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一诺は幸いを得る



「別に、そう警戒しなくても良いんだけど」



 ナージャを抱き締めながら警戒を見せる一诺(イーヌオ)に、カーナは溜め息を吐く。



「それよりも姉さんと一诺(イーヌオ)に、これ」



 ……!


 近付こうとしたカーナに、一诺(イーヌオ)は思わず敵意を向けた。

 それ以上近寄れば敵と見做すと思いながら警戒を強めると、それに気付いたらしいカーナは何とも言えない表情で立ち止まる。そのまま困ったように眉を顰め、手の中の物を投げて寄越した。

 一诺(イーヌオ)はソレを片手でキャッチし、確認する。


 ……ペンダント、か?



「……これは?」


「俺の魔力を込めて認識阻害に特化させた魔道具。ペンダント型になってるから、首から提げるだけで効果は出るよ」



 カーナのその言葉に、一诺(イーヌオ)の腕の中に居るナージャが首を傾げた。



「認識阻害?」


「そう」



 ……認識阻害は、これから屋敷を出ようとしている身としては確かにありがたいが……。


 それはまあありがたい。

 一诺(イーヌオ)は基本的に魔法が不得意であり、まともに扱えるのは追跡魔法のみ。故にこそ追跡魔法を可能な限り極めたが、その他はまるでからっきしなのだ。

 つまり気配を薄めたり上手く認識出来ないようにしたりという闇魔法も不得意な為、どうやって追っ手を撒くかという問題があった。


 ……逃げさえすれば吝啬鬼(リンスェァグゥィ)な分家は追うのを諦めるだろうが、本家の奴らは娘を取り戻す為に追っ手を用意するだろうな。


 何せ本家当主と奥方は、娘も息子も溺愛している。

 娘であるナージャからすればその溺愛の仕方が合わな過ぎる為苦痛でしかないが、彼らからすれば大事な大事な娘なのだ。そう思えば、確実に追っ手が来るだろう。



「…………んー」



 カーナは首を傾げる。

 その表情はいつも通りで、いつも通りに底が見えない。何を考えているかわからない眠そうな半目には、どんな意図が込められているのか、わからない。

 追跡魔法の応用でペンダントに魔法が仕込まれているのは確認したし、確かに認識阻害系の魔法なのだろう。


 ……何ならこれは、切り替えれば認識不可……つまりは誰にも認識されない状態にもなれるだろうが……。


 勿論そっちの効果はそう長くは持たないだろうが、重要なのはその効果自体。

 認識阻害ですら闇魔法では高難度の魔法とされている。自分自身の影や気配を薄める程度ならともかく、それを魔道具に仕込む。それも闇魔法を得意としている者が相手であれば魔力一致により馴染むだろうが、そうでは無い相手用ともなればかなりの高難度。

 だが込められている魔法の純度は高く、魔力が一致していなくとも問題無く使用可能で、尚且つ認識不可の効果も遺憾なく発揮される事がわかる。


 ……何故、これを寄越した?


 売れば相当な高値で取り引きされるに違いない代物。

 ナージャはそういった物に疎い為気付いていないだろうが、これは本当にかなりの品だ。それを、何故寄越したのか。

 目の前に居るカーナは、あの女の味方であるはずなのに。



一诺(イーヌオ)の警戒が解けないみたいだから、言うけどさ」



 溜め息を吐いたカーナは、仕方がないとでも言いたげな笑みを浮かべる。

 こちらの警戒を解く為か、それとも油断させる為か、カーナは体から力を抜いて無防備になった。重心を片方に傾けているその体勢は初動が遅れるとわかるもので、恐らく敵対する意思は無いという意思表示だろう。



「俺は、ずっと姉さんを見てたんだ」



 カーナは静かにそう言った。


 ……珍しい。


 一诺(イーヌオ)はそこまでカーナと親しいわけでは無いが、それなりに会話はする。

 その際のカーナは基本的に自分語りをしようとしない。必要最低限の会話か、よくわからない意味深な言葉を吐くかの二択。

 だから、こうしてカーナが自分の事を話すのは酷く珍しいように思えた。


 ……親しくしているらしいあの女からすれば、そうではないのかもしれないが。


 一诺(イーヌオ)が知っているナージャと他人が知っているナージャに差があるように、一诺(イーヌオ)が知っているカーナとあの女が知っているカーナにも差があるのかもしれないと一诺(イーヌオ)は思った。



「……私を、ですか?」



 かなり昔の話だが、一诺(イーヌオ)がまだこの屋敷に来て五年も経っていない頃、カーナがよくナージャを見ていた事を思い出した。

 初期は話し掛けようとしていたようだが、気付けば話し掛ける事すら無く、ただただ視線を送っていたのを覚えている。もっとも覚えているし知ってはいたが、一诺(イーヌオ)は特に何もしなかったので、わざわざ口に出しはしない。

 一方ナージャはそんな事は本気で知らなかったらしく、きょとんとした顔でカーナに視線を向けていた。

 さらり、とナージャの髪が揺れる。


 ……念のためにナージャ様の髪を纏めておいて良かった。


 シャワーを浴びて向かい合うまでの間に、一诺(イーヌオ)はナージャの髪を乾かした。

 髪を乾かしたり結んだりが苦手なナージャなので必然的なものだったが、一诺(イーヌオ)と二人きりであれば髪を解いていたって構わない。けれど、一诺(イーヌオ)としては、ナージャが髪を下ろした姿は自分だけに見せて欲しいもの。

 万が一あの女が乗り込んできてノックも無しに部屋に入る可能性を考えて軽く緩めにバレッタでナージャの髪を纏めておいたが、それが幸いした。

 まさかあの女では無く、カーナが来るとは思わなかったが。



「そう。ずっと見てた」



 カーナは言う。



「弟として、姉を見てた」


「それは……」


「知ってるよ」



 困ったように眉を下げるナージャに、カーナはぽつりと静かにそう言った。



「姉さんが俺を見てないのは知ってた。ずっと見てたから、姉さんが一诺(イーヌオ)しか見てないのは昔から知ってる。俺もそれに気付いてから、姉さんに俺を見てもらうのは諦めたしね」



 カーナは記憶を思い出すかのように、浅く目を伏せる。



「でも、見てたから知ってるし、わかってる。姉さんがこの家に合わないのも、一诺(イーヌオ)以外要らないって思ってるのも、この家を出たがってるのも、知ってる。知ってるっていうか、正確に言うとわかりきってた、って感じだけど」



