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一诺は懺悔する



 一诺(イーヌオ)はナージャを抱えて屋敷まで戻り、一旦それぞれ自室に戻ってシャワーを浴びる事となった。

 何せ上から降って来た大量の水と、それにより発生した周囲が見えなくなる程の水蒸気の中を走って来たのだ。そんなサウナのような中を通過すれば、当然ながら衣服はかなりの湿気に包まれべちょべちょとなる。


 ……ナージャ様が誤魔化してくれて助かった。


 今の一诺(イーヌオ)は、上手に誤魔化せる気がしない。

 だって、自分でもわかる程にまだ動揺が残っている。シャワーを浴びても漢服(ハンフゥ)に着替えても、いまいち呼吸が落ち着かない。

 現在の状態では明らかに不審な返しをしかねない為、べっしょりと濡れそぼった二人を心配した使用人に対し、ナージャがさらりと返してくれたのはとても助かった。


 ……謎の水蒸気が突然大量発生というのも、偽りでは無いから問題は無いだろう。


 発生させたのはナージャだが、仮に一部始終を目撃した人間が居てもどの道「謎の水蒸気が大量発生した」以外に説明出来る方法もあるまい。

 そう思えば、こちらに非は無くただ自然現象らしき何かに巻き込まれたとするのは、最善のように思えた。


 ……そういうものだと認識させてしまえば、それ以上の追及は免れる。


 しかしシャワーを浴びて着替えるというこの間は、何ともよくない。

 何がよくないかと言えば、一人きりの静かな時間がよくない。こんな状態ではまた色々と考えてしまい、思考がぐらぐらと揺れてしまう。

 ナージャの判断に委ねる事となったが、そのナージャが一诺(イーヌオ)を拒絶した時、その判断に賛成出来るかどうか。


 ……みっともなく追い縋らずに済めば良いが。


 拒絶されれば泣きながら追い縋るだろう己に自覚がある一诺(イーヌオ)は、自室のドアノブに手を掛けながら自嘲気味に笑っていた。





 ナージャの部屋で、一诺(イーヌオ)はナージャと共にベッドの上で向かい合う。

 ソファが無い部屋。椅子はあれど、普段からよくベッドの上で会話する事も多かった結果こうなってしまった。


 ……どうすれば良いんだ、俺は。


 シャワーを浴びて、好きな相手とベッドの上というのは、健全な男としてどうにもよろしくない。

 そしてその思春期かのようなそわそわ感を抜きにしても、精神的に落ち着けない。

 言わなければならないのに。告白しなければ、懺悔しなければならないのに。どうしても息が浅くなって、声が出なくて、何度口を開いても喉から音が発生しない。


 ……きっとあの女が告げ口をする。


 そう、だから、時間制限は刻一刻と迫っているのだ。

 直にクビだと言われるだろう。最悪追放される可能性だってあるだろう。良くも悪くも、どちらにしろこの屋敷からは出されるだろう。

 故にこそ、二人きりの状態で、罪の告白をするのは今しか無い。



「……私は」


「はい」


「私、は」



 手が、体が震える。血の気が引いているのが自分でもわかる。どんな顔をしているかを認識するのが恐ろしくて、ナージャの顔を見る事が出来ない。


 ……ああ、けれど、言わなくては。



「私は、私が、私が分家からの刺客であるのは、本当なのです……!」



 そう告げた瞬間、空気がひやりと冷えた気がした。時間が止まったような心地だった。

 一秒すら経過していないというのに緊張と恐怖のあまり呼吸が止まりそうになって、



「はい、ですからそれが?」



 まるで既に知っている今日の天気についてを聞かされたような、そんな即答が返された。


 ……それが、とは。


 少しの無言すらもプレッシャーになっていただろう一诺(イーヌオ)からすれば、間を置かずにさらりと即答されたのは幸いだった。

 さもなければ勝手に感じたプレッシャーで呼吸が出来ず、酸欠染みた状態になり、またもやまともに動かずぐるぐるとループする思考に到達していただろうから。

 しかし、返答に少し困った。

 どうして何も責めないのだろう。だって刺客だという告白は、即ちナージャの敵であると伝えたも同然なのに。


 ……もしや、理解していないのか?


