ナージャは告げる
一诺に抱き上げられて帰って来た自室。
水蒸気で濡れてしまったので少々心配もされたが幸い両親は不在だった為、使用人に問題は無いとだけ言っておいた。何故か水蒸気が大量発生していて、そのせいで濡れただけだと。
……事実ですから、それに関してを調べられても問題は無いです。
ナージャこそが水蒸気を発生させた張本人だが、目撃者はほぼ居ないからまあ大丈夫だろう。
しかし濡れているのは事実なので一先ずそれぞれ自室に戻り、一旦シャワーを浴びて着替えてから、ナージャの部屋のベッドの上で向き合うように座っていた。
ソファは無いが椅子はあるので椅子を向かい合わせにすれば良い事なのだろうが、ベッドの上で話をする事も多かった結果自然とこうなったのだ。
「……………………」
漢服を着た一诺はベッドの上に座り、無言で俯いている。
浅く俯いているだけなのでその口が何度か何かを言おうとして開閉しているのも、その顔面が心配になる程蒼白になっているのもナージャからは見えていた。
……一诺は、いつも待ってくれてました。
だからナージャも、急かさずに待つ。
この沈黙はそれだけ一诺からすれば言いにくい内容という事の証拠でもあるのだ。それを否定せず、受け入れる。受け入れればその分だけ、一诺が思っているままの重みとしてその言葉を聞く事が出来るだろうから。
もっともそれを察した上で、ナージャはナージャとしての判断を告げるつもりなのだが。
「……私は」
「はい」
「私、は」
帰ってくる時の良い意味で力が抜けていた微笑みはどこへやら、少しのクールタイムで一诺は相当に色々と考え込んでしまったのか、酷い顔色になっていた。
カタカタと身を震わせながら、はくはくと音も無く口を動かし、何度目かの歯噛みと共に一诺は言う。
「私は、私が、私が分家からの刺客であるのは、本当なのです……!」
それは神への懺悔のような、血を吐くような声で紡がれる告白だった。
「はい、ですからそれが?」
しかしそんなもの、既にわかっている。
一诺の態度からすればそうなんだろうなと思うだけだし、限りなく事実だろうなと思っていたそれが事実だと確定しただけ。
ナージャからすれば、それだけでしかない。
……だって、一诺が私の為にって頑張ってくれたのも色々お世話してくれたのも、事実です。
ナージャは一诺とのやり取りを思い出し、そう思う。
もし本当に刺客であるならば、もっと偏見に満ちた思想を刷り込んだりするだろう。分家に同情させるような話を吹き込んだり、もっともっと本家の、つまり両親と険悪になるよう手配するだろう。
ナージャの為を思ってパーティに参加させないようにするより、止めはしたけれどと言ってパーティに積極的に参加させた方が、本家へのヘイトは溜まる。
……でもそれよりも、一诺はいつだって、私の心の安寧を優先してくれました。
ナージャが耐えていれば、耐えなくて良いのだと教えてくれた。言葉に詰まれば待ってくれた。本が読みたいと言えば買ってきてくれた。
外に出たくないという願いも、外に出たいという願いも、どちらも平等に叶えてくれた。
勉強だってナージャの質問には全て答えてくれたし、基礎は勿論応用までしっかりと教えてくれた。一般的な解釈や個人の解釈まで細かく説明してくれた。
本当にただの刺客であれば、察しの悪い馬鹿であれと、そう思うはずなのに。
……ちゃんと私の事を想って、思考を停滞させないようにしてくれました。
刺客であれば思考を停滞させ、深く考えない人間に育てるだろう。
けれど一诺は、ちゃんと考えさせる教え方をする事で考える力を与えてくれた。ナージャに前世があるからというのを差し引いても、刺客とは思えない、ちゃんとした教え方だった。
当然それが刺客として取り入る為の行為だったと言われればそれまでだが、しかしそれでも、ナージャは今まで見て来た一诺を信じたい。
信じたいと、そう思ったのだから、信じるだけだ。
「……違う、違うんです」
けれどその意図は、思考が闇鍋状態になっているらしい一诺には通じなかったようだった。
「ナージャ様、違うんです。そうじゃないんだ。私は本当に刺客なんだ。あなたを穢す為に用意された刺客。あなたをいざ穢す時誘拐するようにと、あなたによからぬ思想を植え付けろと、都合の良い人格に育てろと、俺はそう言われていて、俺は」
