二人は幸せに過ごしました
ナージャと一诺は、国を出て東洋の方へと向かって転々としていた。
食文化や生活文化的に、そして紛れ込みやすさを考えての判断だ。
最終的には一诺も殆ど覚えていない程昔に居たという故郷、またはその向こうにある島国に行く予定となっている。
……多分一诺の故郷は中国とかその辺りで、その向こうの島国は日本、なんでしょうね。
手を動かしながら、ナージャは一人くすくすと微笑んだ。
今居るのは一時的な借家だ。転々としているものの、色々と学んだり文化を教わったりとかその他諸々を考え、こうなった。
あまり移動をし続けるのは肉体的精神的に疲労が強く、金銭的にもすぐ枯渇しかねない、という懸念もある。
……家事、やっぱり体が……いえ、体は覚えていないはずですから、魂が覚えてるのかもしれません。
一诺に教わり改めて色々と覚え直したナージャは、今日の家事を既に終えていた。
効率的なやり方を一诺が教えてくれたのも大きいだろう。
一诺が短期の仕事に出ている間、ナージャは家事をして、それを終えて時間が余れば今のように手を動かす。
そう、裁縫という仕事の為に。
……お裁縫得意で良かったです。
やっているのは、ご近所さん達から預かった服だ。
破れた部分やほつれた部分の修繕に、裾上げに、古着のリメイク。
昔ながらのデザインを今時にして欲しいとか、思い出の服が着れなくなったからリメイクして欲しいとか、下の子にお古として渡すけど折角だから少しデザインを変えてやって欲しいとか、そういう仕事をこなしている。
……何だかあの家を出てから、気を張らなくて良くなりましたね。
前は知らない人が目の前にいるだけでパニックを起こしそうな程のプレッシャーだったが、今は違う。
普通に会話が出来るし、勿論場合によっては警戒する必要がある相手も居るが、基本的には気を張らなくて良い人ばかり。
姓を捨て、一诺の妻であるただのナージャ、となったのが良かったのだろう。
「んと、これで終わりだから……時間余ってますし、ぬいぐるみでも作りましょうか」
修繕やリメイクが終わった服を畳んで持ち主別に分けて置き、安く仕入れた布を手に取る。
東洋の方だと、ナージャが作るようなぬいぐるみはあまり無いらしく、物珍しいのか結構手に取ってもらえるのだ。
まだぬいぐるみの収入で多めに布を買って前より多くぬいぐるみを作って、という程度なので余裕らしい余裕は出来ていないが、この調子で行けば安定していくだろう。
一時期在住するこういう町では無い、移動中に立ち寄る程度の村で売ったりもしているお陰で一定の需要もある。
まだ拙い出来という事もあって安価に設定しているのも安定した売り上げに繋がっているのかもしれない。
「……ご飯の仕込みは終わってますし、一诺が帰って来る時間を考えると……うん、もうちょっとぬいぐるみの方、進めてても良い感じですね」
時計の時間を確認してそう頷き、ナージャは手を動かしてぬいぐるみを完成へと近づける。
……まだ料理は設備とか味付けとか違うからか、他の家事に比べて覚えたりするのにちょっと時間が掛かりましたけど、最近は慣れてきました。
この調子で腕を上げて、一诺好みの料理を作れるようになりたいものだ。
そう思いつつ、ナージャは一诺の帰りを待つ。
・
一诺はナージャと共にあちこちを転々としながら、短期の仕事で路銀を稼いでいた。
移動費も結構馬鹿にならないし、かなりの期間移動を続けるというのは体力的にも精神的にも辛い。
それでは長く持たないと判断した為、あちこちを転々としながら東洋の方へゆっくり移動しよう、となったのだ。
短期間だけ借家を借りて、短期の仕事をして、休息と学びと金を得る。