 ……何というか、俺としてはどう反応すれば良いのかわからないな。


 第三者であるカーナから、ナージャは一诺(イーヌオ)を必要としていると語られた。

 他人から見てその印象というのは、何ともむずむずする。正確にはナージャの弟である為別に他人という立場でも無いのだが、関わりとしては他人に近い為それで良いだろう。

 ナージャ自身、カーナに向けている目は興味を引く話をしている他人に向ける目でしかないのだから。


 ……普段俺を見つめる目しか見ていなかったが、俺以外の事は、ここまで何も見ていなかったのか。


 綺麗な青い瞳だというのに、そこにカーナは映っていない。

 否、映ってはいる。映ってはいるのだが、何だか温度が無いのだ。大体の背やカラーリングや輪郭はわかっているけれど、個体を識別出来る程の認識はしていないような、そんな目だった。

 関わりを拒絶するそれは改善した方が良い気もするが、自分だけが認識して貰えるという事実は、なんともむずむずする感覚がある。

 気恥ずかしくて優越感があって嬉しくて申し訳なくて己の利しか見てない自分に苛立って、苦しいけれど心地良くしかしどこか酸っぱさもありながら落ち着く甘さがあるような、そんな表現の難しい感覚があった。



「だからそれ、用意したんだ」



 カーナは一诺(イーヌオ)の手の中にあるペンダントを指差す。



「きっと直に出ようとするだろうから、その時に二人の力になれたら、ってね」


「……認識阻害、ですっけ」


「そう」



 眠そうな半目のままで薄く笑みを浮かべ、カーナはナージャの言葉を肯定した。



「それをつけていれば、違う印象を抱かれる。いまいち興味を持たれないし、接触した人が仮に興味を持って接してきても記憶には定着しない。薄ぼんやりした輪郭は思い出せても、髪型も顔も声も体型も、正確には思い出せなくなるよ」


「つまり、その、えと、追跡出来ないとか、そういう事、ですか?」


「うん。追跡する為の情報があやふやになれば、追いかけるのは困難だろうからね」



 ……確かに、そうだ。


 認識阻害は文字通り認識を阻害する為、正常な認識が出来なくなる。例え知り合いであっても、雰囲気が似ている初対面の他人、くらいにしか認識出来ない。

 つまり、聞き込みをされても情報が一致しないという事。



「リーリカは一般人だから、追いかけられる程の機動力もお金も無い。聞き込みくらいは出来るだろうし多少追いかけるくらいは出来るだろうけど、聞き込みの時点で詰みにしちゃえば諦めると思う。父さん達だって、聞き込みで詰めば追えないよ」



 しかし、



「あなたは」



 ……信用して良いかどうかが、曖昧だ。



「あなたは、あの女の味方なのではないのですか」


「そうだよ」



 あの女の味方、つまり自分達の敵では無いかという問いかけに、カーナはあっさりと頷いた。



「あの場にだって居た。多少気配は薄めてたけど、まあ、俺、基本的にリーリカの味方をしてたいからさ」



 ……なんだかんだと言っていても、結局あの女の味方なんじゃないか……!


 身を強張らせ、やはり、と一诺(イーヌオ)は内心で敵意のままに舌打ちをする。



「で、あるならば、あなたが私達に協力しようとする理由など」


「あるんだよな、これが」



 わかりやすく困ったような表情で言い、カーナはナージャを見つめて告げた。



「あまり言いたくはないし、悪い意味ってわけでもない。これだけは留意して欲しい前提」


「?」



 一诺(イーヌオ)の腕の中でまったくもって理解していない表情をしていたが、ナージャはとりあえずといったように頷きを返す。



「…………俺は、俺が思う幸せを手に入れたいんだよ」



 静かに、とても静かにカーナはそう言った。



「それはリーリカが居ないと手に入らない。けれど同時に、姉さんが居ると絶対に手に入らないものでもあるんだ」


「……私が、邪魔、ってこ、事、ですね?」


「オブラートとかに包まず言うなら、そうなるかな」



 ナージャの答えに、カーナはにこりとした笑みを浮かべて肯定した。


 ……ナージャ様、今、素で噛んだな。


 聞いている側からすればいつものようにどもっているのとほぼ変わらないが、ナージャはどもった時、不甲斐なさそうに眉を顰める事が多い。

 対して今は少し恥ずかしそうに頬を薄く染めて目を逸らしている為、どもったのではなくただ単純に素で噛んでしまったのが恥ずかしいのだろう。

 一诺(イーヌオ)はそう思った。


 ……見た感じ痛みを耐えている様子も無いから、問題は無いか。


 噛んだとはいえ、正確には弟とはいえあまり会話しない相手であるカーナとの会話に緊張し、うっかり呂律が回らなかったのだろう、と判断する。

 もし本当に舌を噛んでしまい痛がっているようなら、治癒魔法を掛けた方が良い。

 が、一诺(イーヌオ)は追跡魔法以外本当にからっきし。氷魔法で出せるのはドリンク用の氷程度で、火魔法で出せるのはマッチサイズの炎のみ。つまり治癒魔法も碌につかえやしないのだ。

 勿論、治癒魔法は需要が高く使用頻度も他より高いという事で、苦手でも使えるようにという案は色々と出されている。

 例えば口付け。

 治癒魔法を苦手としていても、口付けで何とかなるという方法がある。それは口から治癒魔法を注ぐというものだが、患部に口付けを落とす事でその傷を治したいというそれだけの強い思いがあると判定される為、神が手助けして助けてくれる……と言われている。

 実際は普通に前者の効果だろうが、神が手助けしてくれているから治りが早いのだ、というのが一般的だ。

 まあ事実口から注いでいるだけでこうも効果が出るのかと思う程、それこそ治癒魔法が得意な者が口付けをすれば相当な大怪我も問題無いレベルまで回復させる事が出来たりもする為、その可能性も無くは無いのかもしれないが。


 ……いや、しかし、位置的に無理があるから、ただ呂律が回らなかっただけで良かった……。


 患部に口付けをすれば治癒魔法が不得意な者でもある程度は治せる。

 しかし、ナージャの舌に口付けなど出来るはずがない。

 想像するだけで全身の血液が沸騰しそうになってしまうというのに、実行になど移せるはずがなかった。

 一応先程の問答で両想いらしき事は発覚したが、しかし本当にちゃんと両想いになれたかは発覚していないのだ。明言したならともかく、そうでない以上、勝手な思い込みによる勘違いでショックを受けたくはない。