……ううん、困りました……。
一诺は頭を抱えながらぶつぶつと呟いている。
それは懺悔であり告白でもあるのだろうが、しかし頭が良いせいか考え過ぎるタチの一诺は、どうやら考え込み過ぎた結果少々発狂してしまっているらしい。
……多分、私がちゃんと理解していなくて、一诺の虚言だと思っている、と思われてるみたいですけど……。
ちゃんとわかっていて、わかった上でナージャはそれがどうしたと言ったのに。
様子を見ていれば一诺がそれを望んでしていたわけでは無い事くらいわかる。そしてそうは思われたくないと思っているのだってわかる。
しかしどうにも肯定力が薄い一诺は、否定されるという確信を先入観で得ているらしい。
……肯定力が薄いのは同じだから、わかります。
そう、わかる。
思考がマイナスに満ちている時は、肯定されると思えない。肯定されたくもない。しかし否定もされたくない。そんな事は無いんだと言われたくもないし、わかるよと言われたくも無い。
その通りだという同意だって、されたくは無い。
……それはただその思考を打ち切りにするだけのもので、一時的に思考を止めるだけで、解決なんてしないもの。
そうやって同意された場合、自分は駄目だという思考へのループが早まりドツボに嵌まっていくだけなのだ。
「違うんだ。違うんです。俺は何も渡していない。だってあなたは俺の大事な人だ。あなたを害するなどあり得ない。だから、そう、だから俺は、信じてもらえないとは思います、思いますが、私はアイツらに情報など渡していない。渡したのは当たり障りのない情報で、私は、刺客ではあっても、あなたの敵にだけはならないと」
一诺は目を見開きながらその瞳孔をぐるぐるさせていた。
このまま発狂状態で居られては話が出来ない。
「一诺」
「っ」
声を掛ければ、一诺はビクリと怯えたように跳ねて止まった。
まるで泣いていた子供が、親にぶたれると思って体の動きを硬直させるかのように。
……頭がマイナス思考に満ちている時は、こう、ですよね。
ナージャは手を伸ばして一诺の頭を抱え、そのまま己の胸へと引き寄せた。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
胸をクッションにして、片方の手で一诺の頭を抱え、もう片方の手で一诺の背をゆっくりしたリズムでとんとんと叩く。
「大丈夫」
鼓動を聞かせるように、大丈夫という言葉を染み込ませるように、ゆっくりと。
「大丈夫ですからね」
叩くのを止め、頭を抱え込むようにしてぎゅうと抱き締める。
……いち、にい、さん。
ぱ、とナージャが手を放せば、身を起こした一诺は焦点が合った目できょとりとナージャを見つめていた。
「落ち着きましたか?」
「……すみません」
「いいえ」
……やっぱりこういう時は、落ち着かせるのが一番ですね。
言葉は肯定でも否定でも同意でも無く、安心を誘うものが良い。
そして鼓動、振動、リズムというのは人を安堵に導くものだ。
……赤ちゃんがそうなんですから、皆元が赤ちゃんである以上、それが安堵に繋がるのは当然です。
前世で妹がぐずった時もよくこうして泣き止ませたものだ、とナージャは優しい笑みを浮かべる。
……随分と懐かしい記憶になっちゃいましたけど、意外と覚えているものなんですね。
「一诺」
そう思いつつもナージャは一旦笑みを消し、言う。
「あなたが怪我や体調不良などを隠す以外で、私があなたを疑った事がありましたか?あったとしたら、それはごめんなさいですけど」
覚えていないだけだったら申し訳ないのでそう言いつつ、でも、とナージャは続ける。
「私が彼女達の言葉をむやみやたらに信じると思いますか。私はそう簡単に誰かの言葉を信用しそうな人間ですか。あなたが今まで私の中で積み上げて来たものは、全ては、たかがその程度で崩壊するようなものなのですか」
少し眉を顰めてしまっている自覚がありながらナージャがそう告げれば、一诺はぽつりと呟いた。
「…………私は、刺客です」
「はい」
「もっとも分家の事は早々に見限っていて、早い段階で私はナージャ様へと忠誠を誓いました」
「ええ。昔、守ると誓ってくれましたよね。覚えてます」
「!」
意外と言わんばかりに、一诺は一瞬目を見開く。
……私、そんなにも忘れそうですっけ?