……意外とナージャ様が馴染めたのは良かった。
短期の付き合いだから、というのもあるのだろう。
あとは家を出て、親が要らぬ気を利かせるせいで面倒事になるのでは、という懸念をしなくて良くなったからかもしれない。
すれ違う人間ですらもあれだけ警戒していたというのに、今のナージャはその様子も無い。
裁縫仕事の為という理由はあるのだろうが、思っていたよりもずっと肩の力を抜いた状態で人付き合いをこなしている。
……その理由に、俺が一役買えていれば良いんだが。
流石にそれは高望みし過ぎだろうかと思いつつ、一诺は仕事を終えた。
・
一诺が教えた通りに、寧ろご近所さんとの会話でアレンジなどを教わっているのか、教えた以上の出来に仕上げられたナージャの手料理に舌鼓を打ちつつ仕事や今後の事などを話していれば、あっという間に食べ終わっていた。
淡泊過ぎず濃すぎる事も無く、多くも少なくも無いがしっかりと腹に溜まる。
貴族だったとは思えない程に、ナージャは一般人らしい生活に馴染んでいた。
……食料の買い出しは一緒に行くが、中々にやりくりも上手い。
交渉で安くしてもらったり良い食材の目利きなどは一诺の仕事だが、路銀やらいざ東洋の方で腰を据えるとなった時の事を考えるとそう贅沢も出来やしない。
その為どれだけ少ない食材でしっかり作れるか、が問題となる。
特に貴族の場合、可食部についてが不勉強である事も多い。
しかしナージャは一诺が教えたというのもあるのだろうが、既に本などでそれらをしっかりと学んでいた。
普通なら捨てるだろう部分すらも美味しく仕上げる辺り、こういった系統が得意なのだろうとも思う。
……不便を掛けさせて申し訳ないとは思う、が……。
食べ終わった時の嬉しそうなナージャの笑みを見ると、勝手に感じたその申し訳なさが溶けていく。
……攻撃魔法が得意であるよりも、やりくり上手の方が、良いな。
ナージャの様子を見ていると、その方が合っていると思える。
ナージャ自身も、攻撃魔法が得意である事よりも、家事が得意であるという方が性に合っているのだろう。
実際ナージャは家計簿をつけていて、節約出来た部分を一诺に報告しては嬉しそうにするのだ。
あの屋敷では見れなかっただろう晴れやかな笑顔を見ると、今の暮らしがとても愛しいと強く思う。
いつだって今の暮らしが愛おしいと、ナージャという愛する者がいる以上当然ながらそう思うが、ナージャの笑顔がそこに加わると、より強い幸福を感じるものだ。
が、
「ナージャ様、座っていてください……!」
「いえ、でも洗い物がありますから」
「私がやります!」
自分が居ない時は手が回らない為仕方がないが、自分が居る時はあまりナージャに苦労を掛けさせたくない。
そう思い出来るだけ家に居る時は家事をやろうと思うのに、ナージャは一诺が仕事の間に家の中の仕事をほぼ全て完璧にこなしてしまっているのだ。
その上そつなくこなしてしまう為、油断すると自然な動きで家事を始め、気付いた時には終わっている。
……仕事で疲れているのもあるだろうが、これは油断なんじゃないだろうか……。
今後の事を思うと一诺一人が全てを担うのは駄目だろう。
一緒に生きるのだから、一緒にやらなければ。
しかしそれはそれとして一诺としては出来るだけナージャに不便なく生活して欲しいし、出来るだけ苦労を掛けさせたくない。
なのにナージャは今もまた、食べ終わったからと皿を流しの方に持って行きそのまま洗おうとした。
慌てて立ち上がった一诺はナージャに駆け寄り、既に袖を捲っているナージャを止める。
「でも、一诺はお外でいつも頑張って仕事をしてくれていますよ?」
