ナージャは自由を得る
「別に、そう警戒しなくても良いんだけど」
ナージャを守ろうとする一诺を見て溜め息を吐きながら、弟はそう言った。
「それよりも姉さんと一诺に、これ」
弟が近付こうとすれば一诺の腕に力がこもった為、弟はその場から手に持っていた何かを投げて寄越す。
「……?」
それをパシッと片手で受け取った一诺は、怪訝そうにそれを見た。
「……これは?」
「俺の魔力を込めて認識阻害に特化させた魔道具。ペンダント型になってるから、首から提げるだけで効果は出るよ」
「認識阻害?」
「そう」
一诺に抱き締められ、その腕に手を添えながらナージャが問えば、弟は眠そうな半目で肯定する。
「…………んー」
弟は尚も警戒を解かない一诺を見て、仕方がないとでも言いたげに笑った。
「一诺の警戒が解けないみたいだから、言うけどさ」
ふぅ、と溜め息を吐いた弟は力を抜き、少し重心を傾けた無防備な状態で語る。
「俺は、ずっと姉さんを見てたんだ」
「……私を、ですか?」
「そう。ずっと見てた。弟として、姉を見てた」
「それは……」
……知りませんでした。
全ての視線に恐怖していて、それら全てを拒絶していたから、どんな視線を向けられていたかもナージャは知らない。
ただ全ての視線が恐ろしくて煩わしくて、一诺以外を拒絶していた。
「知ってるよ」
ぽつり、と弟は静かに言う。
「姉さんが俺を見てないのは知ってた。ずっと見てたから、姉さんが一诺しか見てないのは昔から知ってる。俺もそれに気付いてから、姉さんに俺を見てもらうのは諦めたしね」
思い出すように、弟は浅く目を伏せた。
「でも、見てたから知ってるし、わかってる。姉さんがこの家に合わないのも、一诺以外要らないって思ってるのも、この家を出たがってるのも、知ってる。知ってるっていうか、正確に言うとわかりきってた、って感じだけど」
言って、弟は一诺の手の中にあるペンダントを指差す。
「だからそれ、用意したんだ。きっと直に出ようとするだろうから、その時に二人の力になれたら、ってね」
「……認識阻害、ですっけ」
「そう」
うん、と弟は頷いた。
「それをつけていれば、違う印象を抱かれる。いまいち興味を持たれないし、接触した人が仮に興味を持って接してきても記憶には定着しない。薄ぼんやりした輪郭は思い出せても、髪型も顔も声も体型も、正確には思い出せなくなるよ」
「つまり、その、えと、追跡出来ないとか、そういう事、ですか?」
「うん。追跡する為の情報があやふやになれば、追いかけるのは困難だろうからね。リーリカは一般人だから、追いかけられる程の機動力もお金も無い。聞き込みくらいは出来るだろうし多少追いかけるくらいは出来るだろうけど、聞き込みの時点で詰みにしちゃえば諦めると思う。父さん達だって、聞き込みで詰めば追えないよ」
「あなたは」
まだナージャを腕の中に保護したまま、一诺は強張った声で弟に言う。
「あなたは、あの女の味方なのではないのですか」
「そうだよ」
即答だった。
「あの場にだって居た。多少気配は薄めてたけど、まあ、俺、基本的にリーリカの味方をしてたいからさ」
「で、あるならば、あなたが私達に協力しようとする理由など」
「あるんだよな、これが」
弟は眉を下げながら目を伏せ、困ったように溜め息を吐く。
「あまり言いたくはないし、悪い意味ってわけでもない。これだけは留意して欲しい前提」
「?」
何が言いたいのかはわからないが、ナージャはとりあえず頷いた。
「…………俺は、俺が思う幸せを手に入れたいんだよ。それはリーリカが居ないと手に入らない。けれど同時に、姉さんが居ると絶対に手に入らないものでもあるんだ」
「……私が、邪魔、ってこ、事、ですね?」
「オブラートとかに包まず言うなら、そうなるかな」
……噛んじゃいました。
あまり話さない弟との会話なので緊張が出たのだろうか。
……それにしても、どういう意味なんでしょう……?