ナージャはそう思うも、実際弟の名前も顔も碌に覚えていないのは事実なので指摘しない事にした。
藪をつつく趣味は無い。
「……ですが、私は」
ぐ、と一诺は唇を噛み締める。
「私はナージャ様を守る為にと、刺客を辞めはしませんでした。何もせず、当たり障りない報告しかしておりませんが、それでも刺客ではあり続けていたのです」
「ですが、何も悪い事はしていませんよね?実際私は助けられこそしましたが、一诺に害された事はただの一度もありません」
「いいえ……いいえ、いいえ、いいえ!」
一诺は叫んだ。
「私は確かにあなたのところへ必要以上に刺客が来ないよう、私が居る事で私以外は要らないと、そう言いました!芋蔓式に発覚するからとそう丸め込んで!そう、そうです、そうして私は思想を刷り込めというのにも逆らい、いいえ、違う、私は逆らってなんていない」
再び真っ黒い目をぐらぐらと揺らしながら、一诺はぶつぶつと呟き始める。
「私は、私は己の欲のままに行動してしまっているのです。あなたの知らないところで、私は欲望に負けていた。分家の傀儡にという命令には背きながら、私はあなたに理想を押し付けていた!女神のような存在だという、そんな理想を!等身大の人間として見たりせず、女神のような存在だからと、勝手にそんな壁を隔てていた!」
ふむ、とナージャはその叫びを静かな心で聞き入れた。
「それは怒られる事なのですか?」
「してはいけない事でしょう!私はあなたに、私の理想を押し付けた!あなたが誰かの理想を押し付けられる事を厭うていると知っているのに!」
「…………一诺は、難しく考え過ぎなんですよ」
一旦落ち着かせる為にナージャは少し身を前に乗り出して手を伸ばし、一诺の頭にポンと乗せて軽く撫でる。
「例えば学校では多かれ少なかれ、思想の洗脳が行われます。勿論それはあくまで勉強であり、学ぶという行為。しかしその人次第の正義を先生によって押し付けられるというのは、同じです。これはやらなければいけないとか、その考えはおかしいだとか……勿論正しいものもありますけれど、相互理解無しの否定は拒絶でしかありません」
基本的に相互理解をする気も無く拒絶している自覚があるナージャは、ハッキリとそう告げた。
……私は主張の押し付けによる強制はしてませんし、そんな事をする先生も、そうは居ないと思いますけどね。
バイトやら心証のあれこれで大変だった為前世の学生時代などいまいち覚えていないが、多分いなかったはずだ。仮に居ても自分の事なので、忘れているだけのような気もするが。
不要と判断した全てをさっさと忘却する癖がある自分をそれなりに理解しているナージャは他人事のようにそう思った。
「けれどそう考えれば、一诺は自主性を重んじつつちゃんと教えてくれました。駄目だから駄目なのでは無くて、どうして駄目なのかを教えてくれました。私の考えを聞いて、それを理解して、尚且つそれに合わせてもくれました」
例えば食べ物など、東洋の料理を作ってくれるようになった。
量が多いのを残すのは作ってくれた一诺にも、食べ物になってくれた食材にも申し訳ないからと無理に食べれば、無理をする方がよくないと言って量を調節してくれた。
他にも沢山、沢山、ありがとうと思った瞬間の記憶は大量にある。
「……いいえ」
ふる、と一诺は首を振る。
「私はあなたに優しくして、意図的に私を優先するように刷り込んだ。きっとそうだ。私はきっとそうしたんです。あなたの為を想っていても、無意識でそう思い行動したという可能性は、いつだって」
「証明も出来ない事に囚われていては、その檻から出る事など出来ませんよ」
無意識でやっていないとは言えないなら、無意識でやったとも言えないだろうに。
「例えば、そうですね。世の中にはひたすらに暴力を振るっては甘言を囁いて洗脳する人も存在します。詳しい説明をせずに上辺だけを教え、それだけを信じている傀儡を作る人も居ます。欲望のままに相手を組み敷き、無理矢理性行為を行う人も、世の中には居ますよね」