袖を下ろす気を一切見せず、ナージャは不思議そうに首を傾げる。
「お仕事が無いと、お金が無くなっちゃいますからね。そうしたら懐が寒くなって、心まで凍えちゃいます。私はちょっぴりしか稼げませんから、短期なのにしっかり稼いでる一诺はとってもとっても凄いです」
……そう真正面からハッキリ言われると、少々恥ずかしいというか……。
一诺は少し視線を逸らしつつナージャの手を取って袖を下ろそうとするも、もう片方の手で止められた。
基本的に一诺の行動を拒絶しないナージャだというのに、何故こういう時だけ抗うのだろう。
……うわ、しかも謎に力籠ってるな……。
そんなに洗い物がしたいのだろうか。
そう思うくらいにしっかりとした力が込められている。
勿論一诺からすれば大した力では無いが、ここまでの力を出されるとどうしたものか。
「だから、私がこうやって、お家の事をするんです。私の為に、そして私達の暮らしの為に頑張ってくれてるんですから、私も私の出来る事をしなきゃですし!」
「それは喜ばしい事ですし、ナージャ様がそれだけハッキリと意見を言えるようになったのも嬉しい事ではあるのですが……」
拳を握ってにっこり笑うナージャの顔は愛らしいが、それでも譲れない部分はある。
「……ナージャ様、最近手が荒れていますよね」
「ああ……そういえば、そうですね」
一诺の手で袖を下ろす事を諦めて解放すれば、ナージャは自分の手を掲げてじっと見た。
白魚のようにたおやかだったその手はまだその姿を残しているものの、少しばかりカサついている。
「切らしていたハンドクリームを購入しましたので、私が洗い物をしている間にナージャ様はそちらを」
……ナージャ様の肌に合う物が中々見つからなかったせいで間が空いてしまったが、これなら手荒れも治るだろう。
大事な宝であるナージャの手を荒れさせてしまうなどと思ってしまうが、それはこうやって回避すれば良い。
ナージャの持ち物や一诺の今までの貯金、そしてカーナが寄越してくれた物のお陰でかなり余裕はあるものの、今後の事を考えて無駄な事にお金は使わない、と二人の生活内でルールを定めている。
が、これは必要経費だろう。
自分のせいでナージャの美しさを陰らせるなど、あってはならない。
「んー……」
ナージャは小さく唸り、一诺を見ながら困ったようにはにかんだ。
「……私、ハンドクリーム系とも相性が悪くて、結構大量に出しちゃう時がありますよ?」
「…………そういえば、そうでしたね」
だからそういったケアは全て一诺が担当しているのだった。
今も髪を乾かしたりは、一诺の仕事だ。
何度かチャレンジした結果ナージャはタオルなどで髪の水気を取って乾かすという事は出来るようになったが、ナージャの髪は長い。
時間が掛かると体の弱いナージャでは風邪を引きかねないから、と一诺が今も担当している。
もっとも、ナージャの髪は自分が乾かしたいという、そういう気持ちが無かったとは言えないのだが。
「では後で塗りますから」
「ちゃちゃっと洗い物終わらせますね!」
「違います私がやりますナージャ様は座っていてください!」
「むぅ……」
屋敷に居た頃は想像も出来ない程表情豊かになったナージャは、頬を膨らませた。
元々一诺の前では表情豊かだったナージャだが、最近は前よりもずっと表情の変化が多い。
どもったり言葉を飲み込んだりも少なくなり、声が張れるようになっているのも良い傾向だ。
「一诺、ずっと私を様付けですね。私はもう一诺の奥さんなんですから、そろそろ呼び捨てにしませんか?」
……良い傾向ではあるが、少々、こう、破壊力が強過ぎやしないだろうか……!