謎かけのようで、よくわからない。
「ああ、そんなに深く考えなくて良いよ。話は単純で、姉さんにどこか遠くに行ってもらうなりしてもらわないと、俺の思う幸福が手に入らないっていう、それだけの事。だから俺は、まあ、言い方は悪くなるんだけど」
言いにくそうに、弟は頭を掻く。
「俺は姉さんに出て行ってもらいたくて、幸いにも姉さんもまたこの家を出たがってるのがわかったから、俺はその時に二度とこの屋敷に戻る事が無いよう、万全の態勢を整えておこうとした、って事」
……ああ、成る程。
ナージャはその意味を理解し、一诺に少し身を摺り寄せながらその手の中にあるペンダントを見る。
「……これは途中で私が家を出た事に気付かれて連れ戻されたりしないよう、逃げ切る為の物……ですね」
「うん。あとこれも」
よく見れば、粗雑な袋が弟の足元に置かれていた。
弟はそれを無造作に掴み、ナージャ達が居るベッドの上へと放り投げる。
「その中には、衣装が入ってる。今から用意したりするんじゃ足がつくと思って、用意しておいた」
……何というか、準備が良すぎる気がするんですが……。
「あの、どうして、その、ここまで準備を……?」
「何としてでも姉さんに帰って来てほしく無かったから」
それは今までとは違い、一欠片の温度も無い声。
拒絶が強く出ているとわかる声だった。
「……ああ、ごめん。今のは言い方がきつかったかな。まあ、悪い意味じゃないから重く受け取らないでくれると嬉しい。俺はとにかく、姉さんが連れ戻されるような理由を可能な限り考えて、それらの可能性を潰す為の策を考えてたってだけなんだよ」
影が掛かってよく見えなかったが、先程の時は確かに表情が抜け落ちていた弟。
けれど今の弟は、へらりとした笑みを浮かべていた。
……弟に対する感情が、ここまで来ても、正直申し訳ないくらいに何も湧きませんけど、でも、弟は私が居ると、イヤなんですね。
その感情はしっかりと伝わり、
……良かった。
ナージャに確かな安堵を与える。
……弟が嫌がってくれるなら、この屋敷に対する未練、全部断ち切っちゃえます。
そう、最早両親とも思っていないあの二人が少し心配だった。
迷惑だとか、悲しませないかとか、そういうのはちょっとだけあったのだ。ちょっとだけ。本当にちょっとだけだが、あった。
まあ一诺と一緒に居てこの屋敷から出るのを優先したが。
このままこの屋敷に留まる場合、こちらの方が壊れかねないとわかりきっている為、当然の判断と言えるだろう。
……私、この家を出て、良いんですね。
この家に居るのを歓迎しない相手が存在する事実の、何と安心することか。
わざわざここに居なくても良いんだという理由が出来て、とても嬉しい。二度とここに帰らなくて良いという理由があって喜ばしい。
弟が嫌がるからという大義名分を得られたのは、ナージャにとって幸いだった。
「……こちらの衣装ですが」
袋を拾い上げて中身を広げた一诺はナージャから離れたものの、まだ多少なりとも警戒があるのか弟とナージャを隔てるような位置を陣取っていた。
「何やらサイズが合っていないように見えますが、これは?」
「認識阻害、って言っただろ。その貴族っぽいドレスは一诺用だよ」
「は?」
一诺が何だか物凄く嫌そうな顔をしているのをナージャは見た。
「……失礼ながら、私は背が結構ありますので」
「だから認識阻害なんだって。背が高い女性だなあ、くらいの印象しか抱かれないよ。そして聞き込みの際、その程度の認識をされる事は好都合になる。違う?」
「確かに、まあ、そうですが……」
一诺はぐぬぅ、と言わんばかりの何とも言えない顔になっている。
「ええと……私のは、男物……」
確認すると、パンツスタイルで見た目男物だしボタンなども男用だが、ラインが何だか違う。
「……では無いんです、ね?」
「女装ではスカートを履いていればある程度誤魔化せるけど、男装でパンツスタイルとなると仕草が大分わかりやすい。だったらいっそ、胸を潰したりせずに男装だって部分を前に出した方が気にされないと思ってさ」
「成る程……」
……確かに、私の場合はつい身を小さくしたりしちゃいますから、男の格好でそれをしたら目立っちゃいますよね。
やたらなよなよした女っぽい男と認識されるのも嫌なので、そのくらいが妥当と言えるだろう。
……うん、実際、お胸がちょっとアレですから、潰さなくても良いのは助かります……。
