8話 世界で誰よりも、あなたを愛している
読んでいただきありがとうございます。
また明日、とアカリと別れた翌日、今日もヒジリは苦しそうにベッドの上で唸る。
落ち着くまで傍にいた後、シオに様子を見ていてもらうことを約束して農作業へ向かう。
――いつもの日常。
ヒジリの体調が悪くなっていく以外は、いつもと変わらない日常。
ただそこにヒジリの、大好きな姉の笑顔が見れないだけで日常から色が抜けたように退屈になる。
ヒジリはいつも、看病で迷惑をかけてごめん、と謝るのだが、レイとしてはその時間が、ヒジリと過ごす一分一秒が何よりも大切で、大事な時間だった。ヒジリの症状を宥める時間も、汗を拭く時間も、食事を共にする時間も全て、レイにとってはかけがえのない時間で、迷惑だなんて思ったことも無い。むしろ、レイの方こそヒジリのために何もできていないことを謝りたいくらいだった。当然、そんなことをすればヒジリは余計に思い悩むだろうからそんなことはしないのだが。
昨日思い浮かべた反省から、レイは姉の前では笑顔を常に見せるようになった。
姉が好きだと言ってくれた笑顔を見せれば、少しでも元気になってくれるようにというささやかな願いを込めて。
昼時になって様子を見に戻ると、ヒジリは静かな寝息を立てて眠っていた。
以前のように、揃ってご飯を食べる機会が減ったことで、ヒジリの言っていた同じご飯でも味が変わることを知った。
ヒジリと一緒じゃない食事の時間は、なんだか味気ないものだった。
「えっ、アカリ、寝込んじゃったんですか」
「昨日帰ってきてからね。何してたのか聞いても、教えてくれないし……、レイは何か知ってる?」
「い、いや……」
「そう。もう一回起きたら聞いてみることにするわ。はいこれ、今日の分ね」
「あ、ありがとう、ございます」
「こちらこそ、ごめんよ、レイ。最近ちゃんと寝れてないだろう? 明日は休みでいいから、しっかり休んでおくれ」
「は、はい! おやすみなさい」
「ん、お休みね」
たじろぐ気配を必死に隠すも、サオリおばさんは全てお見通しのような、察した顔をしていたため、レイは早々に退散する。
折角アカリが黙っているのに、自分が話してよいものかと葛藤しているうちに逃げの一手に追い込まれていたのだ。さすがは、長年ゲンさんを支えてきた女主人なだけはある。
煎じ薬が尽きそうだったと思い出すと、明日はシオを連れて薬草摘みをしないといけない。
もしヒジリが起き上がれるようなら、久しぶりに散歩するのも悪くないかもしれない。
そんなことを考えながら帰り道を歩いていると、見慣れない人影がレイを呼び止めた。
「お、おい、レイ――」
農業区に踏み入れることすら忌避していたはずの男、シュウが夕日を背にその手に小さな包みを持って立っていた。
レイが見ても分かるくらいには高価な包みで、昨日の今日で姿を見せるシュウにレイは訝しむ。
昨日のようにシュウの周りにいつもいるはずの取り巻きの姿はなく、シュウはたった一人で気味の悪い笑みを浮かべている。
対するレイも、昨日とは違ってアカリもシオも傍にはいない。
今ここで何が起こっても、レイは助けを呼ぶことができないのだ。
力の差がはっきりと分かれた今、レイは非常にまずい状況に立たされていた。
――全速力で戻ればサオリおばさんのところまで逃げ切れるか!?
