31話 儚い夢の旅路
読んでいただきありがとうございます。
本日五話目。
シアンフログは、表皮を剥いだ時点で食べようとは思えなかった。
そもそもグレイ爺からは、森の中では食べられるかどうかわからない物は絶対に口にするな、と厳しく言われているため、いかに肉付きの良い蛙の脚でも、紫色でいかにも毒があるような肉を食べようとは思えなかった。
空腹を感じているのに食欲がわかないこともあるのか、といつだって大食漢なシオに教えてあげたい話だった。
結局この日は、道中道草してかき集めた果実と小さな魔物の焼き串で空腹を誤魔化して眠りについた。
火を起こすのも、普通の外の人たちは魔道具を用いて一瞬らしいが、相も変わらずレイは原始的な方法で火種を生んでから点けるのだった。幻想の森の頃からずっとこうしてきたため、その手際の良さはグレイ爺を遥かに上回る速度であったが、魔道具を持ち出されてからは勝ち目が無くなっていたことを密かに妬んでいた。
とは言え、焚火でシアンフログではない他の魔物を寄せ付けては不味いため、簡素な夕食を終えると火種を踏んで消す。
既に夕暮れを過ぎ、直に夜が訪れる時間帯。
生憎、今夜は曇り空で月の満ち具合は分からない。
人が眠りにつく時間は、魔物が、森が目を覚ます時間でもある。
今から安全な寝床を探すには難しいと踏んだレイは、泥沼の周りはシアンフログ以外の魔物の気配が少ないため、仕方なく手ごろな木の洞に身を屈めて夜を過ごすことに決める。幸いなことに、シアンフログは敵意を向けなければ襲い掛かってくるようなことはないし、沼地から移動して獲物を探し求めるような真似をするような魔物では無いことを分かっていたから、考えようによってはこの場所が深層においては好条件の寝床なのではないかと思い始める。
少しばかり臭いがキツイのと、鳴き声の騒音を除けば、仮住まいとして定住しようかとすら考えていたのだが、その甘い考えは次の朝が訪れる前に脳内で却下される。
「――も、もうやだ、無理、帰りたいよぉ……」
明け方、目の下に隈を作ったレイが木の洞から耳を塞いでグロッキーな状態で姿を現す。
それもそのはず、夜が更けるにつれてシアンフログの鳴き声は重なりに重なり続け、ピーク時には目を瞑っている事すらできない程の騒がしさとなり、レイは夜の間中眠ることを許されなかった。
鳴き声だけでもうるさいと言うのに、夜行性のシアンフログ同様、夜に活発になる魔物達が沼を訪れては、激しい環境音がレイの身から安心感を奪い去って眠りについている場合などでは無かったのだから。
あまりの騒がしさに泥沼の方を遠目で見た時には、昼間とは打って変わって活発に動き回るシアンフログの姿が目に入り、その数は十や二十では数えきれないほどの量が動き回り、飛び跳ね、虫や魔物を蹂躙する様が見えた。
暗闇に光る無数の目、それらを反射させてヌらりと光る湿った巨体。そんな巨体を縦横無尽に飛び跳ねさせて魔物の体を引きちぎって丸のみにする姿は、本当に昼間自分が倒したシアンフログと同じ個体なのかと疑わしくなる程の光景だった。
そんな光景を目の当たりにしても安眠できるのは、恐らくグレイ爺くらいのものだろう。
当然そこまで図太くも無いレイが安心して眠るにつけるはずも無く、こちらに害が及ばないよう洞のなかで縮こまって震えて夜を過ごしたのであった。
夜に見た光景が嘘のように、朝になるとシアンフログは静まり返って微動だにもしなくなる。
もう二度とこの沼地には近づくもんか、と心に決めて、残り少ないジャーキーを齧って出発する。
夜に続いて曇り空の広がる朝に、一晩まともに眠れていない中で森の中を彷徨い始める。
昨晩は特に酷い夜だったが、レイにとってはその前の夜も引けを取らない夜だった。
心細さと、初めて感じる深層の夜の恐怖は、確かに昨晩のシアンフログの狂気の宴に比べればずっとマシだが、それを知らなかったレイにとってはあの夜も地獄のようなものだった。
僅か十一歳になったばかりの少年の体は、安住の地を求めて、幽鬼のような足取りで森の中を彷徨う。
幻想の森でも、睡眠時間を削って才能のなかった木剣を握ってはいたが、それでもしっかりと睡眠の時間は確保できていた。
それに対して、今の深層では、心細さに加えて恐怖を味わわされ、心休まるときが無い状況は比べ物にならない程に疲弊していた。
深層に踏み入れて僅か二日でこれ程に消耗していては先が思いやられてしまうが、弱音を吐きながらもレイは諦めることなく森の中を突き進む。食糧を求めて。
「フーッ、フーッ……」
――三日ぶりに晴れ間が見えた空模様の下、今日もレイは小型の魔物を仕留めて荒く息を吐く。