一诺の料理が合い過ぎたのかちょっと胸元が、言葉を選んで言うと蓄えが充実している為潰すと相当に息苦しいと想像出来る。そう思えば、潰さなくて良いというのはありがたい。
「あとはもう、結んでる髪を服の下に隠すなりすれば誤魔化せると思う。一诺の方は自前で髪が長いからウィッグ無しでどうにかなるだろ、多分」
「しっかりと準備をしているようで、雑ですね」
「ある程度の準備さえしておけば、後はアドリブでどうとでもするだろうから。姉さんはそういう時無駄な事しないし、一诺はそういう機転が利くし」
「…………我ながら、そうでもないようでしたが……」
「?」
ナージャは一诺が物凄く苦々しい顔をしている事に気が付いたが、言いたくないのだろうと思わせるような苦々しい顔だったので、とりあえずつつかない事にしておいた。
人には誰しも、触れられたくない部分があるものだ。
「ん」
袋の中身を取り出していた一诺は、ふと気付いたように眉を上げた。
「……これは、地図?」
「何枚もありますね」
ナージャが一诺の手元を覗き込めば、どうも内容の違う地図が複数枚重ねられているようだった。しかもそれぞれ、何やら線や文字が書き足されている。
「どこに行くかとか、俺は聞かないし聞く気も無い」
ぽつり、と独り言ちるように弟はそう口を開いた。
「でも把握はしておいた方が良いだろうと思って、調べるだけ調べて置いたんだ。全方角」
「全方角、って……」
思わず呟き、ナージャは一诺の手元にある地図を見る。
一诺もまた慌てて地図をそれぞれベッドの上で広げ、中身を確認した。
……わあ、本当に全方角網羅してますよこれ……。
「旅人が自由に使える山小屋とか、物資補給に良いだろう場所とか、足がつかないだろうルートとか、そういうのを色々ね。方角もそうだけど、どの国に行きたいかによって最適なルートが変わるから、それに合わせて地図をちょいちょい書き換えてる」
「……あなたは、あの女の味方のはずでは?」
最初のような警戒では無いものの、まだ多少警戒している様子を見せながら、一诺は怪訝そうに弟を見た。
「うん」
弟は目を細め、にっこりと笑う。
「俺はいつでも、リーリカの味方だよ」
けれど、細められたその目は笑っていない。
「でも今のままじゃ、俺の望む結果にはならないからさ。その為なら幾らでも策を練る。ただ、それだけ」
……よくわかりませんし、わかろうともいまいちやっぱり思えませんけど、でも、弟には弟で、何か譲れないものがあるんですね。
「だから安心してくれて良いよ。俺は全力で二人がここに帰ってくる事が無いようにするだけだし」
ニパ、と笑う顔は本当にそう思っているようで、罠では無いと思わせる。
勿論嘘か本当かを見抜ける程の付き合いも無いのでそれが真実かどうかなど見抜けやしないが、恐らくは大丈夫だろうと、そう思った。
……だってきっと私に出て行って欲しいのは、限りなく事実でした。
あの声色は本当だった。
ならばそこが真実。そこだけは真実。それを元に考えれば、ナージャにここに居てほしくないというのは真実なのだろう。つまりナージャが出ていく事に尽力するというのは、本当である可能性が高い。
……例えば私の場合、虫が嫌いで、虫の死体すらも見たくないです。
そう、つまりはそういう事。
死体ですらも見たくないというのが、嫌いという事。死体だとしても帰って来ては欲しくないと、弟はそう思っているはずだ。
だってナージャなら、嫌いな相手の場合そう思う。
……声色からして本当に私が嫌いみたいですから、死体ですらも、帰って来ては欲しくないって、多分そう思いますよね。
自分の考えが弟と一致しているという証拠などどこにも無いし、親と一致していないからこそ苦しめられたナージャだが、何故か漠然とそう思った。
帰って来てほしいなど、きっと微塵も思っていないと。
……うん、気兼ねなくて、良いです。
そのくらい距離がある方が、こちらも無理して相手に応えようとせずに済むから気が楽で良い。
お互い好きでは無いからこそ、離れる為に協力する。それは何だか、とてもバランスが良いような気がした。
もっともそれは、淡泊同士だからこそなのだろうが。
「どこに行くかはそっちで決めて。地図は利用するもしないも自由にね」
ある程度説明したからか、弟はナージャ達に背を向けた。
「俺は、夜になってから父さん達に報告するから」
「夜になってから、ですか」
「俺が報告しない限り、一诺の事情は発覚しない」