 ……勝手に口付けをして、それが理由で嫌われたくも、無い。


 呂律が回らなかっただけでナージャは舌を噛んでも居ないし、その事実を理解して安堵しながらも、一诺(イーヌオ)は勝手に思い悩んで想像して無駄に落ち込む。

 一诺(イーヌオ)自身ですら自覚がある程に、思考回路が面倒臭い。



「ああ、そんなに深く考えなくて良いよ」



 視線を逸らしたナージャを考え込んでいると認識したらしいカーナはそう言った。



「話は単純で、姉さんにどこか遠くに行ってもらうなりしてもらわないと、俺の思う幸福が手に入らないっていう、それだけの事。だから俺は、まあ、言い方は悪くなるんだけど」



 カーナは眠そうな半目を、す、と細める。



「俺は姉さんに出て行ってもらいたくて、幸いにも姉さんもまたこの家を出たがってるのがわかったから、俺はその時に二度とこの屋敷に戻る事が無いよう、万全の態勢を整えておこうとした、って事」


「…………」



 その説明に納得したのか、ナージャは腑に落ちたような表情で頷いた。

 まだ一诺(イーヌオ)が離れていない為ずっと腕の中に居たナージャは、その腕を拒絶するでもなく、寧ろ身を寄せるようにして一诺(イーヌオ)の手の中、ペンダントを覗き込んだ。

 まるで温もりを求めて出来るだけ身を寄せ、体の触れていない面を最小限にするかのようなその密着に、ぶわりと一诺(イーヌオ)の体温が上昇する。


 ……我ながら、あまり顔に出ないタイプで良かったと言うべきか……。


 もし顔に出るタイプであれば一気に赤面して大量の汗を掻きながら泣きそうになるという、みっともない顔を見せかねない。

 その自覚がある一诺(イーヌオ)は、己の表情筋がそう柔らかくない事に感謝した。



「……これは途中で私が家を出た事に気付かれて連れ戻されたりしないよう、逃げ切る為の物……ですね」


「うん。あとこれも」



 カーナは扉の前、足元に置いていた袋の内一つを雑に掴んでベッドの上へと放り投げた。



「その中には、衣装が入ってる。今から用意したりするんじゃ足がつくと思って、用意しておいた」



 ……確かにいつもと同じ格好では認識阻害があっても特定される危険性があるが……。


 それにしたって準備が良すぎないかと一诺(イーヌオ)が眉間にシワを寄せると、ナージャもそれに同意見だったらしく口を開く。



「あの、どうして、その、ここまで準備を……?」


「何としてでも姉さんに帰って来てほしく無かったから」



 カーナは目を見開き、影の差した真顔で声に温度無くそう言った。



「……ああ、ごめん。今のは言い方がきつかったかな」



 そういうつもりでは無かったと、こういう言い方をするつもりでは無かったとでも言うようにカーナは片手で顔を隠しながら軽く頭を振る。

 その手を下ろす時には、既にへらりとした笑みを浮かべていた。



「まあ、悪い意味じゃないから重く受け取らないでくれると嬉しい。俺はとにかく、姉さんが連れ戻されるような理由を可能な限り考えて、それらの可能性を潰す為の策を考えてたってだけなんだよ」



 その言葉に、一诺(イーヌオ)はナージャが気にしていないかを心配した。

 ナージャを知っている一诺(イーヌオ)からすればカーナはナージャにとって顔も名前も覚えていない他人枠だという事も理解しているが、それでもこうもわかりやすくナージャに拒絶を出す人間は、始めて見たから。

 一诺(イーヌオ)が今まで見た人間は、殆どがナージャに好意的か、悪意ある敵だった。



「………………」



 ……あ。


 一诺(イーヌオ)は、ナージャがとても安心した表情をしているのを確認した。

 肩の荷が下りたような、安堵の表情。悪意でも無く敵意でも無く、ただ純粋な拒絶に、凄まじい安堵を見せている。

 それも一诺(イーヌオ)が見るに、弟であるカーナに対して何か感情を向けようとか好意を返さなくてはとか、そういう事を考えなくて良いんだという安堵だ。

 安堵に満ちた表情でありながら目の前に居るカーナに対してどんどん色を失っていく瞳から、それが察せた。


 ……そこまでなのか。


 今まで一诺(イーヌオ)は、ナージャが自分に向けてくれている瞳は特別だと理解しながら、恋心による勝手な思い込みだと思い込んでいた。

 けれど今回、それは本当に特別だったという事を自覚した。

 そうして自覚してから改めてナージャの他人を、一诺(イーヌオ)以外を見る目を確認してみると、驚く程に感情が無い。

 例えば胸像など、興味が無ければ違うかどうかの識別が出来ないように、他人をそのレベルで認識していない事がわかる。


 ……前から何となく知ってはいたが、これは恐らく、カーナ様と同年代程度の男が姉さんと呼べば、その隣にカーナ様が居ようともその相手の方を弟だと認識しそうだ。


 そのレベルで他人を認識していない。

 なのにナージャは、一诺(イーヌオ)だけはその目に映すし名前も呼ぶ。

 その事実に歓喜して、まだ多少ぐるぐるしていた思考が落ち着きを取り戻し余裕が生まれた為、一诺(イーヌオ)は一旦ナージャから離れてベッドの上に放り投げられた袋の中身を確認した。

 勿論完全にカーナへの疑いが消えたわけでは無いので、袋の位置を利用しながら二人の間を隔てるようなポジションを確保しながら、だ。

 そうすれば、袋に一诺(イーヌオ)が気を取られている間にカーナがナージャに何か行動を起こそうとしても、妨害出来る。


 ……魔法で中身を把握しても、特に何かが仕込まれている様子は無いな。


 そう判断して中身を取り出し、一诺(イーヌオ)は眉を顰めた。



「……こちらの衣装ですが」



 中に入っているのは、貴族が軽く外に出る時用のシンプルなドレスと、従者がよく着るようなシンプルなシャツやベストなど。

 一诺(イーヌオ)ならばともかくナージャは高い服を着ようが安い服を着ようが滲み出る気品によって身分が高い事がわかってしまう為、確かに貴族である事を隠さずにいた方が違和感を持たれずに済むだろう。

 しかし何故かドレスはナージャにはサイズが大きく、シンプルなシャツやベストに関しては一诺(イーヌオ)が着れるとは到底思えない小さなサイズだった。


 ……それにドレスの色合いも微妙にくすんだ色で、ナージャ様には合わないな。


 派手だったりパッキリした色とは合うには合うが、それらを苦手とするナージャだ。その為一诺(イーヌオ)が服を選ぶ際は程々に色がぼんやりしない程度の静かな色合い。要するに白系で固める事が多い。