上目遣いで言われると否応なく屈しそうになるが、そういうわけにもいかない。
「いえ、ナージャ様はナージャ様です」
「私はもう貴族でも何でもありませんよ」
「……私からすると、呼び捨てなど、とても」
「奥さんでも、ですか?」
「あなた以外を妻にする気などありませんし、あなただからこそ呼び捨てにするなど出来ないんです」
正直あまりに恥ずかしいので言う気は無かったが、ここは言わなければ見逃しては貰えないだろう。
「……あと、想像するだけで、ええ、気恥ずかしさが来ますので、どうか堪忍していただけると……」
「………………」
少しの無言の後、ふぅ、とナージャは息を吐いて眉を下げた笑みを見せた。
「仕方がありませんね」
「……すみません」
「いいえ、そこまで想っていただけるというのは嬉しいですよ。特別だからこそ呼び捨てにして欲しいと思いましたけれど、特別だからこそ呼び捨てには出来ない、というのもあるでしょうから」
価値観の相違をそう飲み込んで、ナージャは笑う。
「でも、いつかは名前だけで呼んでくださいね。近所の子供達がナージャ様で覚えちゃったから、その子達に会うと毎回様付けで呼ばれるんですよ」
「良い事です」
「うーん……」
ナージャは首を傾げていたが、一诺からすれば良い事だ。
理解せずに敬称をつけているのだとしても、ナージャが敬われるのは何だか嬉しくなる。
「では、洗い物は私が」
「……明日からはまた私がやりますからね」
「いえ、私が居る時は私が」
「この家は一诺と私の家なんですよ」
眉根を寄せて、ナージャはそう言った。
「それだと一诺が休めない家になっちゃうから、駄目です。私は仕事の合間に休んだりお昼寝したりしてるから大丈夫ですけど、一诺はそうじゃないんですから、家に居る時はちゃんと休んでください」
「私があなたに尽くしたいんですよ。仕事をするだけでは到底足りない」
「私の髪を乾かしたり、ハンドクリームを塗ってくれたり、お肌の保湿をしてくれたりとか、ありますよね。それも日常的に」
じ、とナージャは上目遣いで一诺を見つめる。
「それは、尽くしてるに入らないんですか?」
……入る、よなあ……。
「…………降参です」
「やった!」
肩を落として口だけで笑えば、ナージャは嬉しそうに飛び跳ねた。
「ですが今日の洗い物は私がしますよ!」
「わかりました!じゃあ明日からは私にちゃんと任せてくださいね!」
「……はい」
ナージャにさせるのはまだ少々抵抗があるものの、そんなに嬉しそうな顔をされては、自分の勝手な願望を押し通す事など出来なかった。
・
洗い物を終えた一诺は、ナージャを後ろから抱えるようにしてその小さな手にハンドクリームを塗っていた。
……温かい。
一诺の足の間にすっぽりと収まるその姿。
ナージャの頭に顎を乗せるような勇気も度胸も無い為少し背を丸めてナージャの肩上に顔を寄せているが、こうも密着するというのは、どうにも。
……いや、寝る時は同じベッドで寝ているが。
それでもこう、好きな人を包み込めるような抱き締め方をして、その甘い香りに鼻をくすぐられるというのは、どうにもクるものがある。
幸い一诺はナージャの許可無く手を出せるようなタイプでも無いし、やたらと自制が効くので問題は無いが。
「ふふ」
「?」
指の一本一本、丁寧に塗り込んでいると、ナージャが笑みを零して少しだけ身を揺らした。
「……こういう時間、素敵ですね」
「……そう、ですね」
嬉しそうに目を細めるナージャを横目でチラリと見てから、一诺はナージャの手に視線を戻す。
……気を抜き過ぎた、だろうか。
カーナが色々と暗躍して上手い事やってくれるだろうと思っても、万が一というのはある。
追っ手が居るだろう事を思うと、気を抜いていてはいけない。
そう思うものの、己の前にある柔らかな温もりに、一诺は思わず頬を緩ませていた。
・
ナージャは、お風呂上りが好きだった。
正確には一诺のお風呂上りが、だ。
……屋敷に居た時だと、見れませんでした。
一緒に食べたりは時々したが、こうしてお風呂上りだとかを見た事は無かった。
血色が良くなった頬や濡れた髪、湯気を放つ姿など、とても生きている感じがしてドキドキする。
生活感、と言うのだろうか。
一緒に生活しているのだというのを強く感じられるこの時間が、ナージャはとても好きだった。