 一诺(イーヌオ)がそんな人間では無いと思っているのかもしれない。

 特待生の発した虚言を真実として捉えられればどんな弁明も言い訳に成り下がるから、いっそそれを真実としてしまおうとしていると、そう思われたのかもしれない。



「……違う、違うんです」



 ……俺が言っているのは虚言では無いんだ。



「ナージャ様、違うんです」



 ……本当なんだ。



「そうじゃないんだ」



 ……本当に、俺はあなたを害する為に送られた刺客で、それでしかなくて、あなたの従者という肩書きの根底には、いつだって、俺は。



「私は本当に刺客なんだ。あなたを穢す為に用意された刺客。あなたをいざ穢す時誘拐するようにと、あなたによからぬ思想を植え付けろと、都合の良い人格に育てろと、俺はそう言われていて、俺は」



 ……どれだけあなたに忠誠を誓おうと、あなたに尽くそうと、あなたの事しか考えていなくても、結局のところ、俺があなたを害そうとして近付いたという事実は変わらないんだ……!


 知らず知らず、一诺(イーヌオ)は頭を抱え込んで背を丸めていた。



「違うんだ」



 頭の中がぐるぐる巡る。



「違うんです」



 歯車の音と酷い頭痛が脳内を暴れ狂っているのがわかった。



「俺は何も渡していない。だってあなたは俺の大事な人だ。あなたを害するなどあり得ない」



 あまりの頭痛と、ナージャに嫌われるかもしれないというストレス。



「だから、そう、だから俺は、信じてもらえないとは思います、思いますが、私はアイツらに情報など渡していない」



 今にもカエルのように胃袋ごと吐きそうな気分の中、一诺(イーヌオ)はひたすら必死に言葉を紡ぐ。



「渡したのは当たり障りのない情報で、私は、刺客ではあっても、あなたの敵にだけはならないと」



 どう伝えれば良いのだろう。

 どう伝えれば通じるだろう。


 ……俺が望んでいるのは何だ?


 ナージャと共にありたいと一诺(イーヌオ)は望む。

 けれどナージャを害する為に送られた刺客だという、スタート地点の事実が一诺(イーヌオ)を苛んでいた。

 ある種潔癖とも言えるその思考は一诺(イーヌオ)の心を責め立て、



一诺(イーヌオ)


「っ」



 酷く静かなナージャの呼びかけに、一瞬呼吸が止まった。

 同時に思考も止まったが、すぐに酷い不安が迫る。その静かな声はどういう意図が込められているのだろう。感情を読み取れない、酷く静かな声。

 好意か敵意かもわからなくて、怖くて、恐ろしくて。



「大丈夫、大丈夫ですよ」



 そう恐怖に呑まれていた一诺(イーヌオ)は、突然己の身が傾けられて柔らかいものに包まれたのを感じた。

 しゃらんという聞き慣れた音と共に、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。



「大丈夫」



 静かで、しかし母性的な優しい甘さのある声が上から降る。

 何かに頭を押さえられていて、顔のすぐ下には柔らかいクッションのような人肌の温もりがあって、背にはゆったりとしたリズムで軽い、けれど確かな振動があった。

 クッションのようなそれに触れている耳から、とくん、とくん、という音が聞こえる。



「大丈夫ですからね」



 そう言われると同時、頭をぎゅうと包み込まれた。

 顔がクッションに埋まって数秒、パ、と解放される。


 ……?


 頭の中が強制的にリセットされたような、そんな感覚だった。

 理解が追い付かない一诺(イーヌオ)はきょとりとした顔で正面を見て、優しく微笑むナージャを認識する。



「落ち着きましたか?」



 ……ぅあ。


 その言葉に、一诺(イーヌオ)は今まで顔を埋めていたのがナージャの胸だったという事に気が付き、胸に抱き寄せられ、優しく抱き締められ、安心へと誘われた事を自覚した。



「……すみません」


「いいえ」



 赤面するのも慌てふためくのも違うだろうと判断した一诺(イーヌオ)は、年下の主であるナージャに面倒を掛けさせてしまったと謝罪するも、ナージャはそれを微笑みで受け入れる。

 それを見た一诺(イーヌオ)は安堵と、ときめきと、申し訳なさと、異性として見られていない不安という何とも複雑な感情を得た。

 それぞれ個別の感情であるはずなのに一斉に感じたソレは、どう表現すれば良いかわからないもにゃもにゃした感覚を一诺(イーヌオ)に与えていた。



一诺(イーヌオ)