なんて思考がレイの頭の中を占める。
そんなレイからは、シュウの表情は逆光、影になっていて読み取れない。ただ薄ら寒い張り付けただけの笑顔だけが、黒い影の中に妖しく揺れている。
俯いているようにも見えるシュウの姿は、まるで憑き物が落ちたかのように清々しくもあり、同時に何を考えているかもわからない不確定さを放っていた。
ゴクリ、と生唾を飲み込んだのはどちらか。
お互いに緊張を孕んだ空気を放ちながら、お互いがお互いの出方を伺う無音の中、先に動いたのはシュウの方だった。
「昨日は、ごめん」
「――ッ!?」
予想だにしなかった謝罪という形に、レイは一瞬だけ心臓が止まったかのような衝撃を受ける。
それは、昨日受けた蹴りの衝撃に加えて、頭を力いっぱい殴られたかのような衝撃。
さらには天から落ちてくる雷が全身を貫くような――、とにかくこれまでに感じたことのないくらい強い衝撃を受けたレイは、喉が機能を忘れたかのように言葉にならない息を漏らすことしかできなかった。
「――ぁ、ヵ、ぇ…………あ?」
本当に何が起こったのか分からなくなると、人は物事を正常に理解しなくなるのかと、レイは俯瞰しているかのように呆然とそんなことを考える。
「――ハッ!!」
そこでようやく我に返ったレイは、まっすぐに前を見つめたままのシュウに相対することができるようになる。
良く見れば、シュウは頭を下げる素振りは一切なく、ただ言葉を羅列したに過ぎないのだが、やはりレイとしては「謝る」ということを知らずに育ってきたシュウが謝罪を口にしたことだけでも驚きだと言うのに、ましてや頭まで下げられたらレイの脳みそは処理が追い付かずにショートしていたに違いない。
「な、なんの用……?」
今こうして言葉を口にできたのは、紛れもなくシュウが頭を下げずに誤った謝罪を見せてくれたからで、正式な謝罪をもらっていたら大変なことになっていたに違いない。
務めて冷静であろうとするレイを気にすることなく、シュウは話し出す。
「これまで、病人を抱えていたお前の凄さを思い知ってな。そんなやつに俺はなんて酷い仕打ちをしてきたのかと、自分を顧みる機会を貰った。そこで改めてお前に謝りたくってな。これまでの謝罪と、その詫びとして、この丸薬をやろうと思って足を運んだんだ」
それが心の底からの謝罪かどうかは、レイには分からない。
だが、レイが手を出すよりも早く、レイの手を取りその手に無理やり包ませようとするその態度は、どこか様子がおかしいことだけは分かった。
「ど、どうしたんだよ、その手を、放してくれよ、レイ」
「これ、なんなの。丸薬? 聞いたこと、ないけど」
「それはそうだろうよ。……こ、これは、だな、俺の幻想種が作り出した丸薬なんだ。どこにも売ってない」
「…………それで?」
「げ、幻想の実には断然劣るもんだけどよ、普通の薬よりも何倍も効くんだ。俺の幻想種はよ、幻想の実を生み出す幻想種と同じ系譜の幻想種でな、これも最近分かったばかりなんだ。これは、誰にも言わないでくれよ? レイだから、同じ病人を看病する者同士、協力してやらねぇと、ってわかったんだ。こ、これを機に、今までのことは水に流して、仲良くしようぜ、ってことなんだが、受け取ってくれるよな?」
「……シュウの幻想種を僕は見たことがないから、信頼することはできないよ。気持ちは嬉しいけど、ごめん」
「ま、待て! 待ってくれ!」
お人好しのレイをしても信用し切る事には拭いきれないシュウの違和感を前に立ち去ろうとしたレイだったが、焦ったような、緊迫感すら感じさせるシュウの叫びに思わず足を止めて振り返る。
そのシュウから伸びる影、夕日に照らされて自分の足元にまで伸びた影から除くのは小さな影法師。否、それは影から湧き出るような形で浮き上がり、半分ほど顔を出したところで止まっていた。くりくりとした大きな血のように赤い目は上目遣いでレイを見上げており、残る体はシュウの影に溶けているかのように全身が見えない。
生まれた頃から共に育つ幻想種は性格や物事の考え方が似ると言われているが、レイの足元に顔を出したシュウの半身は、シュウと言う人間の幼さを切り取ったかのように可憐な姿で、この状況でなければシュウの半身だとは到底信じられないような姿だった。