 こうした色合いなら、それは確かに印象を変える事が出来るだろうが、それでも合う合わないというものがある。

 合わない色合いではやはり違和感を抱かれるだろう。


 ……これはもう少し大人が着る色合いで、まだ年若いナージャ様には明らかに似合わない……。



「何やらサイズが合っていないように見えますが、これは?」


「認識阻害、って言っただろ。その貴族っぽいドレスは一诺(イーヌオ)用だよ」


「は?」



 にっこりと笑うカーナに、一诺(イーヌオ)は自分の顔がめちゃくちゃ顰められたのを感じた。



「……失礼ながら、私は背が結構ありますので」



 別に女装を厭うとかそういうのは無い。

 一诺(イーヌオ)はそれなりに客観的に認識出来るので、自分の顔がそれなりに女顔であるという自覚もある。それなりに、だ。

 無駄な足掻きであろうと「それなり」があるかないかは本人的にとても大きい。


 ……しかし、女装というのはリスクが高過るだろう、いくら何でも……。


 女顔だろうと背はあるし声だって普通に男の声。着痩せするタイプである自覚はあるが、骨格なども普通に男のソレなのだ。

 隣に背が低く女性らしさの塊みたいなナージャを連れていれば、その違和感はより顕著に表れるだろう。



「だから認識阻害なんだって」



 顔を顰める一诺(イーヌオ)に対し、まるで駄々を捏ねる子供を諭すかのようにカーナは重心を傾けた体勢のまま腰に手を当てた。



「背が高い女性だなあ、くらいの印象しか抱かれないよ。そして聞き込みの際、その程度の認識をされる事は好都合になる。違う?」


「確かに、まあ、そうですが……」



 ……認識阻害があるなら、俺が女装をしても背が高くハスキーな声の女性と認識されるだろうが……。


 実際その印象を抱かれて、尚且つ認識阻害によって違和感を抱かれていなければただの別人として認識されるだろう。

 更に認識阻害の効果で雰囲気も違うように見える為、印象を聞いても一致しなくなる。


 ……だが、女装、女装かあー……。


 好きな女性と駆け落ち同然に去る際に女装するというのは、追っ手を撒く為に必要不可欠とはいえ、どうにもこう、もにょっとした気分になる。

 これは自分がまだ若者気分で青臭い感情を持ち、ある程度の割り切りが出来ていないという事なのだろうか。



「ええと……私のは、男物……」



 一诺(イーヌオ)の女装に関して特に肯定も否定もしなかったナージャは、ナージャ用のサイズに合わせているのだろうシャツやベストを確認した。

 広げられたそれを一诺(イーヌオ)も改めて確認すれば、男物のようでいてラインが女性的なデザインになっている。



「……では無いんです、ね?」


「女装でスカートを履いていればある程度誤魔化せるけど、男装でパンツスタイルとなると仕草が大分わかりやすい。だったらいっそ、胸を潰したりせずに男装だって部分を前に出した方が気にされないと思ってさ」


「成る程……」



 首を傾げて問えばそう返され、ナージャは納得したのか両手を胸の上に置きながらふむふむと頷いていた。


 ……異性の服装を身に纏う事に不満があるのは俺だけなんだろうか……。


 しかし女の男装よりも男の女装の方がハードルは高い気がするので、不満を抱いてしまうのも仕方がないんじゃないかとも思う。

 まあ、現実逃避の言い訳なのだろうが。



「あとはもう、結んでる髪を服の下に隠すなりすれば誤魔化せると思う。一诺(イーヌオ)の方は自前で髪が長いからウィッグ無しでどうにかなるだろ、多分」


「しっかりと準備をしているようで、雑ですね」


「ある程度の準備さえしておけば、後はアドリブでどうとでもするだろうから」



 ……ああ、完全に俺が女装する方向で話が進んでいる……。


 別に構わないしメイクくらい出来るしナージャをずっと見ていたので仕草なども問題は無いだろうし他に良い服があるかと言われると否としか返せないので仕方が無いが、この何とも言えない虚無の感情は何なのだろう。



「姉さんはそういう時無駄な事しないし、一诺はそういう機転が利くし」



 現実逃避をしていた一诺(イーヌオ)だが、カーナのその言葉に視線を逸らした。



「…………我ながら、そうでもないようでしたが……」


「?」



 ナージャはよくわからないとばかりに首を傾げたが、実際今日は酷かった。

 あの女により精神的ダメージを負わされたとはいえ、まともに思考も出来なくなる程。必死に言葉を紡がなくてはとなり、意味があるかどうかわからない同じような言葉が延々と繰り返される面倒臭さ。

 ナージャが一诺(イーヌオ)や使用人に対してさらりと返してくれなかったら、どうなっていた事か。


 ……確実に、面倒事が増えていただろうな。


 助ける側であろうとしたはずなのに、昔から自分は、ナージャに助けられてばっかりだ。

 一诺(イーヌオ)はそう思った。

 今でこそ思考は多少落ち着いているが、それはナージャがしっかりとした返答をしてくれたお陰と、カーナの存在によるもの。要するにナージャに心をさらけ出してカウンセリングの後、心を許していない相手の登場で警戒しただけ。

 心を許せるナージャ相手であるからこそああも感情が曝け出されて、そして心を許すには足りないカーナが居るからこそ今は思考がハッキリとしているのだろう。

 まだ多少ぼんやりした部分が残っている一诺(イーヌオ)は、自分を客観的に見てそう思った。


 ……警戒とはつまり、気を張るという事。


 そのお陰でミント系の物を口にしたかのようなハッキリした思考になるというのは、何とも微妙な気分になるが。

 気を張らなくてはいけない相手が居る事も微妙な気分の理由だが、守るべきナージャ相手に気が緩んでしまうのもまた微妙な気分になってしまう。

 自覚したとはいえ、一诺(イーヌオ)の思考はまだ大分面倒臭かった。



「ん」



 袋の中身を確認こそしていた為何か紙が入っているのは気付いていたが、内容までは把握出来ていなかった為、袋から取り出したその紙の内容に一诺(イーヌオ)は眉を上げる。



「……これは、地図?」


「何枚もありますね」



 一诺(イーヌオ)にぴったりと寄り添いながら手の中を覗いたナージャはそう言った。



「どこに行くかとか、俺は聞かないし聞く気も無い」



 ぽつり、とカーナは呟く。



「でも把握はしておいた方が良いだろうと思って、調べるだけ調べて置いたんだ。全方角」


「全方角、って……」



 思わずといったように呟いたナージャと共に、一诺(イーヌオ)は地図を確認した。

 見れば確かに、全方角に対応している。

 それぞれ違う方向の地図であり、尚且つどこをどう行くと良いかが書かれ、避けた方が良い道や物資補給に良いだろう町なども丸で囲われていた。


 ……ナージャ様がこの家を出たいと言ってからある程度俺も調べはしたが、それでもここまでの情報量は得られなかったぞ……?