 呼びかけ、ナージャは先程まで浮かべていた優しい笑みを消し、少しだけ眉を顰める。



「あなたが怪我や体調不良などを隠す以外で、私があなたを疑った事がありましたか?あったとしたら、それはごめんなさいですけど、でも、私が彼女達の言葉をむやみやたらに信じると思いますか」



 ……それ以前に誰かが何かを言えば、俺への信頼など、容易く崩壊するのではないか。



「私はそう簡単に誰かの言葉を信用しそうな人間ですか」



 ……そうは思わない。あなたはいつだって、心の壁を強固に保っている。



「あなたが今まで私の中で積み上げて来たものは、全ては、たかがその程度で崩壊するようなものなのですか」



 ……俺の信用性の無さを鑑みれば、その程度のものに成り下がるだろう。


 ナージャは怒っているらしい。

 けれど一诺(イーヌオ)にはわからない。

 理解出来なくて、まるで親に言い訳をする子供のように、だって、と繰り返しそうになってしまう。



「…………私は、刺客です」



 それを抑え込み、一诺(イーヌオ)はそう告げた。



「はい」


「もっとも分家の事は早々に見限っていて、早い段階で私はナージャ様へと忠誠を誓いました」


「ええ。昔、守ると誓ってくれましたよね。覚えてます」


「!」



 ……覚えていて、くれたのか。


 既に十年以上昔の話で、当時まだ幼い上に少しの付き合いしかなかったナージャからすれば、一诺(イーヌオ)が勝手にそう言っただけだろうに。

 それを十年以上経過した今でも、ちゃんと覚えていてくれたのか。

 その事実に一诺(イーヌオ)の胸の奥がきゅぅんと音を立て、苦しい程に締め付けられる感覚を得る。けれどそれは不快では無く、心地よさを感じるものだった。



「……ですが、私は」



 ……そう、だが、俺は、



「私はナージャ様を守る為にと、刺客を辞めはしませんでした」



 ……その事実は、変わらない。


 甘さのある苦しみから、苦みのある苦しみへと変貌してゆく。



「何もせず、当たり障りない報告しかしておりませんが、それでも刺客ではあり続けていたのです」


「ですが、何も悪い事はしていませんよね?実際私は助けられこそしましたが、一诺に害された事はただの一度もありません」


「いいえ……いいえ、いいえ、いいえ!」



 ……それはあなたが知らないだけなんだ!



「私は確かにあなたのところへ必要以上に刺客が来ないよう、私が居る事で私以外は要らないと、そう言いました!芋蔓式に発覚するからとそう丸め込んで!」



 刺客であり続ける事で、分家に提供される情報を操作した。やってくる刺客の数を削いだ。



「そう、そうです、そうして私は思想を刷り込めというのにも逆らい、いいえ、違う、私は逆らってなんていない。私は、私は己の欲のままに行動してしまっているのです。あなたの知らないところで、私は欲望に負けていた」



 ……従者という身でありながら!刺客では無く従者なのだと己の真実に蓋をしながら!俺は浅ましくもナージャ様に恋をして!身分不相応なその想いを抱えたまま捨てる事も出来ず!あまつさえ……!


 あまつさえ、眠るナージャに何度も口付けを落としていた。

 唇は奪っていない。服越しだったり髪越しだったりするから直では無い。そんな言い訳も浮かぶが、言い訳だと自覚している時点で逃げている。

 罪だと自覚しながら、罪ではないと言い張ろうとして言い訳を重ねているだけだ。

 それを自覚しているからどうしようもない。逃げられない。欲望のままにナージャを蹂躙しようとしている分家の外道と何が違う。


 ……俺もまた、あの豚共と何も違いはしない。


 己の勝手な欲望の為にナージャの身に触れたのは、事実なのだ。



「分家の傀儡にという命令には背きながら、私はあなたに理想を押し付けていた!」



 ……ああそうだ、他にも俺は、押し付けていた。


 口が勝手に動く。そしてその言葉で、一诺(イーヌオ)はまた自覚する。今まで見ない振りをしていた部分を、見てしまう。



「女神のような存在だという、そんな理想を!等身大の人間として見たりせず、女神のような存在だからと、勝手にそんな壁を隔てていた!」



 ……あなたが、ナージャ様が、そういった理想を押し付けられる事を何より厭うと俺は誰よりも知っていたはずなのに!