「……私は分家から、分家の者があなたを手籠めにする為、都合の良い傀儡に育てろと命じられここへ来ました」
「長い間自分の子でも無い子供の相手を、今の私よりも幼かった当時の一诺がするというのは、そう簡単には出来ない事です。何より、一诺は結局、そんな風に私を育てたりなんてしなかったじゃないですか」
「だが!私があなたのそばに来た理由に変わりは無い……!」
血反吐を吐くような、血涙を流しそうな、そんな顔で一诺はそう告げた。
……そんな事、当然のはずなんですけどね。
ナージャは思う。
理由とはその時のもの。それが変わる事は無いだろう。例えばケーキ屋になりたいという夢があったとして、最初はただ憧れで、大人になるにつれもっと違う理由が出来たとしよう。憧れなどでは無い理由が出来たとしよう。
けれどそれは、何故ケーキ屋になりたいかと思ったかの部分については、揺らがない。
現在の部分にどんな理由があるにしろ、スタート地点が変わる事などありはしない。その人の夢の始まりは、憧れだ。例え将来的に憧れを失いながらもケーキ屋になったとしても、昔はケーキ屋に憧れていたという部分に変動は無いのだから。
……刺客として来たとしても、刺客として活動をせず、ただの一诺として私のそばに居てくれたなら、それが事実でしかないと思うんですが……。
こうして改めて向き合うと、一诺は随分とネガティブらしい。
ナージャもまあまあネガティブで後ろ向きだが、どうも一诺の方が重症のように思えた。
「一诺は無意識だとかを気にしているようですが、そんなものは差分です。切り捨て可能な小数点」
「……小数点」
「一人立ちして一人で生きていくと決めた人だって、大家さんとか友人とか、何ならお店に助けられて生きていく事になりますよね?一诺が言うような無意識を許さないのであれば、完全自給自足の生活をするしかなくなっちゃいます」
そう、これはそういう話だろう。
「そこまで厳しくしなくて、良いんですよ」
「ですが」
まだぐるぐるしている瞳で、一诺は言う。
「身の危険を感じた私があなたを裏切り、保身に走り、分家へと売り飛ばしたら」
「今まで守ってくれていたんですから、充分だと笑いましょう。分家の手籠めにされるというのは普通に嫌な事ですが、己が身を大事にするというのは当然の本能です。まあいずれ望まぬ誰かと結婚して望まぬ子を孕むのだろうとは思っていましたから、私からすれば大して変わりません」
無理矢理という違いはあろうが、心情的には政略結婚で行き着く先と大して変わるまい。
「まあ、可能なら殺されるのも孕まされるのも、相手が一诺であれば私に悔いは無いのですが」
「え」
おっと。
……いけませんね、うっかり。
本音とはいえ少々はしたない事を言ってしまった、とナージャは指先で口を押さえた。
「今のは少々本音が零れたので忘れていただくとしてですね」
「ら、了解」
まだ混乱が残っているらしい一诺が頷いたので、よし、とナージャも頷いた。
「私は、一诺と一緒に居たいと思っています。それはずっと思っている事であり、刺客であったという事を知っても変わりません」
実際のところは刺客では無い気がするが、本人が刺客だと主張するならそれを否定したりはすまい。
否定して変に意固地な状態になられても困るのだ。
「……私はナージャ様が幼少期の頃から教育係も兼任しておりました。その感情は、刷り込みでしかない」
「確かにその可能性もありますが、東洋の島国には好みの女児を攫って自分好みに育てて嫁にしたという物語があると聞きます。そう考えれば一诺はそこまでの外道ではありませんし、例え刷り込みだったとしても、私は一诺好みになれているなら、嬉しいですよ」
……というか、それが普通である気もしますし。