シュウの声にその半身が更に浮かび上がり、全貌が明らかになる。
そうして影が姿を象ったかのような少女の全貌を目にしてもレイが抱いた印象は変わることがないままで、レイの腰ほどの高さしかない幼い子供の姿にまるで毒気が抜かれたかのように足が止まる。
「……普通は人前に姿を見せるのを嫌がるやつなんだけど、レイに信じてもらうためには、こうするしかないと思って、な。俺は、お前と、お前の姉ちゃんを助けてやりたいだけなんだよ。この薬を飲んでくれりゃ、全部丸く収まるからよ! な? た、助かるにはこの薬しかねぇ、ってのはお前もよく分かってるはずだろ!?」
「…………」
幻想種は、何も半身たる人に絶対服従ではない。
幻想種にも自分の意志は存在するし、嫌なものは嫌と伝える術を持っている。シュウの幻想種が今まで人目に付かなかったのも、幻想種がそれを拒んだのだとすれば何かと辻褄が合う。
そして今、その意思を曲げてでもレイの前に姿を見せたと言うことは、シュウの言葉は信じるに値するものだと、シオと言う幻想種に全幅の信頼を寄せるレイは――シュウの言葉を信じてしまう。
「君の幻想種をがそこまでしてくれるなら、僕はシュウを信じてもいいよ。……その薬は、どうやって飲めばいいの?」
一度離れた足がシュウに近寄る。
シュウが思い描いた最良の結果に至ったのは、シュウが最後まで嘘を吐き続けたからだろうか。それとも、レイの純真すぎる心が招いたからだろうか。
シュウの幻想種、可憐な幼女の姿を模したそれは、感謝を述べて去っていくレイの後姿を見て口が裂ける。
ニヤリと歪んだ口は悪辣さを隠そうともしない笑みであり、その半身もまた、極度の緊張から解き放たれたお陰でカラカラに乾いた喉から熱い息を吐く。
最早そこにレイが信じた半身の意図を汲む幻想種などと言う幻想は存在せず、全ての幻想種が純然であるとは限らないのであった。
夕日に伸びる二つの影。
一つ結びだと疑われることのなかった幼女の髪が解かれ、分かたれた髪の先、ただの影に三本の蠍の尾が生えたことに、レイは気づかぬまま帰り道を急ぐのだった。
「ただいま、姉さん!」
「えぇ、おかえりなさい」
「――起きてて大丈夫なの!?」
「今日はなんだか調子が良くてね。それよりも、お腹が空いたわ」
「すぐに作るから待ってて!」
上機嫌で帰ってきたレイを迎えたのは、寝たきりだったはずのヒジリ。
車椅子で食卓に姿を見せるのは久しぶりで、その事実にも喜ばしくなってしまったレイは早々に夕食を用意した。
明日は休みをもらったから、体調が良ければ一緒に散歩しよう、と今までの時間を取り戻すかのようにして盛り上がった食卓は、あっという間に終わってしまう。
食事の時間が賑やかで楽しく、美味しいと感じたのは久しぶりで、レイもついつい食べ進める手が止まらなかった。
「今日も、あの薬を飲むの? お姉ちゃんはもう苦いのは嫌よ」
食後にそんな言葉を口にするのはいつものことで、こうして口に出す事でレイに同じ苦い薬を飲ませようとするのだ。
長いこと同じ薬を飲んでいると、その渋い苦味にも慣れてくるもので、とうに二人は煎じ薬を飲めない程苦い薬だとは思っておらず、普通の顔をして飲み干せるまでには慣れていた。
それでも飲み干した後の「苦いね」なんて言って笑いあう時間はなによりも幸せで、ここ数週間はレイにとって何よりも大事な時間でもあったのだ。
「それが、今日はなんと、新しいお薬をもらってきましたー!」
上機嫌なヒジリと揃ってテンションの上がったレイは、拍手をしながらテーブルの上で包みを広げる。
「こんな高そうなお薬、良く変えたわね。お姉ちゃんも見たことない薬だわ」
「もらえたんだ! 姉さんを助けたいって、幻想種の力で生み出したんだって」
「これは、どんな効能があるのかしら」
「幻想の実の系譜にある幻想種でーって言ってたよ? 絶対良くなるとも言ってた!」
「少し怪しいけど……。これで、レイと一緒に生きていけるのなら、私はこれを飲むわ」
赤い丸薬を手に、決意を固める姉に人肌まで冷ましたお湯を出すも、ヒジリはじっとレイを見つめたまま一向に飲む気配がない。
「飲まないの?」
これはヒジリのセリフだ。