 一诺(イーヌオ)のその叫びに、ナージャは静かにただ頷く。



「それは怒られる事なのですか?」


「してはいけない事でしょう!私はあなたに、私の理想を押し付けた!あなたが誰かの理想を押し付けられる事を厭うていると知っているのに!」


「…………一诺(イーヌオ)は、難しく考え過ぎなんですよ」



 そう言って、ナージャは仕方がないとでも言うように眉を下げて微笑み、身を前に乗り出して一诺(イーヌオ)の頭にその手を置いた。



「例えば学校では多かれ少なかれ、思想の洗脳が行われます。勿論それはあくまで勉強であり、学ぶという行為。しかしその人次第の正義を先生によって押し付けられるというのは、同じです」



 一诺(イーヌオ)の頭を優しく撫でながら、ナージャは言う。



「これはやらなければいけないとか、その考えはおかしいだとか……勿論正しいものもありますけれど、相互理解無しの否定は拒絶でしかありません」



 ……本家当主と奥方、そしてあの女の事だろうか。


 ナージャ自身があまり主張しないというのもあるし、ナージャの方から拒絶をしているというのもあるだろう。

 しかしあのメンバーは、どうにもナージャの気持ちを理解しない。待とうともしない。ただナージャの気持ちも自分達と同じだと決めつけ、そのままに行動する。

 己が主張を優先して、ナージャの言葉を意図的または無意識的に無視して、場合によっては「それでも参加すれば楽しいかもしれない」と強制する奴ら。

 それは自分達が正しいという思想の強制であり、その他がある事を理解しようともしていない拒絶と言えよう。



「けれどそう考えれば、一诺(イーヌオ)は自主性を重んじつつちゃんと教えてくれました」



 撫でる手を止めて元の位置に身を戻したナージャは、一瞬ふわりと目を細めて胸に手を当てる。



「駄目だから駄目なのでは無くて、どうして駄目なのかを教えてくれました。私の考えを聞いて、それを理解して、尚且つそれに合わせてもくれました」


「……いいえ」



 ……それは、ナージャ様が良い風に取っているだけで、そう受け止めているだけで、本当は違うはずなんだ。そんな綺麗なものであるはずがない。俺の心に下心があったように、他に穢れた考えが無かったなんて、言い切れない。



「私はあなたに優しくして、意図的に私を優先するように刷り込んだ。きっとそうだ。私はきっとそうしたんです。あなたの為を想っていても、無意識でそう思い行動したという可能性は、いつだって」


「証明も出来ない事に囚われていては、その檻から出る事など出来ませんよ」



 ナージャは笑みを消し、強い色を灯した青い瞳で真っ直ぐに一诺(イーヌオ)を見据えていた。

 その言葉にはピシャリとした冷たさがあり、しかし同時に温もりがある。

 まるで自分で勝手に作った檻に勝手に入って出られないと言っているような状態の一诺(イーヌオ)に、そこから出る事は容易いのだと、そう教え導くかのような声だった。



「例えば、そうですね。世の中にはひたすらに暴力を振るっては甘言を囁いて洗脳する人も存在します。詳しい説明をせずに上辺だけを教え、それだけを信じている傀儡を作る人も居ます。欲望のままに相手を組み敷き、無理矢理性行為を行う人も、世の中には居ますよね」



 ……ああ、居る。真ん中のは俺がナージャ様に最初しようとしていた事で、最後など、分家の豚がやろうとしている事だ。



「……私は分家から、分家の者があなたを手籠めにする為、都合の良い傀儡に育てろと命じられここへ来ました」


「長い間自分の子でも無い子供の相手を、今の私よりも幼かった当時の一诺がするというのは、そう簡単には出来ない事です」



 静かに、ナージャは語る。



「何より、一诺は結局、そんな風に私を育てたりなんてしなかったじゃないですか」


「だが!私があなたのそばに来た理由に変わりは無い……!」



 ああそうだ、変わりはない。

 変われない。

 変われやしない。


 ……どれだけ俺があなたに全てを捧げたとしても!その忌まわしくおぞましい過去は!その嫌悪し唾棄すべき事実は!変わってくれやしないんだ……!



