36話 その甘さが大好きだ
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本日四話目。
「ん……」
夢を見ることも無く、レイの意識は自然と覚醒していく。
体中が重苦しい感覚はまだ残ってはいるが、指一本すら動かせなかった気を失う直前と比べればずっと快調だ。
ぼやけた視界が見覚えのある天井をはっきりと映すようになると、自分が寝かされた場所がどこなのかも次第に分かってくる。
壁や天井に張り付いたヒカリゴケが薄らと照らす木の洞はファジーベアードの巣穴で間違いなかった。
先ほどからレイの体の上に張り付いて眠る子熊のぷいぷい、と鳴る寝息が熱いし重い。
子熊が無事であったことに安堵して気を失ったのは川辺で、運んできてくれたのは恐らく母熊だろう。子熊ではレイを持ち運ぶことなんて不可能だろうから。
子熊を体の上から降ろして辺りを見回すと、母熊の姿は無く、リュックと弓矢、矢筒がまとめて置かれているのが分かる。
布団のように被さっていた子熊がその場で丸まっていくのを微笑ましく見守った後、レイは巣穴から顔を出す。
深層では味わうことができなかった静かな夜に感動を覚えながら夜空を見上げ、半分程満ちた月を確認する。後数日、一週間もしないうちに、待ちに待った満月の夜がやってくる。その夜に満月草を採取できれば、グレイ爺とシオが待つ家に帰れるのだと思うと、僅かばかりの寂寥感を抱く。
深層にもっと居たい、とかそんな思いは無い。これ以上長くいたら、ここ一年で回復してきたレイの精神が再び擦り減って壊れてしまうだろうから。
それでも、ここまで来れたことの達成感と相まって、深層での経験は一人でもなんとかなる自信はついた気がするレイが、深層に入ってからの出来事を振り返っていると「ブモゥ」という鳴き声と共に母熊が月光の下に姿を現した。
思わず体を跳ねさせるレイだったが、母熊はレイの目の前に魚を置いた後に、レイの顔をベロンと舐めてから、巣穴に戻っていった。
レイを襲う素振りも無く巣穴に戻っていった母熊を入口の方から覗き見てみると、中では子熊を起こして捕まえてきた魚を食べさせている光景が見えて、あの時の母熊とは違うのだと強張っていた体から力が抜ける。
――あの時の母熊は、子熊を狙われた上に巣穴まで近づかれたこと、更には、数日間監視されていることに気付いていたが故に巣穴まで帰れなかったことのストレスが重なって、我を忘れるほどの怒りを抱いたのであったことを、レイは知らない。
ついでに言えば、レイが必死になるあまり無意識化で発動していた竜気による身体強化のせいで水生魔物が引き寄せられ、子熊が溺れかけたことも、レイは知らないし、これから先知ることもない。
完全なるマッチポンプであったことに気付かぬまま、レイはホッと息を吐く。
「みんな無事なら、それが一番だよね」
もしここにシオがいたならば、何も知らないレイに呆れた様子で溜め息を吐いて「知らない方がいいこともあるもんだ」と黙っているだろう。
母熊が置いていった魚を食べるために火を起こす。
気絶していたからか分からないが、魚を見ると思い出したかのように空腹を感じたレイは、魚の内臓を指で抜き取って串に通すと、中まで火が通るのをじっくり待つ。
この魚が、子熊を救ってくれた礼だとするならば、母熊は相当甘いと思わざるを得ない。
礼を尽くしてもらっている立場でそんなことを思うのは無礼であると分かっていても、ここは幻想の森でも無ければ人間社会でもない、食うか食われるかの森の深層である以上魔物として正しくあるならば、レイは川辺に見捨てるか、動けないところをトドメを刺すくらいの事が出来なければ、母熊はいつか身を滅ぼすことになるだろう。
自然の中では、思いやりも気配りも感謝も尊敬も、全てが無駄な要素になり、優しさはいつか自分の身を滅ぼしかねない。そう言った世界では相手を蹴落とし、利用し、貪ることができる魔物だけが生き延びる。
レイが見てきた深層の魔物達はずっとそうだった。双頭の魔物のように知恵のまわる魔物だって少なからずいる中で、母熊はレイを救った。