服はよくわからないからお任せ、メイク道具もスキンケア用品もよくわからないからお任せ、という感じで一诺に丸投げしている。
ナージャ自身そこまで頓着しない派なので、一诺の好みに寄るというのはただの必然でしかないだろうに。
……寧ろ私が積極的に一诺の好みに寄せていっているくらいな気がしますが……。
そう思えない辺り、他人のせいに出来ない真面目さが顕著なのだろう。
ナージャは一诺の事をそう思った。
「……十以上、歳が離れています」
「たかが十一違うだけですよ。十三年の付き合いがある事を思えば、大した時間でもありません。大体五十六と六十七になればそうやいのやいの言われたりもしないでしょう。年の差だ何だで騒げるのは若い内か、死神が近くまでやって来た時くらい……私はそう思います」
一诺の目を見つめながらナージャがそう言えば、一诺は頭を抱えていた手で顔を覆い、背を丸める。
「…………私は、弱い」
「一诺はいつでも私を守ってくれていました」
「心が弱い」
「その繊細さがあるからこそ、幼い私の言葉をきちんと聞いて、理解してくれようとしてくれましたよね」
「私はあなたを愛しています」
「恋か家族に向けるものかはわかりませんが、結果的に家族になる部分を考えれば、きっと私が抱く一诺へのこの想いも、間違い無く愛だと言えるでしょう」
「あなたは私が居なくとも生きていける」
「まさか。一诺がそう思っているだけです。私は一诺無しで生きていけるなんて思いません」
「あなたは生きていける強さがある」
「それは一诺が居てくれるから。実際一诺が居なくなっても私は生きていくでしょうが、それは今の私では無く、大事な存在を失った私でしか無いのです」
そう、
「今の、一诺のお陰で笑ったり泣いたりが出来る私は、一诺が居なくなったら、きっと自然と死にますよ」
一诺がもたらしてくれる優しさや安堵が無ければ、この感情はすぐに枯れるだろう。さながらそれは、栄養を与えられない花のように。
……出会う前が、そうでした。
「…………私は」
顔から手を下ろした一诺は、ナージャを見上げる。
その黒い瞳からは涙が零れ、頬に涙が伝って細い道が出来ていた。
「私は、ナージャ様と共に居たいです」
それは震えた声だった。
「私もですよ」
「でも、でも、駄目なんです。きっとあの女が私の事を告げ口するに違いない。そうすれば刺客であるという裏付けは即座に取られるでしょう。すぐさま私は処罰されます。あらゆる疑いを掛けられるでしょうし、良くてもナージャ様のそばには、二度と、近付けなく」
「ならその時は、私を連れて行ってください」
一诺が目を見開いた。
……こういう事、私、あんまり言うタイプじゃありませんけれど……。
でもここで言わなければ後悔するだろう。
言うべき時には、しっかりと言うべきだ。不安はある。当然ながら不安が心の中でどんちゃん騒ぎしているレベルで不安がある。
しかしながら、女は度胸、ともいうものだ。
……そういえば前の時、まだお父さんもお母さんも生きてた時、言ってましたね。
ふと、ナージャは前世の幼い頃、まだ両親が生きていた頃を思い出す。
「我慢しがちなら、体を壊さない程度にそれを貫いていれば良い。けれど本当に欲しいものがあった時、その時はちゃんと良いなさい」
「それまで耐えていた分の全てを出して求めちゃえば、どうにかなるわ。耐える時間が長ければ長い分だけ、解放した時の勢いは止まらないから」
「誰も止められないくらいの勢いで手に入れようとして、尚且つそれまでそれだけ我慢をして来たなら、きっと誰も止められない」
「寧ろそれまで耐えて来た分、頑張って来た分、ちゃんと良い結果に繋がるわよ」
まだ妹の紡が母のお腹に居た頃の会話。
どういう状況で、両親がその時どんな目をしていたかは思い出せないけれど、しかし優しい笑みを浮かべながらそう言ってくれたのは覚えている。
……今こそその時、ですよね!