一诺(イーヌオ)は無意識だとかを気にしているようですが、そんなものは差分です」



 スパンと切り捨てるように、ナージャはキッパリそう言った。



「切り捨て可能な小数点」


「……小数点」


「一人立ちして一人で生きていくと決めた人だって、大家さんとか友人とか、何ならお店に助けられて生きていく事になりますよね?一诺が言うような無意識を許さないのであれば、完全自給自足の生活をするしかなくなっちゃいます」



 ……それは、確かに、そのくらいの事をして初めて納得出来るという、そういった事を言っているのは事実だが……。


 正面のナージャは眉を下げ、目を少しだけ細め、優しさと慈しみと苦笑いが混じった笑みを浮かべた。



「そこまで厳しくしなくて、良いんですよ」


「ですが」



 改めて言われると相当な無理を己に強制している気がするが、それでも、どうしても、


 ……()()()()()()()、と考えてしまう……どうしても、それが頭から離れないんだ……!



「身の危険を感じた私があなたを裏切り、保身に走り、分家へと売り飛ばしたら」



 あり得ないと、そう言えるのか。確定していない未来を、そう断じる事など出来るのか。

 そんな事、出来るものか。



「今まで守ってくれていたんですから、充分だと笑いましょう」



 けれどナージャは、目を伏せてさらりとそう言った。

 否定してはいない。あり得ないと断じもしない。ただその事実があれど、笑うと。ただ笑うだけだと、そう言った。

 今までの、積み重ねがあるからと。



「分家の手籠めにされるというのは普通に嫌な事ですが、己が身を大事にするというのは当然の本能です。まあいずれ望まぬ誰かと結婚して望まぬ子を孕むのだろうとは思っていましたから、私からすれば大して変わりません」



 ……それは、俺を優先するという事なのだろうか。


 己が身を優先しようと、保身に走ろうとする一诺(イーヌオ)を肯定する言葉。

 それは当然の本能であり、責めたりなどするはずがないという言葉。


 ……ああ、そうだ、これは実際起きればそうじゃない結果になる可能性もあって、けれど今それは起きていなくて、起きていない事で考えても……。


 起こさせる気など無い。

 だって一诺(イーヌオ)は、ナージャが手籠めにされないようにと十年以上やってきた。

 そんな未来などあり得ない。

 あり得させない。

 一诺(イーヌオ)はそう断じている。


 ……ならばどうして、俺は、ナージャ様と共にあれる事を断じる事が出来ない?


 否定なら出来るのだろうか。

 ただ肯定が出来ないのだろうか。

 どうしたら肯定出来るかと一诺(イーヌオ)が思案した瞬間、



「まあ、可能なら殺されるのも孕まされるのも、相手が一诺(イーヌオ)であれば私に悔いは無いのですが」


「え」



 ナージャの告げた言葉に、頭の中の考えが全部どこかへと吹っ飛んだ。


 ……聞き間違い、か?


 否、そうではないらしい。

 目を伏せながらも薄く目を開けて、しまったと言わんばかりに逸らされた青い瞳。ほんのりと色づいた頬。細い指先で軽く押さえられた口元。

 そして、んん、という咳払いの後に告げられた言葉。



「今のは少々本音が零れたので忘れていただくとしてですね」


「ら、了解(ラャオジエ)



 ……本音、なのか。


 反射的に返事をしていたが、一诺(イーヌオ)はナージャの言葉に心の中を搔き乱された。

 殺されても良いと思う程、想ってくれているのか。

 孕まされても良いと思う程、想ってくれているのか。

 当然実際にそれらが起きればそんな事は言えなくなるかもしれないが、それでも、そう思ってくれるのか。そう思える程に、想ってくれているのか。



「私は、一诺(イーヌオ)と一緒に居たいと思っています」



 放心気味の一诺(イーヌオ)に対し、頬の赤みを引かせたナージャは真面目な顔でそう言った。



「それはずっと思っている事であり、刺客であったという事を知っても変わりません」



 その言葉に、偽りは無い。

 動揺して放心している今の一诺(イーヌオ)では嘘偽りの是非など判別がつかないが、自然とそう思った。自然と、本能的に、そこに嘘はあり得ないと、無意識にそう断じていた。



「……私はナージャ様が幼少期の頃から教育係も兼任しておりました。その感情は、刷り込みでしかない」



 しかし口は、どうしてもそう言ってしまう。

 湧いて出る懸念が、すんなり受け入れる事を拒否してしまうのだ。


 ……我ながら酷く面倒で、往生際が悪くて、どうしようもない。



「確かにその可能性もありますが、東洋の島国には好みの女児を攫って自分好みに育てて嫁にしたという物語があると聞きます。そう考えれば一诺(イーヌオ)はそこまでの外道ではありませんし、例え刷り込みだったとしても、私は一诺(イーヌオ)好みになれているなら、嬉しいですよ」