顔だけで振り向いて、弟は一诺の言葉にそう答える。
「でも事情が発覚した方が、俺の命も狙う気満々な分家を潰せる。ラヴィル先輩は幸いヴァレーラ先輩がどうにかしてくれそうだから、問題は何も無い」
「ご存知でしたか」
「調べなくとも狙われてるのはわかってたよ。まあ俺は闇魔法で存在感を消して回避してたけど……一応調べた時に、一诺の事を知った」
一诺は物凄く嫌そうにうへえという表情をした。
……何だか弟の前だと、一诺、色んな表情を見せてくれるんですね。
ちょっぴり嫉妬してしまいそうだが、自分しか知らない顔もあるだろうとナージャは己を制した。
勝手な嫉妬を向けるものでは無い、とちょっぴり反省。
……ちょっぴり嫉妬だから、ちょっぴり反省で良いはずです、うん。
断じて嫉妬のアレコレでちょっぴりしか反省したくないとか、そういう事では無い、と思いたい。
誰に言い訳するわけでもないが、ナージャは内心こっそりそう思った。
「まあそういうわけだから、夜までに準備しておけばすぐに出られると思うぞ。俺はただ報告するだけだから、どのくらい猶予を与えられるか知らないし、出来るのはここまで……と」
ふと思い出したように、弟は扉の前に置かれていたもう一つの袋を持ち上げた。
「忘れてたけど、あとコレも」
それもまた軽く放り投げられ、ベッドの上でガシャンと硬質な音を響かせる。
「え、これ……!」
衝撃により袋の紐が緩んだのか、中の物がベッドの上に姿をチラリを見せていた。
それは宝石が飾られた指輪やネックレスといった、貴金属系。
一诺がそれを持ち上げれば、ガシャリという音と共に明らかに重そうな下がり方を見せる。
「それ、俺が父さんや母さんに貰ったアクセサリー類。どうせ姉さんも沢山貰ってるだろうけど、売るんだよね?ならそれも売って、お金にしちゃって」
「……良いんですか?」
「うん。それで姉さん達が少しでも遠くに行ってくれるなら、その方が俺としては好都合だから」
弟はキッパリとそう言った。
「それに」
ふ、と目を伏せた弟は右手を上げ、その薬指に輝いている指輪を大事そうに撫ぜた後、愛しそうに口付けを落とす。
「俺は、これがあれば良いから」
「それは……」
「俺の宝物」
言い、目を開きながらも何だか眠そうな弟は、ソレ、と一诺が手に持っている袋を指差した。
「ソレは、俺にとって価値が無い。金になっても要らないんだよ。対してこっちはそう高いものじゃないけど、俺にとっては大事な物。姉さんならそういうの、わかるよね?」
弟は、とん、と自分の喉を指先で示す。
それに誘われるようにしてナージャが己の喉に触れれば、チョーカーについている花飾りがしゃらんという音を響かせた。
……ああ、成る程。こういう事、ですね。
「……うん、まあ、つまりはそういう事」
ナージャが理解したとわかったのか、ふ、とカーナは笑みを浮かべた。
「俺にとってこれ以外はガラクタでしかないから、姉さん達の方が使えると思ってさ」
言って、弟はドアノブに手を掛ける。
「じゃあ、そういう事で。夜まであんまり時間も無いから、早めにね」
「あ、あの!」
ナージャは弟の背に、声を掛けた。
「あの、えと」
……お礼を言いたいのに、名前が出てきません……!
名前を言わずにお礼を言うのも良いだろうが、それで誠意は伝わるだろうか。
「……感謝します、カーナ様」
「あ……」
隣で、一诺が弟にそう声を掛けた。
……一诺……。
恐らくはナージャが弟の名を呼ぼうとして、けれど名を知らないという事に気付いたのだろう。
……前に、私は家族の名前も覚えられないって言ったの、覚えててくれたんですね。
このタイミングでときめくのは少々どうかと思う、と胸のときめきと抑え込みつつ、ナージャは口を開く。
「あの、カー」
「呼ばなくて良い」
言い切る前に、ピシャリとした冷たい、拒絶を感じる声色でそう断言された。
「姉さんが俺の名前すら把握してないのは知ってるし、今更無理に呼ばれたくも無い」
ドアノブを捻って扉を開けた弟は表情が抜け落ちた顔で、温度の無い瞳でナージャを見る。
「お礼とかさ、今更いいんだって。今でも姉さんの事は大好きだけど、そういうのはもう求めてないんだ。それを欲してた昔ならともかく、今は要らない。わざわざ名前を呼んだりお礼を言ったりとかも無くて良い」
溜め息を零しなら、弟はナージャから視線を逸らして部屋を出た。
「姉さんも望んでる事だろうけど、俺としてはリーリカが二度と姉さんに関わらなければ……関わる事が出来なければ、それで良いんだ」