魔物の中には、傷ついたふりをして人に近づき、油断したところで襲い掛かる卑怯な魔物もいると教えられていた。深層では出会っていないけれども、もしも仮にレイがその魔物だったとすればこのファジーベアードの母子は殺されていた可能性があるだけに、魔物としての常識から外れているとすら考えられる。
魔物は、同じ種族であっても騙し合い、殺し合い、奪い合う姿を見てきた。
だからこそ、レイは巣穴の奥で母子の戯れを繰り広げるファジーベアードを甘いと言わざるを得ないし、同時に、その甘さが大好きだと、満面の笑みを浮かべてしまいたくなる程、嬉しかった。
「ン~~~、味は普通!」
彩色豊かな見た目とは裏腹に、単調かつ淡白な味だった。
グレイ爺と獲った時とは違って塩を振るという贅沢は叶わない。それでも、香ばしい焼き魚の味は空腹に唸るレイの腹を満たしてくれるには十分すぎるほどだった。
その夜は、疲弊しきった体を労わるために、母子の戯れを眺めて眠りについた。
レイにとっての親は、と聞かれたら、レイは真っ先にゲンさんとグレイ爺を思い浮かべるだろう。
ならばヒジリは? と聞かれるとレイはたちまち頭を悩ませてしまう。大好きな姉だったが、ヒジリは母親と呼べるかと言われたら、素直に頷くことは出来なかった。
確かに物知りだったし、頭も良かった。けれども、母親としてゲンさんやグレイ爺と並ぶかと聞かれたら、まだラナの方が母親と呼べるだろうか。
レイに明確な母親が存在した記憶は無く、母親がなんなのかもはっきりしないまま、結局、誰よりも特別な存在という答えに行き着いて、眠りにつくのだった。
目が覚めた翌日から、レイはファジーベアードの親子とともに数日間過ごした。
本当は満月の夜に向けて、満月草の近くで待機していようと考えていたのだが、子熊に泣きつかれてその日は一緒に遊ぶことに。
子熊と一緒に母熊の狩りを観察し、より深く自然と同化を果たすための潜伏の仕方を覚えると、子熊と一緒にかくれんぼをして遊んだのはシオにもグレイ爺にも言えない。
子熊と言えども、本気を出したファジーベアードを見つけることは叶わず、幼体相手に全敗を喫したことも黙っていようと心に誓う。
ファジーベアードのように体を景色に溶け込ませることは物理的に不可能な話だったが、レイもまた負けてばかりではなかった。
獲物に近づく際の母熊の歩き方だったり、息の殺し方、流石は深層の暗殺者と呼ばれるだけあって、姿を消されては気付くことはまず不可能だろうという程に慎重だった。
それを真似したレイが常に子熊の背後に尾けて立ち回ると、面白いように見つかることは無かった。
これは弓を射る上で役に立つやも知れない、と子熊相手に本気になったところで、本当にレイがいなくなってしまったと勘違いをして泣き出してしまった子熊の前に慌てて姿を現すまでがセットだった。
他にも、子熊を助けに向かった際の竜気による身体強化の感覚を思い出して、母熊に稽古をつけてもらった。
グレイ爺に教わった身体強化は、竜気のスペシャリストでもあるシオが傍にいて、シオが竜気の制御をしてくれて初めて発動できるものだった。レイ単独で使うには、レイ自身の持つ竜気がグレイ爺とは比べ物にならない程に多いのが理由であり、制御できていない状態で使うには暴走の危険があったために、使用は禁止と言われていた。
しかし、子熊を助けに向かったときのような完璧な制御ができるのであれば、使っても問題は無いのではないかとレイは考え、一人川辺で練習している時に母熊が稽古をつけてくれるよになったのだ。
母熊曰く、今回の事も踏まえて子熊に魔力の使い方を本格的に教える良い機会で、レイに教えるのはついでだ、と言っていたのを、レイはニュアンスで感じ取っていた。
「ブモゥ、ブモゥ」
子熊が魔力の操作練習に飽きて浅瀬で遊び始めると、代わりにレイの練習が始まる。
全身に魔力を通して身体強化を発動させる母熊の巨体は、更に大きくなってレイの前に現れる。
残念ながらレイは魔力を視ることも、感じ取ることもできない体質であったが、それでも母熊の存在がより色濃く、凶悪なまでに膨張しているのが分かる。