 対するナージャは、にこりと微笑んでそう言い切った。

 随分と面倒で往生際が悪く無駄に話をややこしくするだけの男が相手であろうと、その背を凛とさせながら。



「……十以上、歳が離れています」


「たかが十一違うだけですよ。十三年の付き合いがある事を思えば、大した時間でもありません」



 ……はは、まだ二十歳も迎えていないというのに、たかがと言えてしまうのか。


 か弱く見えて事実か弱く、しかし芯は凄まじく強い。



「大体五十六と六十七になればそうやいのやいの言われたりもしないでしょう」



 ……ああ、確かにそのくらいにまでなってしまえば、そう何か口出しをするような事でも無い。


 基本的に拒絶に関してのみ使用されていた為あまり知られていないが、一诺(イーヌオ)はナージャのそんな芯の強さを知っていた。

 知っていたが、いざこうして真正面から向かい合うと、思ったよりも強い芯。

 無理矢理ねじって面倒臭くしている無駄に頑丈な芯を持つ一诺(イーヌオ)からすると、眩しくて仕方が無くて、けれど同時に、とても焦がれる光でもある。

 それは恋焦がれ、眩しくて目を細め、それでも求める光だった。



「年の差だ何だで騒げるのは若い内か、死神が近くまでやって来た時くらい……私はそう思います」



 ナージャは凛と背を伸ばしながら、一诺(イーヌオ)を真っ直ぐ見据えてそう言った。


 ……確かに歳の差などはまだ年齢が浅い時か、死の縁のような年齢の時くらいしか気にもしない、か。


 けれど、駄目だ。

 往生際が悪い。

 往生際が悪いから、はいそうですねと言えなくて、みっともなく足掻いてしまう。

 足掻かない方が、ずっと楽だというのに。

 わかっているのに。



「…………私は、弱い」



 知らず知らず、一诺(イーヌオ)は頭を抱えて背を丸めていた。

 背を凛と伸ばすナージャとは対照的に、まるで女神像に懺悔する信者のように、その背が丸くなってゆく。



一诺(イーヌオ)はいつでも私を守ってくれていました」



 優しい声が頭上からするが、駄目なのだ。



「心が弱い」


「その繊細さがあるからこそ、幼い私の言葉をきちんと聞いて、理解してくれようとしてくれましたよね」



 ぐ、と一诺(イーヌオ)は喉の奥を鳴らす。



「私はあなたを愛しています」


「恋か家族に向けるものかはわかりませんが、結果的に家族になる部分を考えれば、きっと私が抱く一诺(イーヌオ)へのこの想いも、間違い無く愛だと言えるでしょう」



 自然な流れに聞こえるように己の想いを告白すれば、ナージャはあっさりとそう返した。

 恋とは明言せずに自分用の逃げ道を確保していた一诺(イーヌオ)とは違い、恋か家族へのものかは不明と言いながらも、どちらでも変わらないと言い切った。

 恋心でも家族に対するものでも、恋は結局相手と愛し合い家族になるのだから、己の中にある愛がどちらであろうと変わりなどしないと。


 ……俺よりも、ずっと男らしい。


 は、と一诺(イーヌオ)は顔を伏せながら笑みを零した。

 女性らしさしかないナージャに対して抱くような思いでは無く、けれどそうとしか思えない事が、何だか不思議で面白かったから。



「あなたは私が居なくとも生きていける」


「まさか。一诺(イーヌオ)がそう思っているだけです。私は一诺(イーヌオ)無しで生きていけるなんて思いません」


「あなたは生きていける強さがある」


「それは一诺(イーヌオ)が居てくれるから。実際一诺(イーヌオ)が居なくなっても私は生きていくでしょうが、それは今の私では無く、大事な存在を失った私でしか無いのです」