「一诺」
「はい?」
「こっち、来てください」
「?」
手招きすれば、一诺はよくわからないという表情でナージャの隣に座った。
そんな一诺に少し身を横に向けて貰い、濡れた髪にタオルを被せる。
「な、ナージャ様!?」
「タオルで乾かすっていうのは、出来るようになりましたから。乾かしますよ」
「いえ、あの、自分でやります!見苦しい真似を」
「私がやりたいんです」
立ち上がろうとする一诺の肩をぐっと抑える。
……正直私、髪を乾かすのとかとても下手くそですけど……。
しかし最近、タオルで髪の水気を取るだけなら出来るという事がわかった。
それに加えてタオルに火魔法の応用で軽く熱を持たせれば、乾く速度が速くなる。
……私、火魔法も得意で良かったです。
上手い具合に調節出来る。
そもそも移動時なども、火を点けたり水を出したり獣から逃げる為に追い風を吹かせて馬車の速度を上げたりなど役立っているので、良い事だ。
前は人を傷付けるだけの攻撃魔法が得意などただ悩みの種にしかならなかったが、場所を変えればこうして役立つ。
新しい発想と出会えるというのは、素晴らしい。
……こうして好きな人と一緒に暮らせて、好きな人の知らない一面を知れて、好きな人の世話を焼けるっていうのも、嬉しいですね。
一诺はどうしても委縮しがちだが、申し訳ないというだけで嫌がってはいないのがわかる。
だったらこうして、やりたいからやらせて欲しいと頼んで、ゆっくり慣れさせるだけだ。
……私ばっかり甘えるんじゃなくて、一诺も私に甘えられるようになれば、最高です。
そう思いつつ、ナージャは熱すぎないよう調整したタオルで一诺の濡れた長い髪を優しく拭う。
「……すみません、ナージャ様」
「どうして謝るんですか?」
「ナージャ様に髪を乾かさせてしまうなど……」
「これは、私がしたいって言って、させてもらってるんですよ」
タオルで覆って、ぎゅう、と後ろから抱き締める。
すり、とタオル越しのその頭に頬擦れば、まだ濡れている髪に触れた胸辺りがちょっぴりひんやりとした感触を伝えて来た。
……ふふ。
当然の事なのに、何だかそれが楽しくて、思わず笑みが零れてしまう。
一诺のビクリと震えたその動きも、笑みの理由の一つだ。
「な、ナージャ様、私の髪は濡れていますから風邪を引いたら……」
「それを言ったら、髪を濡らしたままの一诺の方が風邪を引く可能性は高いですよ」
「私は体が強いから大丈夫です。ですが、ナージャ様は……」
「大丈夫です」
一旦身を離し、再び手を動かして一诺の髪を乾かし始める。
「私の体の弱さは心因性のものである可能性が高かったですし……他よりは弱いかもしれませんけど、今までに比べれば、結構大丈夫のはずですよ」
「ですが」
「実際、ここまでの旅路の途中で熱を出したりしない辺り、その証明は出来てると思いませんか?」
「…………確かに、そうですね」
そう、ここまでナージャは具合を悪くしたりしていない。
移動生活の為、生活にかなりの変化があるのに、だ。
それに納得したらしい一诺は、笑みが混ざった吐息と共に力を抜いた。
「ああ、ですが」
「はい?」
ぽつり、と一诺が呟く。
「……こうも恵まれた生活をしていると、もっと求めてしまいそうになる」
・
膝を抱えて小さくなりながら、一诺は言った。
「ナージャ様は私の物だと勘違いして、必要以上に求めてしまいそうです」
……恵まれるのは良い事だが、過ぎた恵みは傲慢や怠惰を招きかねない。
自分がそうならないとは言い切れず、膝に顔を埋めて一诺はそう思った。
「あは、おかしい事を言うんですね、一诺は」
温かいタオルと水魔法の応用で一诺の髪の余分な水気をしっかり取ったナージャは、タオルを置いてそんな一诺の背に抱き着いた。
細い腕は一诺を一周出来ない為、肩を抱く。
背中に温もりと、むにゅりとした柔らかい感触が来た。
「私は最初から一诺にだけ心を許してました。そして一诺に攫ってもらって、こうして一緒に居るんです」
ぎゅう、と密着度が上がる。
「夫婦として、一緒に居るんです」
風呂上りだというのに、その温もり、感触、耳元での声に一诺はぶわりと汗が噴き出た。
「だからもう既に私はあなたの物で、あなたも私の物ですよ」
……耐えられん……!