人の体では魔物のようにここまで肉体を膨らませるわけにはいかない。内側から魔力によって筋肉を膨張させているかのような身体強化とは異なり、竜気による身体強化は服に腕を通すような感覚で、竜気という鎧を纏う。
まるで違う感覚にレイは頭を悩ませるが、それでもあの時の感覚を母熊もまた感じ取っていたからか「それは違う」と頻繁にダメ出しを行う。
魔物は竜気に適応しないはずが、レイ以上に竜気に造詣が深い様子で何度も注意を示す。母熊には、母熊にしか見えない何かを感じ取っているのだろうか。流石は深層で縄張りを保つだけの実力。レイが隠れていてもすぐに見つけてくる嗅覚と勘の鋭さは伊達ではない。
母熊の勘に頼る練習法に則り数日間の練習に励むも、身体強化はうまく扱えるようにはならない。けれどもその代わりか、水面歩きがより丁寧にできるようになった。
歩いていても、走っていても、立ち止まっていても、レイの足に水が触れることは無く、落ち着いて竜気の放出、足場の安定化を図ることができるようになっていた。
成果としては地味なものだが、竜気をマスターするには必要なステップであることを理解しているため、レイは喜んで水面を跳ねて回った。
ファジーベアードが得意とする水流の操作で実現させる水中歩きと良く似ているからか、母熊は知らず水面歩きに関しての指導に重きが向き、結果として水面歩きの素養が伸びたのだろう。
しかも、竜気の放出は足元からだけでなく、放出するベクトルを変えてみれば手の平だって、頭だって、横に寝そべることだって出来るようになった。
全身に竜気を纏わせる行為こそが、身体強化の方法であり、水面歩きは既に身体強化と遜色ない程に洗練されてきているのだが、レイは喜びのあまりその事実には気付かない。
ぷおぷお、と喜んで跳ね回るレイの後ろを子熊が着いて回る様子を、母熊が穏やかな目線で眺めている。
母熊にとって、いつしかレイはもう一人の子熊のように見えて仕方がない様子だった。
子熊と水辺で遊び終えた日の夜、レイは再び耐え難い疲労感に襲われて意識を朦朧とさせる。
竜気の制御練習と言えども、魔物の控える昼の数時間程度しかこなしてはいない。普段の弓矢だったり組み手の練習であってもここまで浸かれることは無い。一日中動いていても問題ないくらいの体力にはグレイ爺も舌を巻くくらいには自信があった。
そんなレイが疲弊しきるくらい竜気は消耗するのだと、ようやく気付いたレイは、この疲労感は深層では命取りになりかねない、と危機感を募らせる。
だが、今さらになって昼間の練習は無かったことに、なんて言えるはずも無く、竜気の使用によって極度の疲労に見舞われるレイは引っ付いてくる子熊と共に眠りに落ちる。
魔力の使用もまた消耗が多いのだけれども、レイの竜気による消耗とはまるで話が違う。
子熊はただ遊び疲れただけの疲労に過ぎなかった。
その次の日、レイは竜気の練習はほどほどに抑え、雲の多い夜を再び迎える。
この日、レイはファジーベアードの巣穴を後にするつもりだった。
子熊が寝静まったのを確認して、リュックと弓矢を担ぐ。
シオンフロップタケも、竜鳳花も、アルバヒメタケモドキも、状態は良好、十分な量を確保しているのを確認して、子熊に別れを告げてから巣穴を出ていく。随分と懐かれたもので、眠る時はレイの体を枕にしてくるほどだった。きっと、目が覚めたら泣いてしまうだろうから、と匂いの染みついた服の裾を千切って置いてきた。
「グモァ」
巣穴を出てすぐ横に腰を下ろしていた母熊が『行くのか』と尋ねてくる。
出会いは最悪だったけれども、母熊は子熊を守るために必死だったのだと知ると、母熊の温かさを知った。
あの子が寂しくなる、と鳴いて額を擦り付けてくる姿は、どこか寂しそうで。
「きっとまた、帰って来るよ。だから、それまで、ほんの少しだけ、お別れだよ」
『ブモゥ』
「うん!!」
別れの合図にお互いが額をこすり合って微笑むと、母熊はべろん、とレイの顔を舐め回す。
くすぐったいよ、と言って最後にハグを返すと、レイは満月の夜に向かって歩き出していく。
お互いに言葉は理解できないが、それでも思いは行き届く。
そしてついに、レイは二度目の満月の夜を迎えるのであった。