 そう、とナージャは呼吸を挟む。



「今の、一诺(イーヌオ)のお陰で笑ったり泣いたりが出来る私は、一诺(イーヌオ)が居なくなったら、きっと自然と死にますよ」



 それは微笑んでいるような、はにかんでいるような、けれど当然と言うような、そんな声色。

 それが事実で、それこそが真実で、他に答えなどありはしないと告げる言葉。


 ……ああ、そうだ、出会った時のナージャ様も、そうだった。


 あの時は笑ったり泣いたりも出来なくて、笑ったり泣いたりが出来るナージャは死にかけていた。

 そんなナージャを見て、一诺(イーヌオ)は笑ったり泣いたりしても良いのだと十年以上の年月を掛けて教えて来た。長い時間が掛かったが、その甲斐あって笑ったり泣いたり出来るナージャは息を吹き返したのだ。


 ……またそんなナージャ様にはさせたくない。そんなナージャ様を見たくはない。そんなナージャ様は……例えナージャ様であれど、俺が好きになった今のナージャ様では、無いのだろうな。


 同じナージャではあるだろう。

 けれど、心が死んでしまえばそれまでだ。

 一诺(イーヌオ)が好きになったのは、笑ったり泣いたりが出来るナージャ。

 感情が死んでしまったナージャを前にしたとして、一诺(イーヌオ)の心が今のようにとくりとくりとむず痒い温もりを主張する事は、あり得ないと言えるだろう。

 悲しみや虚しさを得る事はあっても、そんなナージャを前にしてこの温かみを得る事は出来まい。



「…………私は」



 一诺(イーヌオ)は顔を上げ、告げる。



「私は、ナージャ様と共に居たいです」



 中々言えなくて、けれどナージャが沢山の想いを伝えてくれたお陰で、ようやく言えた言葉。

 その言葉に、ナージャは優しい微笑みを返す。



「私もですよ」


「でも、でも、駄目なんです」



 どうしても、駄目だという考えが浮かび上がってしまう。



「きっとあの女が私の事を告げ口するに違いない。そうすれば刺客であるという裏付けは即座に取られるでしょう。すぐさま私は処罰されます。あらゆる疑いを掛けられるでしょうし、良くてもナージャ様のそばには、二度と、近付けなく」


「ならその時は、私を連れて行ってください」



 ナージャはキッパリと、一切の迷いすら無い、覚悟を決めた顔で言い切った。



「私は元々この家を出たいと思っていたから、いっそ丁度良いと思いませんか?」



 だから大した問題では無いと言うように、ナージャはにこりと笑みを浮かべる。



「追い出すにしろ、あの人達はきっと必要な物を持って出ていけ、くらいの猶予はくれるでしょう。その時に私と金目の物を持って逃げちゃえば良いんです」


「そ、それは泥棒では……」



 ……確かに、人の話を聞かないだけでありどちらかと言えば善人である本家当主と奥方であれば、そのくらいの猶予は与えてくれそうにも思うが……。



「私の部屋にある物は私に与えられた物だから構いません」



 普段なら多少どもったりするだろうナージャは、キッパリとそう言った。



「寧ろ箱の中で眠っているものばかりですから、足がつかない場所で換金するなりいざという時の為の質屋行き物品とするなりは自由です。そもそも私の物なのですから」



 それならば、とは思う。

 それなら一緒にこの屋敷を出る事が出来ると、そう思う。

 誘拐するように、ナージャを連れて出てしまえば良いと。


 ……まるで、駆け落ちのようだ。



「…………私は、あなたに裕福な暮らしをさせる事は出来ません」



 けれど、どうしても現実が一诺(イーヌオ)の頭を叩く。

 どうしても、面倒臭い部分が後ろ髪を引いてくるのだ。



「不自由をさせる事になるでしょう。使用人は一人も居ない。洗濯も食事も掃除もやらなくてはいけない。それも、私では無くナージャ様が、です」


「わかってますよ」



 当然のように返されたその言葉に、



「いいえ!わかっていません!」



 思わず一诺(イーヌオ)は叫んでいた。



「例え金目の物を持って行き換金するにしろ、それで生きていく事など出来ないんですよ!それを元手に家を確保し仕事を得て、安定した金を得られるようにしなければ生活は出来ない!今までの貯金があったってそう長い事持ちはしない!そして私は確実に仕事に出る事になるでしょう!そうなると、家事などを全てナージャ様にやらせる事になってしまう!」



 ……俺はあなたに、そんな事をさせたくないんだ……!