一诺は近くに置かれたタオルを掴んで顔に押し当て、膝を少し開いてその間に頭を突っ込んだ。
少しでも小さくなりたいくらい恥ずかしい。
……いや、とても嬉しいし、嬉しくて、嬉し過ぎる程の言葉だが、耐えられない……!
喜びには限界値があり、それを超えると羞恥が何だかとっても凄い事になるのだと、三十目前で一诺は知った。
「あは、流石にちょっと、恥ずかしいですね」
その声に視線を向ければ、ナージャは頬を染めて照れ臭そうな笑みを浮かべていた。
「……いえ」
「わ」
恥ずかしそうな顔に、その笑みにドクリと胸が高鳴り、顔を上げた一诺は衝動のままにナージャの腕を引く。
身を少しずらして体勢を整え、倒れるナージャを自分の胸で受け止めた。
「…………とても、嬉しいお言葉でしたよ」
言って、ぎゅう、と抱き締める。
前までであれば、自分などが抱き締めるなど、と思い出来なかった。正直言って今でもそう思うが、しかし、今は抱き締めても良い関係なのだ。
抱き締めても良い自分なのだから、抱き締めたいと思った時、抱き締めても良いだろう。
……勿論ナージャ様が抵抗するようならしないが……。
「……えへ」
一诺の腕の中で、ナージャは嬉しそうに微笑んでいた。
その笑みに安堵し、同時に胸の奥がきゅうんと締め付けられ、多幸感に包まれる。
「一诺」
「はい」
「沢山求めて、良いですからね。私も沢山、求めますから」
「……そうですね、ナージャ様はもう少し求めた方が良いかと」
「一诺がちゃんとお願いを言えるようになったり、頼れるようになったり、何かある時に求められるようになったら考えます」
……はは、敵わないな。
いつの間にか、支える側から支えられる側になっている気がする。
否、これは気のせいではなく、事実なのだろう。
……けれど、ああ……家で待っていてくれて、そして色々と支えてくれているのは事実なのだから、それで良いのか。
ナージャに支えて貰うに足る人間になれれば良いが、と思いながら一诺はナージャを抱き締める腕の力を少し強めた。
「…………ふふ」
耳をくすぐるように、ナージャの笑みが聞こえる。
……ああ。
見えるナージャのうなじには、チョーカーがあった。
いつもの、あのチョーカーだ。
……大丈夫、まだ耐えられる。
油断すると衝動のままにナージャを求めそうになるものの、強い自制のお陰で耐えられる。
チョーカーが無ければうっかりそのうなじに噛み付きそうに、否、傷付ける気は無いからキスくらいだろうが、それでも無断でそんな行動に出そうだった。
が、しかし耐えられた。
ならば今後だって耐えられるだろう。
……理性を失えば、信頼も、今の幸せな関係も失うかもしれない。
夫婦ならばとも思うが、十以上歳が離れているのだ。
ナージャはその辺り気にしないようだが、体格やらを考えてもそれではいそうですねと言えるはずがない。
だから、耐える。
ぎゅうと強く抱き締めて、満たされて、満足する事で、それ以上は求めないように。
……いつか、ナージャ様がそれらを許してくれる、その時まで……。
欲望に負けないようにしなくては、と一诺は目を伏せた。
・
ナージャは一诺に抱き締められながら、己の身を包むその温もりに笑みを零していた。
抱き締めは強いものの、そのお陰で密着度が上がり、よくわかる。
接触している部分の体つきだとか、体温だとか、形だとか、心臓の音だとか、そういう色々がわかるから、こうして強く密着するのはとても嬉しい。