どうやらヒジリは薬草の煎じ薬と同じで一緒に飲むものと思っていたようで、可愛らしくこてん、と首を傾げていた。
「飲まないのって……、数は限られているし、せめて姉さんが治ってからなら……」
「――飲まないの?」
「いや、これは姉さんの薬だから……。あぁ、そうだ、僕は煎じ薬なら――」
「……飲まないの?」
「ぅぐっ!! ……わ、分かったよ、飲む、飲むから」
姉に対して強く出れないのがもどかしくも、どこか心地よいものを感じるレイは、広げられた包みから一つ、丸薬を手に取る。満足そうに微笑みながら頷くヒジリの表情を見て、どぎまぎする気持ちを抑えるべく丸薬を口に放り込む。
「あぁそうだ、噛んじゃだめだからね」
「そう言うレイこそ、思いっきり噛んでるじゃない」
口の中に放り込まれた丸っこいものを噛まずに飲み込むことなど生まれて初めての体験に、レイは自分で言っておきながら丸薬を歯で磨り潰してしまう。嚙み砕く欲求にこらえきれなかったのだ。
ヒジリはレイの忠告通りに丸薬を白湯で飲み干しながら、自分で言っておきながらドジを踏んだレイに「まったくもう」だなんて微笑みかける。
煎じ薬とは比べ物にならない程の苦い味が口内に広がっていく中、自分でも焦ったのか額に汗が滲む。
慌ててぬるま湯で腹の奥まで飲み干すも、急激に襲い来る喉の渇きに一杯では足りないと体が叫ぶ。
だがしかし、二杯目を、と立ち上がったその時、レイの視界が歪み、全身から力が奪われたかのように立っていることも出来なくなる。
バタン、と音を立てて、レイの体は立ち上がることも叶わずテーブルにもたれかかるようにして倒れてしまう。
「レイッ!? レイっ、どうしたの――ッ!? ……ラナッ!!」
かひゅ、かひゅ、と自分でも呼吸ができているか分からない程に怪しいか細い呼吸音が絶え間なく続く。口が、喉が、体が空気を求めて呼吸を繰り返すが、レイの体は全身が麻痺したかのように指一本動かせない。
何が起こったのか分からないレイは、ただひたすらに呆然と血が滲んでくる眼球を動かす。忙しなく動く眼球はやがてヒジリを探して眼球だけを彷徨わせる。
――何が起こった!? ……苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい!!
感じたことのない苦痛に表情が歪むが、顔面の筋肉すら言う事を聞いてくれない。
体の奥で血管が締め付けられる。呼吸ができなくて苦しい。喉を掻き毟りたい。
突如として全身を襲った苦痛の中で、レイはただ、黙って血走った眼球を動かすことしかできない。
テーブルの上で、同じくシオが苦しんでいるのが見えるが、それに手を伸ばしてやることもできない。
――シオ、ごめん、苦しい思いをさせてごめん。
姉さんは大丈夫なのか、あの丸薬が、薬に何か、シュウが、あいつが、また――!!
体の中が傷ついていく感覚と共に、指の先から感覚が奪われていく。
テーブルの光景もやがて見えなくなって、自分の体がテーブルからずり落ちたことだけが分かる。
自分の体を蝕むその苦しみはまるで他人事のよう。
ただただ「助からないだろう」と言う事実だけは、しっかりと認識することができた。
「――ぇ…………ん゛――ね、ぇ…………!」
最後に愛する姉を呼ぶことすら叶わない中で、レイは動くはずのない腕を伸ばそうと必死になる。
「ラナ――っ、ごほっ、ごふっ!! ……真名解放――」
それでも、奮闘虚しく、下から見上げた姉が口から血を吐いた姿を最後に、レイは遂に聴覚と視覚を奪われた。
何もかもを奪われた世界で、ただ死を待つだけ、意識を失うのを待つだけだった時間の中で、突如としてレイの体を温かい何かが優しく体を包み込んでくれる。
「――レイ」
毎日聞いていた優しい声が聞こえる。
その声はどこか震えていて、潤んでいて。
包み込んでくれる感触は、温かさは大好きな姉の腕の中とおんなじで。
抱き返そうと腕を伸ばそうにも、帰ってくるのは空を切る感触のみ。
そうして覚醒していく意識の中で、一番最初に思い出したのは床の冷たさだった。
続けて、伸ばした手のひらに感じた温もりに目を開くと、その視界にまず最初に飛び込んできたのはレイと同じように横に倒れた大好きな姉の微笑んだ顔。