 大事な存在だから、大事にしたい。

 苦労なんてさせたくない。

 けれど自分と共にある事になれば、苦労をさせてしまうだろう。

 苦労をさせないようには、どう足掻いたって出来ないのだ。



「私はあなたに不自由を与えたくなどない!」


「めっ」



 感情のままに叫んだ一诺(イーヌオ)の眉間に、トン、と軽い衝撃が来た。

 小突くという程でも無い衝撃。

 正面のナージャの不機嫌そうな、少し怒ったような表情と、伸ばされた手と人差し指を見て、一诺(イーヌオ)はナージャによって止められた事を悟った。

 津波のように荒れていた一诺(イーヌオ)の感情が、指先から伝わる温度によってゆっくりと治まっていく。



一诺(イーヌオ)、私の不自由はここに居る事なんですよ」



 手を下ろし、ナージャは眉を下げてそう言った。

 聞き分けの無い子供に伝わるよう、言い聞かせるように。



「私の不自由を一诺(イーヌオ)が勝手に決めるのは駄目な事です」



 それは、確かにそうだ。

 ナージャに主張を押し付けていた本家当主達と何も変わらない行為。

 それはナージャにとって不自由だろうと決めつけるのは、家に居るなど退屈だろうと言うのと同じ。パーティに出た方がずっと楽しいだろうと思い、強制するのと同じ事。



「そして私にとって、一诺(イーヌオ)と一緒に居る事こそが自由で居られる時間です。一诺(イーヌオ)が居ないと不自由しか無くて、息なんて到底出来ませんから」


「…………ですが」


「それに、一诺(イーヌオ)だってわかってますよね?私、結構リアルに考えちゃうタイプで、庶民派で、不要と判断したもの以外の物覚えは良いんです」



 小首を傾げながら、ナージャは目を細めてふにゃりと笑う。



「その、勿論教えてもらう必要はありますけど、ちゃんと覚えて頑張ります。髪を乾かしたり結んだりはやっぱり一诺(イーヌオ)にやってもらうかもしれませんけど、それ以外なら出来るはずですし」



 ……知っているさ、そのくらい。


 自分など不要なのではと心配になるくらい物覚えが良い事も、貴族らしい暮らしが苦手である事も、いっそ庶民向けの方が気兼ねせずに済んで楽そうにしているという事も、知っている。

 それすらも知らないような、そんな浅い関係では無いのだから。



「……結局家事が出来ず、私を持て余す事になれば捨ててくれて構いません。疎ましくなったとしても、他に好きな人が出来た場合でも、不要と思えば捨ててください」


「そんな事はこの世が滅びようともあり得ない!」


「なら、連れて行ってくれますか?」



 信じられない言葉に思わず叫べば、ナージャは言質を取ったとばかりに微笑んだ。

 思っていたよりもずっと(したた)かなそのやり方に、惚れ直しでもしているのか胸の奥がきゅんきゅん弾む。



「勿論こんなのは、ただの私のわがままでしかないんですけれど」


「……いいえ、いいえ、違います。全ては私のワガママです。断る理由を探してしまっている」



 一诺(イーヌオ)は正直に、往生際が悪い自分を告げた。



「私では、あなたを幸せには出来ないんじゃないかと」


「私の思う幸せは、あなた以外では得られません」



 あっさりした、ナージャのその言い切りに、



「まあ、俺もそう思うかな」


「「っ!?」」



 突如として聞こえた同意の言葉に毛を逆立たせ、一诺(イーヌオ)は慌ててナージャを腕の中へと確保してから声がした方、部屋の扉へと視線を向ける。



「…………やあ、姉さん」



 片目を伏せて閉じられている扉にもたれ掛かっているのは、カーナだった。

 音も無く気配を悟らせる事も無くいつの間にかそこに居たカーナは、顔の横に上げた手の甲で今更ながらに扉をノックする。



「気配を消してたのは事実とはいえ、ここまで気付かれないとはね。普段一诺(イーヌオ)には気配を消しててもわりと気付かれるから、それだけ切羽詰まってたって事なのかもしれないけど」



 静かに目を開いたカーナはいつものように眠そうな半目でしっかりと立ち上がり、その紺色の瞳にナージャと一诺(イーヌオ)の二人を映す。

 カーナは特待生の味方だと知っている一诺(イーヌオ)は、敵か味方かと言えば敵寄りだろうカーナを前に、痛みを与えない程度にぎゅうとナージャを抱き締めていた。



書いてる最中も一诺に対して「コイツ面倒臭い……」ばかり思ってました。そのくらい面倒臭い男です。

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