シアンフログの沼地を去ってから早三日が経過し、レイは深層での生活で極限状態に陥りかけていた。
最早少しの集中状態でもこうして息が切れるまでに消耗していたレイは、その日の食べ物を探すことで手一杯になり、薬草キノコは傍らでしか考えられなくなっていた。
身なりも汚れて、残り少ない食料は減っていく一方だった。
この間、見て分かる通りに、レイはまともな休息はとれておらず、昨日は食べ物が見つからなかったが故に水で空腹を誤魔化して過ごしていた。幸いにも、シアンフログの沼地以外の水場は豊富で、飲み水には苦労していないことが唯一の救いだろうか。
それでも、これまでに感じたことも無い飢餓状態に、追放された日の苦しみを思い出すかのようにあの日の怒りも思い出し、レイの頭はどうにかなってしまいそうだった。
肩に担いだ弓矢にリュック。荷物が重たく感じられるようになったレイの足取りは重く、シアンフログを前に浮かべていた笑みも、この三日間、一度たりとも浮かべてはいなかった。
そうして今日もまた物陰に息を潜めて眠ることのできない夜を過ごすのかと思うと、レイは笑みを浮かべて居られる余裕など微塵もなかった。
少しでも、少しでも落ち着ける場所を……、と彷徨い歩いていると、いつの間にか森を抜け、目の前には霧の壁が広がる場所に辿り着いていた。
「ここ、は……?」
魔物の気配は深層にいる限りは常につきまとうもので、この場所でも変わらず気配は感じられている。
煽れと同時に、今まで感じていなかったものまで感じられるようになった驚きにレイは目を丸くする。
「竜気……。じゃあ、これが、霧の結界……?」
いつかの災厄が蘇る――こともなく、レイはただ茫然と霧に近づいていく。
ほんの少し前まで限界に近い体だったのが、霧の結界を前にすると、レイは自然と足が前に進んでいく。
「姉さん――」
奪われた姉を呼ぶ声が聞こえる。
自分の口から出た声とは思えない程に幼い声に、霧の中で霧に向かって手を伸ばすも、何かを掴めることもなく、手の平はただ空を切る。
「……帰りたい」
そう言ってレイが向いた先は、霧の向こう、幻想の森の方向ではなく、シオとグレイ爺が待つ森の家の方角だった。
遂に限界を迎えた様子のレイだったが、ふとその足が止まって、足元に咲く赤い花が目に留まった。
それはどこか見たことのある葉の形をしていて、その場で葉をちぎって口に放り込む。
――それは青臭くて、舌を刺激する酷い苦味と渋み。けれど、確かに味わったことのある匂いと味だった。
「――姉さんの、薬草だ」
慣れた苦味は、郷愁すら思い出させる味で、知らず、レイの目からは涙が溢れてくる。
思い出しては、間違えるはずがない、と涙を流すレイ。これは、幾度となくヒジリと共に煎じて飲み干した薬草であり、これこそがグレイ爺が求める薬草キノコの内の一つ、竜鳳花だったのだ。
だが、ここでレイには一つの疑問が浮かび上がる。
なぜグレイ爺が求めるほどの効力がありながらも、姉には効果が出なかったのか、と。
しかしそれも全て、グレイ爺から渡された図鑑の一ページに記されていた。
――竜の鱗のように鋭く赤い花弁が咲き誇る時の『根』に最大の効力を持つ薬草。葉や花には微々たる効力しか無い。
この薬草自体ヒジリから教えてもらったものだが、ヒジリもまた『効能がある』という知識のみで根までは知らなかった。
剣の道同様に、自分はとんでもない勘違いをしていたものだと思うと同時に、レイはあの時にこの知識があれば、と失意に襲われ膝から崩れ落ちて泣き暮れる。
「あ、あぁ、姉さん……! 助けられたかも、知れないのに……!!」
剣の腕よりも、知識さえあれば救えたかもしれない。そう思ってもみなかった現実に、レイは打ちひしがれて泣き崩れる。
今まで考えることを拒否していた自責の念が突如としてレイの心を蝕み、意識が朦朧としていく。
レイの心のずっと奥に仕舞いこんだ考えが、自分の手で姉を殺めたかもしれないという現実が迫ってくる中で、レイは竜鳳花が咲き乱れる自生郡の真ん中で、無防備のまま意識を失うのだった。
――夢を見た。
夢に見るのはいつも、後悔ばかりが募るような幸せな光景。
レイの知識が、実力が、才能が無かったから奪われた姉との幸せな時間。
気にしない振りをしても、思い出さないようにしていても、眠る前になると必ず思い出す。
それはレイ自身が忘れたくない、と強く思っているから。それでも思い出すたびに涙が溢れて止まらなくなる。これまでの悪いことが全部夢で、起きたら、目が覚めたらまたヒジリがいて「おはよう」と額にキスを落としてくれるのを夢見て涙を流す。