しかし、その顔は青く、口端には血の跡が残っている。
声を上げようにも、喉は締められたままか細い空気が吐き出されるのみ。かろうじて握られた手を握り返すことで精いっぱいだった。
何があったのか、何が起こったのかを把握するよりも先に、レイの耳にはヒジリの息遣いが、声が届く。
「――レイ、約束……、守れなくて、ごめんなさい……」
その声は、謝罪を口にしていた。
それが何を意味するかは分からぬまま、レイは「あ、ぁ」と言葉にならない声を上げて首を横に振ることしかできない。その状態のまま限界まで見開かれた視界に映ったラナの姿を見て、レイは最悪の事態に思い至る。
――声も無く、意識も尽きた状態で、ラナの白い体がヒジリの背後に落ちた。
「あ、ぁ……! あぁ――!!」
ヒジリは最後の力を使ってレイを助けた、助けられたのだと知ると、視界が涙で埋まっていく。声も出せない状態で咽び泣くレイは、ヒジリを繋ぎ留めようと必死で繋いだ手を握り返す。
それがもう手遅れだと知りながら、レイは必死でヒジリの生に縋りつく。
「レイ……、お姉ちゃんは、レイの笑顔が大好きよ……。だから、レイ――」
囁くように、消え行くような声で呟かれた声は、確かにレイに向けられた言葉。どこまでも優しい声音は、レイがヒジリに寄り添う時のように落ち着いていて、どこか寂しい声だった。
手のひらを包んでいたヒジリの手が、血の付いた指がレイの頬を優しく撫でる。
レイは最早、嫌だ嫌だと子供のように泣き叫ぶことしかできずに、声を張り上げる。
折角声が出せるようになっても、レイはまともに姉を呼ぶこともできずに、溢れて止まない感情のまま泣き叫ぶ。
「ぁやっ……だ! ぃや……ッ! ね、ぇざっ! な、んで――!!」
ヒジリも、レイが初めて見せたその姿に誘われた涙が溢れ出す。
体の自由が取り戻されつつある体を引きずって、ヒジリに近付こうとするレイ。
けれども、ヒジリにはもう、自分が助からない事が分かっていた。半身であるラナは最後の力を振り絞って息絶えた。彼女も分かっていながら、最期は笑って「弟のためだから」とヒジリに伝えてくれた。教えてくれた。残してくれた。
本来ならこの時間も与えられなかったはずの体に、ラナは自分の命まで使ってヒジリに時間を与えてくれたのだ。
この時間を使って、ラナの分も全部、伝えたいことも全部、伝えるんだとヒジリは自分のために泣いてくれる愛すべき弟、レイの目を見つめる。
――本当はずっと一緒にいてあげたい。レイの成長をこの目で見守りたかった。
たった二年、されどその二年は、ヒジリが過ごしてきた残りの十八年を遥かに上回るほど、楽しかった。
「…………これまでも、これからもずっと、あなたの傍で見守るわ。――世界で誰よりも、あなたを愛しているわ、レイ」
その想いも感謝も、全てをその言葉に乗せた言葉は、子を泣き止ませる母のようで、弟を愛した姉のように澄んでいた。
その言葉を最後に、頬に添えられた手が落ち、閉じた瞼はもう二度とレイの姿を映さない。
温かいと感じていた重なった手のひらも次第に熱が奪われていくようで、レイは今、大切な姉を失ったのだと理解した。
理解したと同時に、瞠目したレイの時が止まる。
加えて、レイの体を包んでいたラナの力が、泡が弾けるかのように消えていく。
ヒジリとラナ。二人を失った事実を前に、レイは限りを尽くして悲しみに暮れる。哀哭することでしか、自分を保っていられないから。
けれども、体が動くまで回復したレイに精神の疲弊から生じた睡魔が襲う。それは人体に備えられた最後の救命装置とも言えるもので、これ以上の精神的負荷はレイの心が耐えられなかった。
だが最後の最後。瞼が閉じる寸前に、窓越しに見えた人影にレイの意識は急浮上を図った。
――どうして、ガリウスと、シュウが、ここに……!?
しかし疑問も発見も意識を覚醒させるには遅く、既にレイの意識は眠りについていく。
それを確認したガリウス率いる幻想部隊の数人が家に入り込んでくると、最後まで繋いでいた手も、頬に触れていた手も離されていく。
眠りに入る直前、レイは気づくのだった。
――姉を失ったのではない。
――姉は、奪われたのだと。
真っ黒に染まっていく視界の中で、レイは意識を失うのだった。




