が噴き出す。
頭が割れる、叫びたいのに叫ぶこともできずに、ただ苦しみに喘ぐ事しか出来ない苦痛を前に、レイは狂ったかのように苦痛から逃れるため自分の喉を掻き毟る。
「――ッ!!」
ただ一人、レイの傍にいたシオだったが、シオは苦しむレイをその場に置いたまま、霧の外側へ、薄らと見える生い茂る森の中へと飛び去って行ってしまう。
地面に爪を立て、たった一人残された絶望感がレイの怒りを呼び覚ます。
牡鹿によって恐怖心と言う鍵をかけて封じ込められたはずの幻想師への絶え間ない憤怒が、憎悪がもう一度呼び起され、苦しみから喉だけに留まらず、閉ざされたはずの深い額まで掻き毟る。
地面には血肉が爪によって撒き散らされる中で、レイは幻想士への怒りをひたすらに積み重ねる。
――追放刑なんて、見せかけの地獄。
――簡単には殺さない、惨たらしい処刑法。
――どうして僕が苦しまなくちゃならない!?
――痛い、悲しい、苦しい、辛い、気持ち悪い、死にたくない!
――この苦しみも、絶望も、怒りも、悲しみも、恨みも、憎悪も、全て、幻想師のせいだ!
「――――――――――ぁ、ああああああああああああああああッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
喉が引き裂かれる程に憎しみが込められた叫び声に、森が騒めく。霧が歪む。空が震える。
レイの目はもう何も映さずに、ただ赤く染まった眼は、無意識に霧の方へと、自分の憎悪が向く方へと手を伸ばす。
辛うじて生きていると分かるものの、這いずりまわった地面は荒れて血肉が振り撒かれており、レイはただその命が尽きるまで、姉を奪った相手を恨み、憎み、呪うばかりで、苦しみから逃れることを捨てて確実に死に向かっていた。
自分の声が遠鳴りのように続く中で、最早魔物の領域に踏み込んだレイを呼び止める声が森の中に静かに、けれど確かに、レイに届いた。
「そっちに行ってはならぬ」
気づけば、レイはそのしわがれた声の主に抱き留められ、レイは抵抗することもなく大きな腕の中に収まった。
「……これはいかんな。落ち着いて息をするんじゃ。これがわかるか?」
レイの苦しみを即座に判別した声の主は、抱き寄せたレイのうなじに仄かに光る指先を当て、赤子に言い聞かすかのように優しく、穏やかな声で語りかける。
皮の分厚い、されど温かくて固い大きな手のひらは温かく、レイは言われるがままに呼吸を繰り返していくと、今まで感じていた苦痛が嘘のように消えていく。
そしてそのまま、薄れゆく意識の中でぼんやりと浮かんだ老人の穏やかな笑みと、その背から覗くシオの心配した様子に安堵する間もなく、ゆっくりと意識が落ちていくのであった。
「シ、オ……」
老人は、ぐったりとした少年を持ち上げ森の中を戻っていく。
その子供と言って差し支えない少年の額の傷と、その身に宿った身を焦がすほどの怒りと憎しみに息を飲みながら、自分の小屋へその少年と空を飛ぶ蛇を連れて行くのであった。
「小さな子供に、なんてモンを背負わせるのかのう……」
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