何かに熱中している時は、そう言った悲しみからは目を背けられた。それでいいと思っていたから弓矢にも、竜気にも、体術にも、畑仕事にだって本気で取り組んだし、熱中できた。
でもそれは全部が楽しいからのめり込んでいるわけでは無くて、思い出したくない、思い出すと涙が出てきてしまうのを防ぐために、熱中していたに過ぎない。シオにも、グレイ爺にも嘘を吐いて過ごしてきた。
レイは、埋められない心の穴を、忘れようと必死で過ごしてきた。
『お姉ちゃんにはね、夢があるの』
ぼんやりと輪郭のボケた夢は、ヒジリの形をして、レイの記憶を再現する。
これはまだヒジリが元気だった頃の光景だ。窓から外を眺めて、儚く微笑む。
時折輪郭が曖昧に揺れているのは、この時のレイは微睡んでいたから。
早起きをして朝から動き回った幼い体は昼下がりのこの時間、眠くなってしまうのだ。同時に、何度も聞かされたヒジリの夢の話に、当時のレイは辟易した様子で耳を傾けていた。
そう遠くない頃に、この時間も何もかもすべてを奪われると知らない子供は、自分の睡眠を優先する。
そんな弟の頭を優しく撫でながら、ヒジリは庭で戯れる鳥の姿を眺めて口を開く。
『あの鳥が一体どこから来て、どこに向かうのか。名前も知らないあの鳥は、どんな生態をしているのか。――いつか私は、外の世界に出て、知らないものが無くなるまで旅をしたい、冒険がしてみたいの。レイと一緒なら、きっととっても楽しい冒険の旅になると思うの』
『ふぇ、僕も、いくの?』
『当たり前じゃない。これは、お姉ちゃんとレイの夢なんだから』
『勝手に決めないでよぉ、そもそも、外の世界なんて危ないし……』
『ううん、大丈夫。きっとレイと一緒なら大丈夫よ。シオも、ラナも一緒だから、きっと、大丈夫――』
ラナとシオを腕に抱いて、幸せそうに夢を語るヒジリの姿、夢は、夢の中のレイが夢に落ちていくと同時に意識が覚醒していく。
「……ん、うぅ」
土と汗に塗れたまま、悪臭が鼻を衝く。それが自分の体臭だと気付くのに時間はかからず、思わず頭を横に振る。遅れて感じる竜鳳花の香りに、ここが深層だという事を思い出して頭を上げると、目線の高さに現れたのは銀の峰に止まる数羽の鳥の姿。
それが夢でヒジリが見ていた鳥だと思うと、一瞬この世界こそが夢なのではないかと誤認してしまいそうになる。けれども、ここはぼやけた輪郭も無ければ、感じる夜風も、全身に残る生傷も本物だと理解できる。
――夜風?
不意にそう感じたレイが頭上を見上げれば、空は雲一つない夜空が広がっており、その真ん中には星野輝きすらも霞むほど煌々と輝く満月が大地に白銀の光を降り注いでいるではないか。
――白銀?
そもそも、魔物蔓延る深層でのんきに昼寝をかましたというのに、無事でいることがおかしい、と思い至ったレイがゆっくりと視線を降ろしていくと、それに合わせるかのように、鳥が留まっていた白銀の峰がむくりと起き上がり、冷たい印象を持たせる切れ長の双眸がレイを見つめる。
「――ッ!?」
途端、弾かれたかのように動いたレイは、これまでの疲労が嘘のように軽い体で矢を番え銀の毛並みを誇る魔物に鏃を向けた。
荒ぶる呼吸の中でも照準は外すことなく白銀の獣に定められていたが、この近距離であっても、レイには目の前の獣に矢が当たるイメージが浮かばないでいた。
むしろ、矢を番えた右手を離したとあれば、次の瞬間には自分の喉笛を嚙み砕かれる幻視すら見えてくるほどのプレッシャーを、目の前の白銀の獣は放っていた。
逆に言えば、こちらが手を出さなければ襲ってきそうにもない、魔物らしからぬ様子に、レイは自然と弓矢を降ろしていた。
白銀の獣が動こうとしないことも理由の一つではあったが、その背に乗って休む鳥の姿に、自然と弦を引く手がゆるんでしまったのだ。
――姉さんの、夢。
本当はその場しのぎで口にしたに過ぎない自分の信念だったのだが、今にして思えば、それが全てだったのだと自分でもわかる。
密かに復讐に燃えていたあの時とは異なる心持で、確かに芽生えたその夢を柱に、レイ白銀の獣と対峙する。
これまで出会ってきた魔物の中でもトップクラス、グレイ爺を前にした時のような迫力に押し潰されそうになりながらも、レイは決してその目を逸らすことは無く、白銀の獣がやがてレイに背を向けて去っていく。
空気の締め付けから、圧力から解放されたレイが深い深い溜め息を吐くと、どっ、と汗が溢れ出してくる。
白銀の獣は何が目的だったのか、それも分からないままレイの思考は頭上で光り輝く満月に吸い寄せられていくのだった。