 調べるだけ調べておいたとカーナは言った。


 ……一体、いつから準備をしていた。



「旅人が自由に使える山小屋とか、物資補給に良いだろう場所とか、足がつかないだろうルートとか、そういうのを色々ね。方角もそうだけど、どの国に行きたいかによって最適なルートが変わるから、それに合わせて地図をちょいちょい書き換えてる」



 カーナの言葉通り、それらはしっかりと書かれている。

 同じ地図であっても行き先が違う場合は違うルートを書かれている辺り、相当な徹底だ。



「……あなたは、あの女の味方のはずでは?」


「うん」



 疑いを隠さずに一诺(イーヌオ)が言えば、カーナはにっこりした笑みで頷いた。



「俺はいつでも、リーリカの味方だよ」



 にっこりした笑みだが、しかしその細められた紺色の目は、笑っていない。



「でも今のままじゃ、俺の望む結果にはならないからさ。その為なら幾らでも策を練る。ただ、それだけ」



 ……どういう意味かはわからないが……。



「だから安心してくれて良いよ。俺は全力で二人がここに帰ってくる事が無いようにするだけだし」



 ニパリとはにかむように笑ったその顔は、一切の偽りが無いように思えた。


 ……少なくとも、俺達の敵では無いというのは、真実らしい。


 確証は無いが、恐らく真実。

 底知れない上に感情を悟らせない常に眠そうな目を思うと、それが本心かは不明だ。しかし先程ナージャに向けた拒絶は、確かに本物だった。


 ……ある意味俺達の敵ではあるが、俺達がここから去るというのはカーナ様から見て利害が一致しているからこそ、それに協力しようとしていると……。


 そういう事、なのだろう。



「どこに行くかはそっちで決めて。地図は利用するもしないも自由にね」



 カーナはそう言って背を向ける。



「俺は、夜になってから父さん達に報告するから」


「夜になってから、ですか」


「俺が報告しない限り、一诺(イーヌオ)の事情は発覚しない」



 今でも無く言わないでも無く後日でも無く、何故夜なのかという一诺(イーヌオ)の問いに、カーナは顔だけで振り向いてそう答えた。



「でも事情が発覚した方が、俺の命も狙う気満々な分家を潰せる。ラヴィル先輩は幸いヴァレーラ先輩がどうにかしてくれそうだから、問題は何も無い」



 おや、と一诺(イーヌオ)は思った。

 確かに分家はナージャを狙うと共に、カーナを暗殺しようと刺客を差し向けていた。

 そちらに関しては管轄外なので特に興味も無く放置していたし、実際カーナが闇魔法で存在感を消す事を得意としているのを知っていた為まったくもって心配も何もしていなかったが、



「ご存知でしたか」


「調べなくとも狙われてるのはわかってたよ。まあ俺は闇魔法で存在感を消して回避してたけど……一応調べた時に、一诺(イーヌオ)の事を知った」



 ……一体、どこまで……いや、いつから知っていた?


 あまりにも用意周到が過ぎる、とは思う。これだけを違和感無く、悟られもせずに準備するのであれば相当な、それ相応の時間や労力が必要だっただろう。

 だが、一诺(イーヌオ)は知っている。


 ……先日の、ナージャ様のドレスを勝手に仕立てて勝手に舞踏会に参加すると申請した件について、カーナ様は知った上で知らせなかった。


 作戦も、ナージャの好き嫌いも、一诺(イーヌオ)が作戦についてを知らない事も全て把握していただろうに。

 なのにカーナは何も告げなかったし、あの女の言っていた言葉からして一诺(イーヌオ)が刺客であるという事実についてはカーナ発信のものではない。

 そしてこの用意周到さとなると、


 ……この状況に至るまでが、仕込み?


 仕込みとまではいかずとも、状況を多少なりとも誘導していたのではないだろうか。

 もしくは遅かれ早かれそうなるだろうから、と止めなかったか。


 ……まったく、底が知れないにも程がある……。


 信用ならないと警戒する自分の判断は間違っていなかったな、と一诺(イーヌオ)は思った。

 今更それらに気付いても時すでに遅しであり、この家を出ることこそが正解なのだろうナージャの様子を見れば、ある種この方向への誘導自体も間違っていない気がするが。



「まあそういうわけだから、夜までに準備しておけばすぐに出られると思うぞ。俺はただ報告するだけだから、どのくらい猶予を与えられるか知らないし、出来るのはここまで……と」



 部屋を出ようとしたカーナは、ふと思い出したように足元にまだあった袋を持ち上げる。



「忘れてたけど、あとコレも」



 一诺(イーヌオ)やナージャに当たらない軌道で投げられたそれはベッドの上に落ち、ガシャンという硬質な音と共に緩んだ口から中身を覗かせた。



「え、これ……!」



 それを見たナージャが思わず驚くのも無理はない。

 何せ、宝石単体から宝石が飾られた貴金属系のアクセサリーなど、かなりの量が袋の中に詰められていたのだから。

 追跡魔法での確認を済ませてから袋を持ってみればかなりの重さがあり、ギリギリ袋が破れないくらいの量が詰められている事がわかる。


 ……本当にどれだけの準備を……いや、それ以前にどれだけ俺達に出て行って欲しいんだ……?