「あーあ、コイツ無意識だから面倒臭ぇんだよな」
キリキリカチャカチャ。
ふと、遠くから。どこかから聞こえる歯車の音と共に、ここでは無いどこかのような、まるで窓や壁越しのような声がする。
「一応助言しとくけどよ、ソイツ、お前からの誘い……つまりオネダリっつーの?それがねーと動かねーぜ」
耳栓越しの遠い音のような、そんな声。
「そのまんまだとお互いクッソ長い間焦らされる事になっから、お前が腹括り終わったらさっさと押し倒すくらいしちまいな。その方が話が早いし、お互いにぐだぐだ悩まず済むんだからよ」
やたらと無機質で棒読み染みたその声はそう言い、そこからは何も言わなくなった。
先程聞こえていた歯車の音も、気付けばもう聞こえない。
……神のお声とかお告げとか……そういうもの、でしょうか?
よくわからないが、そんな気がした。
……んー……確かに一诺、基本的に私が言わないと動いてくれないんですよね。
抱き締めるのだって、最初は中々してくれなかった。
ナージャを守ろうとする時やナージャ自身が求める時ならともかく、一诺からは求めないのだ。
否、一応求めてはいるらしい動きをするが、抱き締める前にフリーズする。
……いざという時は私から、ですね。
多分神のお告げだろうし、神がわざわざ言うという事は産めや増やせやとか、そういう系統だろう。
つまり、そういうお誘いについての助言だ。
何となくではあるが、ナージャはそう確信した。
……実際一诺、結構な恥ずかしがり屋さんですから、自分からそういうお誘いはしてくれなさそうですし……。
というより、二回目三回目ともなれば自分から言い出す事もあるだろうが、初回は確実にナージャの許可待ちになる気がする。
流石のナージャだってそのくらいは察する。
十年以上の付き合いがあり、そしてこうして二人きりで生活していれば、その程度わからないはずもない。
……うん。
「一诺」
「何でしょう、ナージャ様」
「大好きですよ」
……出来るだけ、正直に感情を伝えていきましょう。
やっぱりまだ多少の照れはあるが、照れのあまりそういった言葉が紡げない関係になっても困るのだ。
安売りは良くないが、好きだと思ったら好きだと告げるくらいは良いと思うから。
そうやって、少しずつ少しずつ、距離を縮めていこう。
……そうやって慣らしていけば、好きって言う分だけの幸せがありますよね。
そう思い、ナージャは一诺の首に頬を摺り寄せた。
大好きだと告げたり、今のような動きをするとまだ慣れないのか一诺の体がビクリと跳ねるが、しかしすぐに慣れるだろう。
触れる時の一瞬の躊躇いもだんだん少なくなってきているから、ナージャに触れる際の躊躇いが無くなるのも、時間の問題。
「……私も」
耳元で、一诺が小さく囁く。
「私もナージャ様の事が、大好きですよ」
「……えへ」
それはとっても嬉しい言葉で。
この生活も、この温もりも、この安らぎも、全部が全部、家を捨ててから手に入れたもの。
家を捨てなかったら手に入らなかったもの。
……間違わなくて、良かったです。
きっとこれが正しい道。
腕の中から溢れる程のその温もりを抱き締めながら、今の幸いを手に入れる事が出来て良かったと、ナージャは強くそう思った。
……幸せ、ですね。
今が幸せ。
そしてここから、この先ももっと幸せになるだろう。
その未来を手にする為にも頑張らないと、とナージャは笑った。
一诺の腕の中で、幸せな感情のままに笑っていた。
めでたしめでたし。