その言葉と共に、扉はパタリと閉じられた。
……歩み寄らなくて良いなら、楽ですね。
ナージャは弟の言い分に寂しさや悲しさを覚える事は一切無く、ただただ素直にそう思った。
純然たる事実として、ナージャは執着先以外には存外淡泊極まってるのである。
・
夜、弟により刺客だと報告された一诺は、やはり解雇となった。
明日までには出ていけと言われた一诺は既に纏めていた荷物を持ってナージャの部屋に移動し、脱衣所を借りてさっと着替える。
「わあ……一诺、美人さんですね!」
「あまり嬉しくはありませんが……ありがとうございます」
既に着替えを終えていたナージャは、メイクまでしっかりと施されパッと見男には見えない一诺を見て、思わずぱちぱちと拍手を贈った。
男として微妙なのか、一诺はその反応に何とも言えない苦笑を浮かべる。
「さて、では荷物も纏めましたし……出ましょうか」
「あ、あの、一诺」
「?」
いつも通りに三つ編みで纏めた髪を服の中に隠したナージャは、壁を指差す。
「……私、この家、すっごく嫌だったんです」
「存じています」
「だから、その、良くない事だっていうのはわかってますけど、でも……」
むぐ、とナージャは少し口ごもった。
「…………ざまあみろ、って、その、一诺の使う東洋の言葉で、壁に書いても良いですか?」
「…………………………」
一诺はきょとりと目を見開いて、
「……ぷはっ!」
思わずといったように、口を開けて腹を抱えた。
「ふ、はははははっ!それは中々に良い置手紙ですね!」
「えへ」
……笑った顔も、好きだなあ……って、思いますね。
やっぱりこの愛は恋愛なんだろうかと思いつつ、ナージャはふにゃりと微笑んだ。
「ええ、良いでしょう。教えますので、それを書いたら出ましょうか。カーナ様が寄越したペンダント型の魔道具は認識阻害だけではなく認識不可の効果もありますが……こちらの効果はあまり持つ物ではありませんから、早めに出なくては」
「はい!」
・
書くだけ書いて、ナージャは一诺と共に窓際へと歩み寄る。
認識阻害の効果もあって今の二人は旅行中の貴族と護衛に見えるだろうからと、貴金属類は旅行用にしか見えないトランクやバッグに詰め込んだ。
「あ、そうだ」
「?」
ふと思い出したように呟いたナージャに、窓を開けた一诺はきょとりと首を傾げる。
「何か忘れ物でも?」
「いいえ」
……折角、ですもんね。
「一诺、ちょっと」
「何でしょう」
かむかむと手招きすれば、一诺は疑いもせずにナージャに目線を合わせてくれた。
ナージャはその頭に手を添えて、
「ん」
「む……っ!?」
ちぅ、と軽く唇を重ねる。
「な、な、な、な……っ!?」
恐らくは「何故」または「ナージャ様」と言いたいのだろう一诺は、動揺で呂律が回っていない。
耳と首どころか顔全体を真っ赤に染めた一诺に、ナージャはにへらと笑みを零す。
「愛していますよ」
「……っ!」
「不束者ではありますが、これからどうぞよろしくお願いいたします」
笑って腕を伸ばせば、一诺は泣きそうな顔で、けれどメイクが崩れるからか涙を堪え、しかし口角を歪に持ち上げながら、ナージャをしっかり抱き上げた。
「私もあなたを愛していますよ、ナージャ様」
ナージャを横抱きした一诺は眉を下げ、けれどにまにまという表現が似合う口角の上がり方で、そう告げる。
「不束なのは、こちらです」
「あは、じゃあ、不束者同士で、お揃いですね」
その言葉に一诺はへにゃりとした笑みを浮かべて目を細め、ぎゅうとしっかりナージャを抱き直し、窓から飛び降りた。
高さはあるしクッションになる木も近くには無いが、ナージャが風魔法を使い一瞬浮遊させれば着地には一切問題が無い。
あとはもう魔道具の認識不可となる効果の稼働時間が切れるまでに可能な限り敷地内から離れ、夜中に出る馬車に乗り込むだけだ。
……駆け落ちだったり、夜中に飛び出る事にこんなにもわくわくするだなんて、私、悪い子です。
しかし同時に家を捨てたという軽さがある。
上を見上げればまるで一诺の瞳のような夜空があって、
……ああ、私、やっとあそこから出て、自由になって、それでもちゃんと、一诺と一緒に居られるんですね。
電線も何も無い空はいつもナージャに不自由を訴え続けるものだったが、今の空は違う。
頭上に広がる今の夜空は、自由そのものであるかのように、広く広く広がっていた。