 自分の事は一旦棚上げするが、ナージャといいカーナといいあまりにも感情を見せなさ過ぎじゃないだろうか。

 親である本家当主と奥方はあれだけ感情表現が嫌になる程やかましいというのに。



「それ、俺が父さんや母さんに貰ったアクセサリー類。どうせ姉さんも沢山貰ってるだろうけど、売るんだよね?ならそれも売って、お金にしちゃって」


「……良いんですか?」


「うん。それで姉さん達が少しでも遠くに行ってくれるなら、その方が俺としては好都合だから」



 いつも曖昧な言い方をする事も多いカーナにしては、珍しくキッパリとそう言い切った。

 今までもキッパリ言う事はあったが大体意味深なよくわからない言葉である事が多かった為、こうもわかりやすく言い切るのは随分と珍しい。



「それに」



 カーナは目を細め、その右手の薬指にある安物だろう指輪を撫で、愛おしそうに口付けを落とした。



「俺は、これがあれば良いから」


「それは……」


「俺の宝物」



 指輪ごと右手を握ったカーナは、心底嬉しそうな笑みでそう言い切る。



「ソレ」



 とろけるような熱のある笑みを消したカーナは、一诺(イーヌオ)の持つ袋を指差した。



「ソレは、俺にとって価値が無い。金になっても要らないんだよ。対してこっちはそう高いものじゃないけど、俺にとっては大事な物。姉さんならそういうの、わかるよね?」


「?」



 カーナが自分自身の喉をトンと指差した為、ナージャは不思議そうな表情のままその動きを真似る。

 ナージャの白く細い指先がチョーカーの花飾りに触れ、しゃらん、と音が鳴った。


 ……ぅあ。


 触れた瞬間に理解したような、ひだまりのような優しい笑みを浮かべている。

 そんなナージャを見ては、こう、どうにもならない。どう動かせば良いのかわからない感情が胸の内をぐるぐると巡ってしまう。好きだとか、嬉しいとか、そんな感情が。


 ……似合うと思って見ていたのも、贈ったのも俺だが、しかしそれは、ナージャ様自身が購入した物だというのに……。


 思考回路が面倒な一诺(イーヌオ)はそう思ったものの、袋を置いた際の振動で左手首の手镯(ショヂュォ)が揺れ、ほ、と胸の中が落ち着く。

 何故落ち着いたかは一诺(イーヌオ)自身にすらよくわからなかったが、その重さは不思議と一诺(イーヌオ)の騒がしい心を優しく宥めてくれていた。



「……うん、まあ、つまりはそういう事」



 ナージャを見て、ふ、とカーナは笑う。



「俺にとってこれ以外はガラクタでしかないから、姉さん達の方が使えると思ってさ」



 そう言って、カーナは今度こそドアノブに手を掛けた。



「じゃあ、そういう事で。夜まであんまり時間も無いから、早めにね」


「あ、あの!」



 ナージャの声に、カーナは不思議そうに振り向く。



「あの、えと」



 ……ああ、礼を言いたいが名が出てこないのか。


 一诺(イーヌオ)はナージャが弟の顔すら覚えていない事も、当然ながら名前も覚えていない事を知っている。

 様子を見るに礼を言いたいのだろうが、名前を覚えていないからどうしたら良いのだろうと思っているのだろう。


 ……別に教えても構わないが……教えるよりも、



「……感謝します、カーナ様」


「あ……」



 先に伝えた方が、目の前でカーナの名を教えずに済む。

 カーナの言動からするにナージャがカーナの名を覚えていないのは知っているのだろうが、かといって目の前で名前は何だったかというやり取りをするのもなんだろう。

 そう思い、一诺(イーヌオ)はナージャに伝えるように礼を言った。

 正直な気持ちとしては恩もあるがここまで追い詰める原因をそのまま放置していたのはカーナなんだろうなとも察している為、特に礼を言う気は無かったが、ナージャが言いたいのであればまあ良いだろう。

 礼を言いたくないという感情など、ナージャの礼を言いたいという思いに比べれば吹けば飛ぶ程度のものなのだし。


 ……仮に相手があの女であれば幾らナージャ様が礼を言いたがっていようと絶対に言わないが、カーナ様であれば、まだマシか。


 相去(シィァンチュ)天渊(ティンユェン)

 比べるまでもないというか、アレより下はそうそうあるまい。

 あの女に比べれば大概はマシだ、と一诺(イーヌオ)は思った。



「あの、カー」


「呼ばなくて良い」



 一诺(イーヌオ)の言葉で名を把握したナージャが礼を言おうとカーナの名を呼ぶと、言い切るよりも早くカーナがそれを拒絶した。

 ピシャリとした、冷たい拒絶だ。



「姉さんが俺の名前すら把握してないのは知ってるし、今更無理に呼ばれたくも無い」



 こちらを向いたまま扉を開けたカーナの顔からは、表情が完全に抜け落ちていた。

 温度も湿度も無く、何の色も灯していない目でカーナはナージャを見つめている。



「お礼とかさ、今更いいんだって。今でも姉さんの事は大好きだけど、そういうのはもう求めてないんだ。それを欲してた昔ならともかく、今は要らない。わざわざ名前を呼んだりお礼を言ったりとかも無くて良い」



 溜め息を吐きながら、カーナはどうでも良いものを見る目のままで部屋を出た。



「姉さんも望んでる事だろうけど、俺としてはリーリカが二度と姉さんに関わらなければ……関わる事が出来なければ、それで良いんだ」



 その言葉と共に、バタリと部屋の扉が自重で閉まった。



「………………関わらなくて、良いんですね」



 残された部屋の中、ナージャは一诺(イーヌオ)にぽすりと身をもたれさせ、小さな声でそう呟く。

 とても、とても安堵した表情で、その頬を摺り寄せながら。





 夜、深夜になる手前くらいの時刻に呼び出され、解雇を言い渡された。



「お前が十年以上、ナージャの為に働いてくれたのはわかる。カーナはただ事実を言っていただけだが、私達でも、ナージャの為にと動いてくれたお前の働きを忘れたわけじゃない」


「ええ……けれど、刺客だったあなたをこのまま置いておくわけにはいかないの。ごめんなさい。でも、わかってちょうだい。あなたを許すなら他も許せと言われるわけにも、そこを逃げ道にされるわけにもいかない。これからのナージャの為に、ナージャの幸せの為に、女としての幸せの為にも、ここで分家を終わらせなくちゃいけないわ」


「すまん。ただ、すまん。わかっているんだ。お前にもきっと事情があり、だからこそここまでやって来てくれたのだろうと、そう思う。ナージャがワガママでも無い良い子に、それも病弱だったのがかなり改善されたのは、全てお前の働きだという事も、わかっている。わかっているん、だが……」


「…………私達にとって、娘は宝なの。勿論息子もだけど、重要なのはそこじゃなくて、宝に刺客が近付いた事。例えあなたが刺客として活動していてもいなくても何であっても、刺客という事が事実である以上、駄目なの、駄目なのよ……!」


「………………私達は、刺客であるお前を認められない。許せない。敵だったと思うだけで、大事な娘に近付けた己の不甲斐なさも、お前の存在すらも許せなくなりそうになる」


「ごめんね、本当に、ごめんなさい。でもお願い、私達の気持ちもわかって欲しい。あなたを必要以上の悪にしたくないし、そうだと認識したくもないし、理不尽に怒り散らしたくも無いの」