そう思い、ナージャは一诺と共にある幸福を求め、口を開く。
「私は元々この家を出たいと思っていたから、いっそ丁度良いと思いませんか?」
……ここを出ても私に縛らせてしまうのは、って、思わなくも無いですけど……。
しかし、
……一诺もまた私と一緒に居たいと、涙を流す程の想いを伝えてくれたのですから。
ここまで話し合っておいて自分からの一方通行だと思い込むのは、不義理と言えよう。
「追い出すにしろ、あの人達はきっと必要な物を持って出ていけ、くらいの猶予はくれるでしょう。その時に私と金目の物を持って逃げちゃえば良いんです」
「そ、それは泥棒では……」
「私の部屋にある物は私に与えられた物だから構いません。寧ろ箱の中で眠っているものばかりですから、足がつかない場所で換金するなりいざという時の為の質屋行き物品とするなりは自由です。そもそも私の物なのですから」
「…………私は、あなたに裕福な暮らしをさせる事は出来ません」
一诺は顔を伏せた。
「不自由をさせる事になるでしょう。使用人は一人も居ない。洗濯も食事も掃除もやらなくてはいけない。それも、私では無くナージャ様が、です」
「わかってますよ」
「いいえ!わかっていません!例え金目の物を持って行き換金するにしろ、それで生きていく事など出来ないんですよ!それを元手に家を確保し仕事を得て、安定した金を得られるようにしなければ生活は出来ない!今までの貯金があったってそう長い事持ちはしない!そして私は確実に仕事に出る事になるでしょう!そうなると、家事などを全てナージャ様にやらせる事になってしまう!」
顔を上げた一诺は、夜空のような黒い瞳からぼろりと大粒の涙を落とす。
「私はあなたに不自由を与えたくなどない!」
「めっ」
トン、とナージャは人差し指で一诺の眉間と軽く押した。
「一诺、私の不自由はここに居る事なんですよ」
そう、ここがナージャにとっての檻。ここ以上の不自由など、そうはあるまい。
「私の不自由を一诺が勝手に決めるのは駄目な事です。そして私にとって、一诺と一緒に居る事こそが自由で居られる時間です。一诺が居ないと不自由しか無くて、息なんて到底出来ませんから」
「…………ですが」
「それに、一诺だってわかってますよね?私、結構リアルに考えちゃうタイプで、庶民派で、不要と判断したもの以外の物覚えは良いんです」
へにゃ、とナージャは微笑む。
「その、勿論教えてもらう必要はありますけど、ちゃんと覚えて頑張ります。髪を乾かしたり結んだりはやっぱり一诺にやってもらうかもしれませんけど、それ以外なら出来るはずですし」
……うん、やっぱり、このまま押した方が良いですね。
だって一诺の表情は、困っているというよりも悩んでいるという表情だ。
……悩むって事は、考えてくれてるって事ですよね。
先程の言い分からしても乗り気なのだろうと思いながら、それを信じながら、ナージャは続ける。
「……結局家事が出来ず、私を持て余す事になれば捨ててくれて構いません。疎ましくなったとしても、他に好きな人が出来た場合でも、不要と思えば捨ててください」
「そんな事はこの世が滅びようともあり得ない!」
「なら、連れて行ってくれますか?」
私はあなたと一緒に居たいと、そう強く思いながらナージャは微笑んだ。
「勿論こんなのは、ただの私のわがままでしかないんですけれど」
「……いいえ、いいえ、違います。全ては私のワガママです。断る理由を探してしまっている。私では、あなたを幸せには出来ないんじゃないかと」
「私の思う幸せは、あなた以外では得られません」
「まあ、俺もそう思うかな」
「「っ!?」」
気配も音も無く、しかし確かにそこに居るとわかる声に一诺が反射的にナージャを腕の中へと確保した。
そうして安全を確保した状態で一诺は扉の方に視線を向け、同時に安全を確保されたナージャもまた扉の方へと視線を向ける。
「…………やあ、姉さん」
そこに居たのは、片目を伏せた紺色の髪の男だった。
姉さんと言った事から恐らく弟なのだろう、ナージャからすると名前も碌に思い出せない彼は、既に閉じている扉に背を預けてもたれ掛かりながら、上げた手の甲で今更ながら扉をノックする。
「気配を消してたのは事実とはいえ、ここまで気付かれないとはね。普段一诺には気配を消しててもわりと気付かれるから、それだけ切羽詰まってたって事なのかもしれないけど」
す、と静かに目を開いた弟はもたれ掛かるのを止め、しっかりと立ち上がってその紺色の瞳で二人を、ナージャと一诺を見据えていた。
吹っ切れると強いタイプのナージャ。