「お前なら、私達がどれだけ感情を抑えているか、わかってくれるよな。本当に、すまない。今までナージャを守り育ててきてくれた恩があっても、駄目なんだ」


「……明日の朝には、出て行っていて」


「……明日の朝まで、私達のこの抑えた感情も持ちそうにない」



 そんな感じで、解雇された。


 ……まあ、想像の範囲内だな。


 しかし何というか、不思議な程心が動かなかった。

 普段であればもう少し思考がマイナスに寄りそうなものだというのに。



「…………もっとも、現状を想えば落ち込むも考え込むも何も無いか」



 ナージャの部屋にある脱衣所兼洗面所を借り、一诺(イーヌオ)は変装用のドレスに身を包みながらメイクをしていた。

 従者としてナージャのメイクも担当していたので我ながら良い出来だと自負しているが、それとこれとは別問題。そう、このどうにも心の中で、こう、もにょっとした何とも言えない気分に関しては、別問題だ。


 ……三十も目前で何をしているんだろうな、俺は……。


 逃げる為とはいえ、女装。それも好きな女性に見られる事になるというのは、男心として、どうにも。


 ……ああ、だが、一晩の猶予を与えられたのは幸いだった。


 あの二人なら今までの働きの分だけ情があるはずだと見抜いていた為、きっと一晩は持つだろうと思っていた。

 基本的に子供に関してのみ激情家になるが、それでも考えられないわけではないのだ。少々どころじゃなく甘いと思うし娘の事を理解出来ていないにも程があるとは思うものの、善人らしく、ある程度の分別はつく。

 今までの一诺(イーヌオ)の働きをきちんと判断した上で猶予を与えるだろう事は、わかっていた。


 ……まあ俺はその猶予を利用してナージャ様を連れ去るわけだが。


 言ってしまえば信頼を裏切るという事になるのだろうが、相手は何度もナージャの期待を悪い意味で裏切り続けて来た二人だからまあ良いだろう、多分。

 元々一诺(イーヌオ)は彼らに雇用主という感情しか抱いていなかったので、そこに何か思う余地も特に無い。

 大事なのは、ナージャだけなのだから。



「…………しかし、こう、何というか……」



 メイクを終えた一诺(イーヌオ)は、妙齢の美女となっていた。

 長身だし骨格も良いが、骨格はドレスでカバー出来る。長身だってそういう女性が居ないわけでも無い。声は普通に低いのでハスキーで誤魔化せるかは不明だが、認識阻害の魔道具が仕事をすれば問題はあるまい。


 ……我ながら、普通に見れる顔だから困る……。


 バレないようにとしっかりメイクしたのも確かだが、ここまで顔が女になってしまうと、何ともこうもやっとする。

 まあ、女に見られる前提なのだから、これで良いのだが。



「わあ……!」



 支度を終えたからと脱衣所を出れば、既に着替え終わっているナージャが一诺(イーヌオ)を見て、感嘆を上げた。



一诺(イーヌオ)、美人さんですね!」



 ……ぬー……。


 ナージャはとても嬉しそうで、楽しそうで、はしゃいでいて、可愛らしくて、愛らしい笑みで、普段なら手放しで歓喜の感情を得られるような表情だというのに、その理由が自分の女装だと思うと何ともかんとも。

 しかしこの周辺で少しの間変装をするという程度の予定で、ある程度距離が開いたら後は認識阻害に任せて普通の服に着替える予定の為、そう長い事この格好で居るわけでも無いから良いのだが。

 良いが、こう、複雑な男心だ。



「あまり嬉しくはありませんが……ありがとうございます」



 本当、感覚としてはこの言葉に尽きる。


 ……正直、こちらとしてはナージャ様のその服装が似合っている事に驚くが……。


 ナージャのパンツスタイルなど想像した事すら無かったが、背が低いながらも足が長い為よく映えていた。ベストが胸を強調するようになってしまっているが、その胸がある為に男装であるとすぐにわかる。長い髪もシャツの中に仕舞っている為、一見すればショートに見えなくもない。


 ……随分と、印象が変わる……。


 新しいナージャの姿に何やら知らない扉が開いたような気がして、胸の奥がドキドキしている。

 が、それを暴露するわけにもいかない為、一诺(イーヌオ)は努めて通常通りの声を出した。



「さて、では荷物も纏めましたし……出ましょうか」


「あ、あの、一诺」


「?」



 ペンダントの確認をしながら言えば名を呼ばれたので、一诺(イーヌオ)はナージャの方を向く。

 ナージャは眉を下げながらも少しわくわくした色を灯した目をこちらに向けながら、家具が少ない為にドーンと広がっている壁を指差していた。



「……私、この家、すっごく嫌だったんです」


「存じています」



 ……万が一ナージャ様がこの家を好きだと言ったら、本家当主か奥方が薬でも盛ったかを疑うぞ。


 実際、そのレベルでナージャはこの家を嫌っている。



「だから、その、良くない事だっていうのはわかってますけど、でも……」



 一瞬口ごもってから、ナージャは様子を窺うように見上げ、つまり上目遣いで言った。


「…………ざまあみろ、って、その、一诺(イーヌオ)の使う東洋の言葉で、壁に書いても良いですか?」


「…………………………」



 ……ざまあみろと、壁に書き残そうと、そういう事か?


 その言葉の意味を理解した瞬間、



「……ぷはっ!」



 一诺(イーヌオ)は思わず吹き出していた。



「ふ、はははははっ!それは中々に良い置手紙ですね!」


「えへ」



 へにゃ、とナージャは笑っていた。

 やろうとしている事は中々の事なのに、それに対し子供のようにへにゃりとした笑みを浮かべているのが、何ともアンバランスだった。女性だとわかるタイプの男装スタイルである事も加わり、新鮮な愛らしさと色っぽさが漂っている。



「ええ、良いでしょう」



 楽しそうだ。



「教えますので、それを書いたら出ましょうか」



 引っ込み思案なあのナージャが書こうとしているだけで、かなりの変化と言えるだろう。

 しかも、言葉のチョイスが「ざまあみろ」と来たもんだ。


 ……マショー家のヴァレーラ、アレにかつてナージャ様が泣かされた時、そんな話をしたな。


 ざまあみろとか、そういう事を思うのは良くない事だ、と。

 これから駆け落ちに加えて夜の出歩きだというのに、更に自分で駄目だと思った事を実行しようとしているその行動。

 それは良くない事をするならいっその事、と罪を重ねるようなものに類似している気がしたが、まあ今日は良いだろう。

 感覚的にはダイエット終了して甘い物を解禁した際、アレもコレもと食べるみたいな、そういうリミッターが外れる系だと思うから。


 ……まあ、リミッターが外れる系は後のリバウンドなどのツケが後から追いかけて来る問題があるが。


 しかし、この程度なら良いはずだ。

 今まで耐え続けて我慢し続けたナージャなのだから、ようやく発散出来るタイミングが来た以上、今まで溜め込んでいたものを多少発散させるくらいは。

 寧ろ、細かい頻度で発散させた方が良い類のものな気もする。



「カーナ様が寄越したペンダント型の魔道具は認識阻害だけではなく認識不可の効果もありますが……こちらの効果はあまり持つ物ではありませんから、早めに出なくては」


「はい!」



 色々考えつつそう告げれば、ナージャはわくわくが隠せないという表情で頷いた。





 教えた文字をナージャが書き終わった為、それにくすくすと笑みを漏らしながら二人で窓際へと近付く。

 必要な物や金銭関係の物は旅行用に思えるトランクなどに詰めたので、違和感は抱かれないだろう。


 ……何か聞かれた時の設定としては、夫を亡くして傷心旅行中の未亡人貴族とその従者、という感じか?


 自分で自分を未亡人貴族に設定するとか寒いを通し越して失笑ものだが、そのくらいトバす方が良い。だってそれなら、詳しく聞かれたりもしないで済む。


 ……傷心旅行中となればまだ夫を亡くしたばかりで吹っ切れていないと深読みするだろうから、気遣いもあって深入りはされないはずだ。


 腫れ物扱いくらいが丁度良い。



「あ、そうだ」


「?」



 部屋にある外側の大き目の窓を開けていると、ふと思い出したようにナージャが声を上げた。


 ……忘れ物でもあったのか?



「何か忘れ物でも?」


「いいえ」



 ……あ、今のは何かを企んでいる顔だな。


 企むというよりは、楽しいサプライズ系、だと思う。

 ナージャがその顔をするのは滅多にない、どころか初めてかもしれないので、本当にそうなのか確証は無いが、一诺(イーヌオ)は何となくそう思った。



一诺(イーヌオ)、ちょっと」


「何でしょう」



 手招きをされたので、内緒話でもしたいのかと思い一诺(イーヌオ)は少し背を屈ませてナージャと同じくらいの目線になる。

 そうすると、伸ばされたナージャの手が一诺(イーヌオ)の頭の後ろに回り、優しくその手が添えられて、



「ん」



 目の前で、美しい青い瞳が閉じられたのが見えて、



「む……っ!?」



 直後唇に、とても柔らかい感触が来た。

 こういう時は目を閉じるのがルールなのだろうが、あまりにもいきなり過ぎて一诺(イーヌオ)は逆に目を見開いてしまう。

 軽い口付けは、すぐに終わった。



「な、な、な、な……っ!?」



 何を、何故、ナージャ様、な……っ!?

 言葉にするならそんな感じかもしれない。

 相当に混乱している一诺(イーヌオ)の思考を思うと、そこまで言語的にはなっていないかもしれないが。

 言語として纏められる程落ち着いてなんていなくて、心臓はドコドコと太鼓を叩いていて、脳内は理解し切れなくて溢れた分がオーバーヒートでもくもくと煙を出しているような気がした。

 気がしているだけなので気のせいだろうが、内心としてはそのくらいの衝撃だ。

 勿論嫌というわけではなくて、好きな人からのとても嬉しい行為だからこそ、ここまで動揺しているのだが。


 ……い、今のは、どうし、何故、なん……!?


 混乱する一诺(イーヌオ)の視界の中、ナージャは嬉しそうに頬を染めて、口付けによって一诺(イーヌオ)から移った口紅でその唇も赤く染めて、にへらと笑う。



「愛していますよ」


「……っ!」



 一诺(イーヌオ)が曖昧に終わらせてその後も言うに言えなかった言葉を、ナージャはさらりと口にした。

 その言葉は、一诺(イーヌオ)の胸の奥をぎゅうぎゅうと強く締め付ける。



「不束者ではありますが、これからどうぞよろしくお願いいたします」



 ……あなた程の方が、不束であるものか。



「私もあなたを愛していますよ、ナージャ様」



 伸ばされた腕に応えて抱き上げながら、一诺(イーヌオ)はそう告げた。

 かなりの覚悟が必要な、けれど伝えたくて仕方が無かった言葉を、だ。



「不束なのは、こちらです」


「あは、じゃあ、不束者同士で、お揃いですね」



 ……ああ、まったく!


 抱き上げたナージャの笑みに抱き締めを返しながら、一诺(イーヌオ)は思う。


 ……これで女装男装の状態で無ければ、もう少し様になっただろうに……!


 どうにも決まらず、しかしこれはこれで自分らしい気もして、どうしたものか。

 そんな気持ちのまま表情の緩みに任せて笑みを浮かべた一诺(イーヌオ)は、荷物ごとナージャを抱えた状態で目の前の開いた窓から飛び降りた。

 高さもあるしクッション代わりになるような木も生垣も何も無いが、しかしそこはナージャが風魔法で軽くクッションを作ってくれる事でどうにかなる。

 なった。


 ……よし。


 なったので、認識不可が発動している事を追跡魔法の応用で確認しつつ走り出す。

 夜中に女装してスカートを翻しながら、男装している愛する主と駆け落ちというのは言語にした途端何とも混乱してしまう字面になるが、しかしそれが事実だ。

 事実で今現在進行形として、腕の中にナージャが居る。

 こう言うのも何だが、自分の物として、ナージャが一诺(イーヌオ)の腕の中に居るのだ。


 ……絶対に離さない。


 ああ、離すものか。

 何があろうとナージャを抱き締め確保しているこの腕は離さないとも。

 勿論馬車のところに到着すれば離す事になるだろうが、そうではなく、心情として。


 ……必ず、幸せにするし、幸せになる。


 ナージャと共に在る事が出来るだけで、一诺(イーヌオ)からすれば幸いだ。


 ……それと同じものをナージャ様に与えられるだけの俺に、ならなくてはな。


 幸いな事に時間はたっぷりあるのだから、それを使って頑張ろう。

 泣き叫んだり感情を吐露したり色々暴露したお陰か、それともナージャを腕の中に抱いているからか、スッキリした思考の中で一诺(イーヌオ)はそう思った。


 ……ああ、幸いが、沢山だ。


 全てがマイナスに思えてしまう思考だった一诺(イーヌオ)は、腕の中に自分の幸せの具現のようなナージャが居るだけで、全てがプラスの物になると気付く。

 好みでは無い己の髪の黒さなどが夜の闇に紛れていて、そのお陰もあって気付かれにくいのだと思うと、それもまた幸いと言えるだろう。


 ……ナージャ様が居るだけで、俺は幸せになれるって事か。


 ナージャが居れば、全てが幸せに見えて来る。

 ならばあとは、この幸いをナージャと共有出来るようになるだけだ。



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